支線の先のメトロポリス
天野橋立
支線の先のメトロポリス(1話完結)
この寂れた街区に電動客車がやって来るのは朝と夕方だけ、列車の便数が一番多い日でも、片手で数えられるかどうかという程度だ。
夕方の列車が来る時間が近付くと、僕は駅へと走る。きっと、今日こそは。今日も駄目かもしれないけれど。
ホームはいつもの通り、電客の到着を待つ人たちでごった返していた。みんな背の高い大人ばかりで、僕はその間をかき分けるようにしてホームの一番前へと出る。
ベルの音が鳴り始めると、間もなく線路の彼方に臙脂色の電動客車が姿を現した。レールの上には雑草が生い茂っていたから、電客はまるで草原の海に浮かぶ小舟のように、左右にゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
やがて二両編成の小さな客車は、ホームに到着した。支線はここで行き止まりで、先へ進むことはできない。全身が
ドアが開いて、沢山の乗客が降りてくる様子を、僕は目を皿のようにして見つめる。でも、背広のおじさんたちや、制服姿の学生さんなど、見覚えのある顔ぶればかりで、僕のお姉さんの姿はやはり無かった。今日も駄目か、とがっかりしながら、車両に乗り込むお客さんたちの邪魔にならないように、僕はホームの後ろへと下がる。
電動客車が走り去ってしまうと、ホームはすっかりがらがらになった。僕は未練がましく、雑草の上を走り去る客車の後ろ姿を見送る。このがっかりも毎日のことで、すっかり慣れてはいたけれど、だからといって寂しさが消えて無くなるわけじゃない。
お姉さんは、いつになったら
支線から本線に乗り換えて、長い長い時間がかかるという
そんなある日、特別に暑い夏の日に、いつものように下り列車の到着を待っていた僕は、到着した列車から降りてきた若い女の人――髪を一つ結いにくくり、高等女学校の夏制服を着ていた――に、突然話しかけられた。
「ねえ、坊ちゃん。いつも電客を見にいらしていて、きっと一度乗ってみたいのでしょう。これをお使いなさいな。うっかり今朝、
僕のお姉さんよりは、ずっと僕の歳に近いと思われるそのお姉さんは、分厚い紙で作られた切符を差し出してくれた。思わず手を伸ばし、僕はその紙片を受け取る。
「ねえ、こちらへ戻ってくる便は、今日は次の列車で最後だから、それだけは気を付けなければいけないわ。
親切な女学生のその言葉を、僕はほとんど上の空でしか聞いていなかった。はい、あの、ありがとうございます! と叫んで、電動客車に飛び乗る。ほんの少しだけでも、これで
一人で電動客車に乗るのは、もちろん初めてのことで、これはお母さんたちにも固く禁じられていることでもあった。でも、本線との乗換駅まで往復するだけなら、あっという間のはずだった。ばれて叱られることもない。
それでも僕は、この冒険に興奮していた。油が染み込んで黒ずんだ床板、青いモケットが擦り切れかけた長座席の座面や、飾り天井の木組みの真ん中で光るバチェラー燈のオレンジの光も、何もかもが神秘的に見えた。
中でも特に――この車両が
これですっかり、僕は嬉しくなった。走り出した電動客車の、窓の外を流れる風景には目もくれず、僕は車内に残る
そして間もなく、列車は
いよいよ、僕は興奮した。夢中で覗き込んだ車内には、狭いベッドが棚のように何段か、天井近くまで重なっているのが見える。寝台列車、というものだろう。これに乗って何日も優雅に旅しながら、お姉さんのところまで行くことを夢見ている僕の目の前で、列車は物寂しい汽笛の音を合図に発車していった。
その行く先を、紅く光る小さな尾灯がほとんど判別できなくなるまで、僕はじっと見送った。陽はすでに沈んでいたが、夏の盛りのことであるから、まだ残照で空は明るい。しかし僕には、夕闇の中を疾走する夜汽車と、その彼方で強烈な輝きを放つ
向かい側のホームで、発車ベルの音がけたたましく鳴り始めた。そこで僕は突然に、切符をくれたあの女学生の言葉を思い出した。帰りの列車は次で最後、着いたらすぐに向かいのホームに渡ること。
何かに弾かれたかのように、僕はホームを駆け出した。自分の足なのに、思ったように動かすことが出来なくて、跨線橋がひどく遠い。ようやく階段にたどり着き、まだ灯りが点らない薄暗い覆い屋根の下を駆け上がる。古ぼけた踏板が、激しくきしむ。胸が苦しい。発車ベルの音は、まだ鳴り止まない。
蒸し暑い空気が詰まった橋上を一瞬に駆け抜けて、今度は階段を降りて行く。下方のホームに、来た時のと同じような臙脂色の電動客車が停まっているのが見えた。ドアの横には帽子をかぶった駅員さんが立っていて、こちらを見上げている。だいぶお爺さんらしいその駅員さんは、怒ったような顔をしていたように思うが、本当の所はどうだっただろう。
必死の形相で乗り込もうとしている子供を見捨てて発車するはずもなく、私は無事にその電動客車に乗り込むことができた。家族の誰も知らないその日の記憶は、まさに大冒険として、夏の思い出として長く心に残った。
高等職能校の行政法課程を卒業した姉は、翌年には街区に戻ってきて、郡庁の職員になった。「いつまでも帰ってこないお姉さん」が都会に住んだのは、実は高々二年間だったということになる。
ずっと後になって、ようやく私は実際に
ついに見ることの叶わなかった、憧れの都会。今でも
(了)
支線の先のメトロポリス 天野橋立 @hashidateamano
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