第2話 後編
その後、波布女史とは、一緒に呑む機会が増えた。僕も特に何も考えずにほいほいと付いていったから、月に二三回程度は呑んでいた様に思う。こういう言い方が正しいかどうか分からないが、まあ以前に比べ明らかに仲良くはなったのである。呑んでいると言っても別に管を巻く訳では無かったが、まあ益体もないもので、要は連んでいるという表現が一番正しいように思えた。その日もまた、彼女に僕は呼び出された。こうも同じ人間を何度も呼んでよく飽きないなあ、と思うのだけれど。その日の彼女は、黒っぽい服装にジーンズで、やっぱりスカートは履いていなかった。長い髪の毛を後ろで一つに纏めている。黙っていれば物静かな、どちらかというと図書館だとか、そういう場所に居る方が似合っているのだが、口を開けば印象が真逆なのである。これで更に頭の出来が僕なんかより遙かに良いというのが少々納得いかない所ではある。
「そういえば、あのキャラクターについては何か進展があったんですか?」
僕は、その事を唐突に思い出し、彼女に訊いてみた。まあ元々相当胡乱な話なので、特に期待があるとかではなかったのだが。
「うんにゃ、特には———」
彼女はそう言った。話自体はあの場限りのものなんだろうし、彼女の方も宴席での与太話として提供したのだから、これは何もない方が自然というものだ。これで何かあれば寧ろ作為的なものを感じてしまう。
「思ったより可愛かったから、携帯の待ち受けにしたぐらいかなあ」
「写真撮ったんですか」
そう訊くと、どうやらそうでもないようだ。
「アプリで絵を描いたの」
最近のスマートホンのアプリケーションには、絵を描く事が出来るものがあるらしいのだが、それを使って描いたようだ。さてどんなものかと思ったが、なんとまあ呆れるほどよく描けている。この間見た絵をそっくりそのまま写したかのように線は綺麗だし、色遣いもセピア色がかった本当にそれっぽい絵だ。
「まさか絵の才能もあるとは———」
そう言うと、彼女はふふん、と得意げに
「そうでしょうそうでしょう」
と言った。そこで、僕はそのキャラクターの隣に見慣れないキャラクターがもう一体描かれているのに気がついた。白い肌の、ウェーブした白い髪の女性をデフォルメ—ションしたキャラクターのようだ。黒っぽいタイトなドレスを着ていて、両目の目尻にほくろがある。白っぽい尻尾、そして頭部には黒い角が生えている。訳が分からない事に、頭上には天使の輪がついている。
「何ですこれ」
僕は、先日の台詞をもう一度繰り返した。
「ああ、そっちは私が考えたの。そのキャラクターのヒロインみたいな感じで」
暇なのかこの人は。確かにお似合いと言えばお似合いかも知れないが———よく描けているのだし———何だかよく分からないキャラクターのヒロインを考えるのに心血を注ぐとはこの人もよく分からない。何かの琴線に触れたのだろうか。その後の波布女史は、なんだか妙に上機嫌で、しきりに話しかけたり身振りをしたりと、普段よりも饒舌であった。何時もは口数こそ多いものの、もう少し落ち着きがあるものなのだが。しかも何時もより酒の入るペースが早い。かなり早い。そうして、一時間もしないうちに目付きが胡乱になり、僕の勧めでその日は帰る事になった。女史は1人で歩けないという訳ではないものの、やっぱり足下が覚束ないため、僕が送って帰る事にした。
そして。その帰り道、僕は波布女史に申し出を受けて、彼女と付き合う事になったのであった。所謂告白というやつである。僕は、好感こそ持っていたものの、多少仲の良い異性程度の認識だったので、酔いが一気に覚めるほど驚いた。どうやら、今日の女史があれ程饒舌だったのは、このためであるらしかった。僕はしばし呆けていたのだが、彼女がその内返事を貰うまで帰らない、と喚きだしたので、まあ僕の方にも異存は無かったから、了承の旨を伝えて、その日は帰宅したのだった。僕が最終的に家に帰ったのは日付が変わる頃、就寝したのは午前一時くらいだったろうか。僕は玄関の方から何か物音がしたので、目を覚ました。いや、正直本当に目を覚ましたのかどうか怪しい。寝惚けていたのかも知れないし、夢を見ていたのかも知れない。外から、雨音が聞こえてきていた。身体を起こすと、リビングのドアから、オレンジ色の光が差し込んできていた。明かりが付いているのか。
ぺたり。
———角が。
磨りガラスでぼやけていてはっきりとは分からないのだが、どうにもその黒い、のっぺりとした人影には、角が生えているように見えたのである。いや、あくまでそう見えただけなのであるが、頭の形が不自然で、頭らしき部分の上に何かがあったのである。そして、忙しなく玄関口を歩き回っていた黒いものは、突然動きを止めると、ドアの方に近寄ってきたのである。
不味い。入ってくるか———。
