第3話

 絵を、描いていた。

 東京では考えられない程安い値段で借りた宿で、俺は紙と向き合っていた。

 ゼロから造形する。ゼロから創造する。幼いころから、それが好きだったのだ。ここに来て、当時のその感情を思い出したような気がしている。それがいいのか悪いのかはまだ分からないが、手が動くというのは、それだけで気持ちがいい。

 やはり創作は、心地よかった。色々な感情を周りを気にせずぶつけることができるそれは、俺にとって唯一の拠り所だった。それをここにきて思い出していた。

 しかし、それは画力とイコールでは決してない。創作意欲が沸き上がったところで、俺の絵は下手なままだし、話も思いつかない。それを話として完成させうるだけの能力が、備わったわけではないのだ。

 意欲と実力の差異に辟易する。結局ここにきてもどうしようもないのか、と一人で落胆する。

 行き場を失った感情は、空を舞ってやがて消える。消える前に掴み取ろうと努力はするが、無駄に終わることは目に見えていた。

 だから俺は、描きかけの絵を放置して、どてんと床に寝転がった。やはり値段相応というか、決して馬鹿にしているわけではないが、良い床だとは言えなかった。みしみしと嫌な音が室内に響く。

「まんが家、やっぱり絵上手いな~」

「お前、どっから入った」

 そんな俺の感情を無視するようなふわふわとした声で、もう見慣れた少女が言っていた。

 俺が先程描いていたイラストをまじまじと観察している。しかしそれは東京で知り合った編集のような、人間を査定する嫌な目つきではなかった。なぜかそれに安堵している自分がいることに気が付いて、溜息を吐いてしまう。

「鍵、あいとったよ。ここにまんが家がいるって聞いて来たんよ」

 そういや閉めた記憶がない。ここにいるのがひなだから良かったものの、危ないところだった。

「ねえまんが家! ひなもかいてよ! かいてかいてかいてー!」

 真っ白な紙をぶんぶんと所せましに振り回すひな。

「描けない、今は」

 少し迷ったが、この状態で描くわけにはいかない。漫画家としてのプライドとでもいうのだろうか。既に俺は漫画家ではないのにも関わらず、いつまでそんなプロ意識を抱えているのだろうか。自己嫌悪とはこのことだろう。俺は、自分が嫌いだ。

 しかしそんな俺の感情など知る由もないひなは、まだ続ける。

「かいてかいてかいて! こんな上手いのに、かかんともったいなかよ!」

「コンディションが悪いんだ」

「こんでぃしょなー?」

 小さな指で髪をくるくると捻る少女を見て、俺は分かりやすく言い換える。

「体調が悪いんだ」

「大丈夫!? 待っとってね! 今氷もってくるけん!」

「あー!! 嘘嘘! 描いてやるよ! あとでな!」

「体調悪くなかと?」

「あれはまあ、嘘だ」

「うそつきはいけんよ。ばーちゃんもゆっとったもん」

「ごめん」

 心にもない謝罪を手短に済ませた後、ひなから紙を取り上げて、その身長では届かないところに画材を置いた。

 それを見て分かりやすく肩を落とし落胆の表情を滲ませる彼女を見て、心が痛まないわけではなかったが、描けないものは描けないのだ。こんな状況で描いた作品なんて、駄目なものになるのは火を見るより明らかなのである。俺なりの敬意とでも言えばいいだろうか。

「じゃあまんが家! あそびいこ!」

 くるりとその表情を翻し、にかりと心地の良い笑みを引っ提げて俺に馬乗りになるひな。そんな顔を見て断るわけにもいかず、俺は諦めを持って首肯した。

 どうせ外に行くならと、もう全く使用しなくなったスケッチブックとクレヨンを、無造作に鞄に押しこんでから、先へどんどんとすすむ少女の後を追うようにして俺は外に出た。

 鍵を閉め忘れたことに気がついたのはその数分後である。



「どこ向かってるんだ……」

「海!」

「海ってなあ……。ここからでも見えるだろうが」

「泳ぐんじゃろ? まんが家は泳がんと?」

「泳がねえ」

 太陽の光が俺を刺す。前に進むひなにも同じようにそれは刺しているのだろうが、太陽光を防ぐ防壁などが張られているのではないかと疑う程、彼女は元気に地面を踏みしめていた。鼻歌なんて歌っている始末である。

