とくべつ
東
目覚ましなんて設定していなかった。
頭の中ではそうとわかっているのに、納得のできないことが、この世界には数え切れないほどある。たとえば、消しゴムは使っていたらなくなること。ちょっとぜいたくをしたくて、コンビニで高めのパンを買ったら、いつの間にかおこづかいがなくなっちゃうこと。クラス替えがあること。毎日学校に行って、勉強をしなきゃいけないこと。時間が進んでしまうこと。親しい人と別れないといけない日がやってくること。人はやがて死んでしまうということ。
実らない恋があるということ。
「髪、切らないの?」
スマートフォンから、冗談まじりのアスカの声が聞こえてくる。
「なんでよ、そんなの、ベタすぎるよ、ちょっと」
そういえば、なぜ長い髪を切り落とすのが、失恋を表すようになったのだろうか。気になった私は、アスカとの通話をスピーカーモードにして、「髪 切る 由来」で検索してみることにした。検索結果の一番上に表示されたサイトをタップすると、女の子が失恋すると髪を切る風習は、昔の日本の貴族がやっていたのが始まりらしい、と書かれていた。言われてみれば、古典の授業で見たことがあるような気がするな。剃髪ってやつだ、よく知らないけれど。古典のタケダ先生は話が長くてあまり好きじゃないから、授業もあまり身に入らない。
「えー、そう? 私はショートのミズキも見てみたいけどなあ」
おどけたような言葉が投げかけられる。アスカのいいところは、深刻になりすぎないところだ。私が考えすぎてしまう性格なのもあるけれど、アスカの底抜けに明るいところには、いつも救われている。今だってそうだ。
家に帰ってきて、ただいまも言わずに自分の部屋に入って、乱暴に扉を閉めて、電気もつけずにベッドに倒れこんで。せっかくのおろし立ての服が、シワになっちゃうな、なんて、考えてしまった途端に、すぐに瞼の奥が熱くなって。まるで閉ざされた宇宙にほうりこまれたような心地で、ベッドの隅でうずくまる。そうしたら、いつの間にか朝になっていた。カーテンの隙間からこぼれる朝日が目に眩しい。もう朝だぞ、早く起きろと、急かされているように思えて、逃げるように目を背けた。部屋に時計はないから、時間を確認するために、スマートフォンを起動する。ディスプレイに表示された9:12という文字。その下に、アスカからの着信が来たことを知らせる通知。それだけが、私の世界で唯一の光源だった。
「まあさ、言われなくてもわかってるかもしんないけど、そんなに気にすることないよ」
アスカは、昨日のことは結局どうなったのか、それが聞きたくて連絡をしたらしかった。女の子の好きなものは、いつだって他人の恋愛事情だから。私は、そういうのは、あまり好きじゃないけれど。
かと言って、恋愛についてのあれそれが、気にならないと言ったら嘘になる。雑誌の表紙に書いてある、「好きな人を振り向かせる」なんていう文句を、つい目で追ってしまう。矛盾だ、それって。
「だって、日本にあとどれだけ人がいるのかって話じゃん」
アスカは言った。やけにスケールの大きい話だ。ともすれば私の存在がちっぽけなようにすら思えてくるけれど、今はそのくらいがちょうどいいと感じる。私の悩みは、きっとそれほど大きなものではないのだと、思わせてくれるから。
「きっと、ミズキに似合う人なんて、いくらでもいるよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
アスカははっきりとそう言い切った。
未来のことなど誰にもわからない。アスカは私の未来を知らないし、私も私の未来を知らない。知るすべもない。
だから、その断言はきっと無責任だった。
けれど何よりも、その言葉は、何かあたたかいものに満ちあふれていた。
「……いい友達を持ったよね、私は」
「え、なに、突然。しおらしくなっちゃって」
「前からしおらしいですぅ」
「またまた、ご冗談を」
少しだけ笑みがこぼれる。それに気付いたのか、スピーカーの声がすこし途切れる。
「……冗談が言えるくらいでよかったよ」
「……うん」
うん。冗談。ただの冗談。ぜんぶ、そうであれば、どんなによかっただろうな。
ああ、ダメだ。また、私は。言われた言葉たちが、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。混ざりきって、勝手に組み合わさる。
「昨日のことも冗談だったらよかったのにね」
誰にもそんなことは言われていないのに、私はどうしようもなく悲しくなってしまう。
もう少し、アスカと話をしていたい。夏休みはどこに行きたいとか、漢字の宿題がめんどうくさいとか、新しく買ってもらったサンダルが可愛いんだとか、そういうことを。しかし、スピーカーの向こうからは、アスカとは違う、女の人の声がかすかに聞こえてきた。きっとアスカのお母さんだ。