そう思ったが、それは別に入ってくる訳ではなかった。ドアに手をついて、しきりに上半身を揺すっている。磨りガラスに張り付いた、真っ黒い手だけが異様にはっきり見えた。それは磨りガラスの窓の部分に頭を近づけていた。それが、やっぱり覗こうとしている様に見えるのだ。そうして、頭の動きがだんだん小さくなっていって、そして動きを止めて———。
気がついたら朝になっていた。どうやらまた夢か。この間といい、妙なキャラクターが印象に残っているのか、妙な夢を見る。そう思って、顔を洗おうと廊下に出ると、足の裏に冷たい感触が触った。見てみると、廊下の一部が濡れていたのである。まるで、濡れた何者かが歩き回ったような痕を残しているのである。もしや鍵が開けっ放しで誰かが入ってきたか。そう思ったが、鍵はしっかりかかったままだった。全くもって訳が分からない。洗面所に入ってみると、洗面所の床も濡れていた。もしや僕が寝惚けて洗面所か何かで水を零して、濡れた足でそのままベッドに戻ったのか。でも。あの廊下に付いた痕は。僕の足とは全然違っているようにも思えたのだけれど。
その後、波布女史はちょくちょく僕の家に遊びに来るようになった。まあお付き合いをしているのだから、そういうことの一つや二つあるというものだが、その前まで同じゼミナールの先輩という程度の認識しかなかった———まああくまで僕の認識というだけだが———人が、急に自分のプライベートに入ってきたのだから、これは何というか慣れないのだ。まあ満更でもないのに何を今更、と言われるとぐうの音も出ないが。
そんな中、先日の夢を夢とも言い切れない体験をした。その日も、彼女は僕の部屋に泊まりに来ていたのだが、夜の九時頃だろうか。僕が洗濯でもしようかとリビングのドアを開けると、玄関口の方に立っていたのだ。その例の角の生えたキャラクター————ではない。波布女史の考えた、ヒロインの方のキャラクターがである。なんだか全体的にぬらりとしていて、コールタールを全身に塗りたくった様な黒さである。
いやそっちなのかよ。
一瞬、そんな事を思った。いや、よく見ると、そのキャラクターそのものではない。なぜなら、顔が———面だったのである。僕がこの間見せて貰ったそのキャラクターと寸分違わぬ顔が描かれたお面を、そのなにかぬらっとしたモノが被っていたのだ。そして、頭の上に浮かんでいる黄色い輪が、妙に非現実的だった。
そのキャラクターは、此方をじっと見つめてきた。おかしな事に、僕はその時点でそれを怖がっていなかったように思う。状況としては明らかにおかしいのだが、恐ろしいかと言われると実際そうでもなかった気がする。それは、するりと上がり込んできて、洗面所の方に入っていった。僕が慌てて洗面所の扉を開けると、そこには何もなかった。僕は、それを見てどうしたかというと、普通に洗濯機をセットしてそれから戻ってきたのである。居間に戻ってきてから、とうとう僕も頭にキてしまったか———そう思った。女史がどうしたの、と言って心配そうにこっちに近づいてきたから、僕は何でもないですよ、と言った。とてもこのことを話す気にはなれなかったので、彼女には結局この事は話していない。
この一連の話の中で、奇妙な一致を見せたのは、その手帳のキャラクターなのであって、別に波布女史の創作物ではない。せめて現れるなら、そっちではないのか。そう思うのだけれど、どうにもいろいろな事が型にはまってくれない。しかし、結論から言うと、僕がそののっぺりしたものを見たのは、その一度きりだったのである。別にそのあと何かが起こる訳ではなかったし、そもそも現れたそれだって、こっちに何かをしてくるでは全くなかったのだ。それでは、あのお面を被った黒い人型は、一体何だったのか。全く分からない。僕の見た幻覚だったのかも知れない。後日、彼女に改めてその手帳のキャラクターについての進展を訊いてみたが、依然として全く進展がなかったのである。つまり、この話はここで終わっているのだ。
波布女史との関係は相変わらず続いている。彼女はこの関係を維持するモチベーションはとても高いようだし、僕も僕で色々楽しいので、これはまあ今のところ離れようがないのである。
ただ、一つ———僕が実家に帰ったときの事だ。本棚を整理していると、幼稚園か小学生の時に使っていた自由帳が出てきた。僕は絵が大して上手ではないので、子供の頃からあまり自由帳を使った覚えがなく、実際その自由帳には殆ど何も描かれていなかった。しかし、一枚だけ絵があったのだ。二人の人物と思われる絵が描いてあった。片方は、黒っぽくて角が生えている。もう片方は、灰色の長い髪の毛を生やしていて、頭に黄色い輪があった。
僕は少し考えた末に、その自由帳を元に戻した。これは、偶然の一致なのだ。あの角の生えたキャラクターは、彼女の友人の祖父が考えたもので、あの頭に輪の付いたキャラクターは波布女史が考えたものだ。断じて僕の入り込む隙間はない。
それで———良いだろう。少なくとも今は。
(了)
廊下 其二 @do9
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