 俺は鞄に仕舞いこんだ画材たちを落とさないようにと、整備のされていない獣道じみた道路を慎重に歩く。

 右手に見える海まで、ここからかなりの距離があるように思うが、まさか本当にあそこまで行くのだろうか。恐怖にも似たなにかが全身を這いまわる。

「よこちゃんもいるけんね! なかようしたってね!」

「よこちゃん……?」

「よこちゃん知らんと?」

 まさか本当に知らないのか?とでも言いたげな表情でこちらを見るひなだった。「誰だよ」と言ってしまえばその説明を聞く羽目になることは分かり切っていたので、知っている風を装って話を続ける。

 とここまで来て思い出した。あの駄菓子屋で言っていたひなの友達の名前か。思い出したところで俺の知らない人間であることに変わりはないのだが。

「分かった。仲良くするよ」

「ひな嬉しい。まんが家、ともだち少なかろ?」

「うっせー」

 思わぬ発言に、足取りが重くなる。子供というのはどうしてこう、核心をついてくるのだろうか。

「まんが家、下ばっかり見んで、前もみないかんよ。綺麗じゃけん」

「ん、ああ、そうだな」

 俺が足元ばかり見ているのは、そうしなければ足を踏み外してしまうからなのだが。

 しかしひなが言っていることもまた一理ある為、俺はゆっくりと顔を上げた。

「な、綺麗じゃろ」

「……、ああ、綺麗だ」

 眼前に広がるは、青。

 太陽光がきらきらと反射し、青はその様相を変えて、まるで空をそのまま引っ張ってきたかと見まがう程の美しさを放っていた。遠くに見える地平線が、地球は本当に球体だったのだな、と俺に理解を与えてくれる。

 吸い込まれそうな程のその色に、手が震えた。

 俺はその場に座り込み、鞄からスケッチブックを取り出す。初めのころを思い出す。俺は、こうして風景を描くのが好きだったのだ。

 俺は、絵が好きなのだ。

「まんが家? よこちゃん待っとるで、いかんと」

 いきなり座り込んだ俺の手を取り、ひなは心配そうにそう言った。

「ひなだけ行ってろ、俺はここで少し休むよ」

「疲れたと? まんが家がしんどくなくなるまで、ひなここで待っとうよ」

「いや、疲れてはない。なんでだろうな、凄く、描きたい気分なんだ。だから先に行ってろ」

 ぐるんと回り込んで俺の顔を見るひなにたじろぎながら、しかし俺は意思を伝えた。

 描けそうな気がするのだ。

 描きたいと、叫んでいるのだ。

「ううん、よこちゃんは今日はよかね、まんが家とおるよ」

 俺に倣うようにして、隣にちょこんと腰掛ける。

「いいのか?」

「よこちゃんとはいつでも遊べるけん。まんが家は、すぐいなくなっちゃうって、ばーちゃんがゆってたけ。だからまんが家とおる」

 確かに、言う通り俺はここで何かを掴んだらすぐに東京に戻るつもりだ。少しばかりの寂寥感が俺を襲う。

「そうか。じゃ、少し待っててくれ」

「うん! でも、このあとアイス買ってね、待っとる分のお礼はそれでよかけん」

「いつも買ってるだろ」

「じゃ、今日は二本」

 頭をぽりぽりと掻きつつ、俺は「わかったよ」と答えた。その答えを聞き、「よっしゃー!」と大声をあげて俺の周りを走り回るひなを「あぶねえぞ」と窘める。

 こういうのも、偶にはいいかもな。と、思った。

 スケッチブックを徐に開き、持ってきたクレヨンを右手に添えて、意思を走らせる。

 迷いのない線が一本、白を包んだ。

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