ついで、「ごめん、私、そろそろご飯だから」というアスカの言葉。ご飯かあ。なら、しょうがないよね。アスカとのおしゃべりは、今日は、もうおしまいだ。
ご飯。ご飯だって。家族というものに守られた、安全だけれどあまりにも小さな世界で生きている私たちは、たったこれだけのことに縛られる。
「いってらっしゃい」
「うん。またね」
アスカとの通話が切れる。会話アプリのアスカのプロフィールが画面に表示される。アイコンの写真は、二人で一緒に遊園地に行った時のものだ。楽しかったな、あの時は。その日は学校の創立記念日で、世間的には普通の平日だったから、かなり空いている遊園地の中を、自由にはしゃぎ回ることができた。フリーパスを買って、元が取れるまでたくさんのアトラクションに乗った。途中でご飯屋さんに寄って、テーマパーク特有の高い物価に顔を見合わせたりもした。帰る頃にはすっかりヘトヘトで、歩き回った足はじんじんとして赤くなっていた。帰りの電車の中で見た、夕焼けの赤に似ているなと思った。
楽しかったんだ。今でもあの感覚を鮮明に思い出せるほどに。けれど、それだけでは済まされない。しんどいこともたくさんあったけれど、全部含めていい思い出でした。そんな風にはならない。そんな風に、世界はできていない。いつだって現実は、甘ったるいものばかりに囲まれて満足している私を、責めるように追い立てる。
まるで電源が落ちたかのように、私は再び布団の海に沈み込んだ。受け身も取らずに倒れ込んだから、耳元でばちんと音がした。鼓膜が傷ついたりしているんだろうか。でも、そんなの、もうどうでもいい。
だいたい、単純なんだよな、私は。舞い上がっていたんだ。どうしようもなく。ちょっと優しくされたくらいで。ちょっと目が合ったくらいで。
だって、そんなものなんじゃないの。誰だって、この世でいっとう好きな人の前で、冷静でいられるはずなんか、ないんじゃないの。私には、もうわからなくなってしまった。みんなもこんなに苦しんでいるのかな。こんな苦しみを、乗り越えた人だけが、大人になれるのかな。だとしたら、それはなんて恐ろしいことなんだろう。
私たちの行先は、辛苦で塗り固められたアスファルトでできている。青春時代の苦しみを、足蹴にしながら生きていく。
シーツに広がった髪を、一房手に取った。すこし枝毛がうかがえるけれど、それなりに手入れの行き届いた、長い髪。こんなに髪を伸ばしたことは、今まで一度もなかった。しかしこれも、今となっては、もう無用の長物だ。いらないものは捨てるに限る。
いや、捨てるよりも再利用するのがいい。そうだ、こないだ友達がやっていた、ヘアドネーションというのを調べてみよう。私個人の身勝手な事情で切った髪が、誰かの助けになるなんて、それはとても素晴らしいことだ。
なんだか無性に、人の役に立つようなことをしてみたい気分だった。私は、人の役に立っているのだと、そう思うことで、少しは気がまぎれるんじゃないかと、そんなひどいことを、考えたから。
人に優しくするのは、人に優しくされたい時だ。人を愛することも、おんなじなのだろうか。
瞼の裏がまた熱くなって、気付けば私は泣いていた。こぼれた雫が、白いシーツに吸い込まれていってシミを作る。
好きな人に振られてしまった。なんて、そんなの、誰にだってあることだ。誰にでも、どこにでもある、ありふれたという言葉さえ惜しいような、そんなことに、私はこれだけ心を傾けている。大人から見れば、今の私はどれだけ滑稽なことだろう。スーツを着て、少し背の伸びた十年後の私が、冷たい目で私を見下している。どうでもよさそうに背を向けて、そのまま去っていく。そんな光景が、目に浮かぶようだった。
けれど、この心の痛みは、過ぎ去った昨日に対する悲しみは、見えない明日に対する不安は、他の誰でもない、私だけのものだ。お母さんにも、お父さんにも、弟にも、アスカにも、来週の私にだって、体験することはできない。
つまり、これを背負っていいのは、今の私だけなのだ。この痛みを味わうことができるのは、私だけ。私だけに許された痛み。そう思った途端、涙に濡れている頬も、シーツに作られたシミも、ぐちゃぐちゃに広がる長い髪も、なんだか全てが愛おしく思えてくるのだった。
みじめに思う必要はない。恐ろしく思う必要はない。私の十七歳は、今しかない。それがどれだけくだらないことだったとしても、私が今感じている、この気持ちは、きっと無意味なんかじゃないはずだ。
窓の向こうから風がふわりと吹いて、カーテンを揺らす。少し暖かい、初夏の風だった。
とくべつ 東 @kisalagi000
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