『たった一人のために』
助けて
私は私であって私ではなかった
舞台の袖からどうやってピアノの前までたどり着いたのか
いつの間に椅子に腰掛けたのか
ちゃんと途中で客席に向かって一礼したのかさえ覚えてない
楽譜が黒い点にしか見えない
やるべきことは分かっている
課題曲と選んだ自由曲を弾けばよいのだ
そのためにこれまで練習してきた
でも私は動けない
司会者は私の異変に気付いた
一度行った曲紹介をもう一度会場にしてくれた
それではどうぞ
振られた私は震える指を鍵盤に乗せた
ポーン
二千人収容可能な大ホールはほぼ満席
私のちっちゃな体と吹けば飛びそうな小さな勇気は
重圧という悪魔によってすでに滅多打ちにされていた
演奏する前から分かっている
私の負けだ
今の私にどうして魂のこもった演奏などできるだろう
体が勝手に弾く音などに何の魅力があるだろう
負けると分かった試合でも
何も弾かずに逃げるわけにはいかない
同じ泣いて帰るんでも
これが私にとっての音楽のすべてなんです すみません
そう謝る思いで無力さをさらけ出さなければ仕方ない
それこそが 私の償い
幼少時よりピアノの英才教育をほどこされ
物心ついた今になって何で私はピアノをやっているのか
何のためにピアノを弾いているのか
分からなくなったこの私の
最後のけじめ
課題曲 『ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 第1楽章』
私の指は勝手に動く
頭の真っ白になった私は
指の条件反射だけで正確な機械のように音を刻む
ミスをしなくても どんなに正確に弾きこなそうが
こんなものはウソだ
今の私は奏者ではなくただの機械だ
審査員はきっとお見通しだろう
客席からは分からないだろうが
私は泣いていた
情けないんだよう
腹が立つんだよう
自分自身にさ
ピアノがうまいうまいってほめられて生きてきた私
将来は名ピアニストだねって当たり前のように言われてきた
私もそうなるんだと漠然と思っていた
でも 知恵がついた私は
エデンの園の木の実を取って目が開かれてしまった私は
迷いの迷宮に入り込んだ
本当にこれでいいの?
自分で考えたのでも自分で見出したのでもない
何も分からないような幼い時から押し付けられてきたピアノで
あなたの人生本当にそれでいい?
自分で考えようとは思わないの?
ああっ もう
私をいじめないでよおおお
死にたい
大観衆を前にした晴れの舞台でそう思った
でも私は曲を引き続ける
体は私の思考とは関係なく叩き込まれた動きを正確になぞる——
でも 楽しかったなぁ
思い出すよ ピアノの練習に明け暮れた日々を
お友達と満足に遊べず
プロの先生を指導に付けられて来る日も来る日も
怒鳴られることも
ひっぱたかれることも
先生は叩いたあとで涙を浮かべて言う
ごめんね
でも あなたは絶対にモノになると思うから
ここを乗り越えないとあなたはだめになる
ただの生徒ならもっとやさしく教える
あなたは違う
絶対に世に出る器
乗り越えるの
あなたの音楽をみんなが望む日がきっと来る——
辛いことばっかりじゃなかったんだよ
先生の満足いく弾きができた時
ものすごく喜んでくれた時とか
何だかとってもいいことしたみたいで
何て言ったらいいんだろ
風のほとんどない大海原の真ん中にね
プカプカ浮かんでさ
優しい潮の流れの中に身をゆだねている感じ
自分で選んだ道じゃないけど
いつの間にか敷かれていたレールだけど
音楽って いいよね
やっぱり
うん
楽しい
私の敏感な耳は聞き分けた
間違えようはずもない
会場脇のドアが開いて……
分かる
来てくれたの?
私の目は楽譜を追い
耳はピアノの出す音に集中していたけど
それでもあの気配だけは忘れられない
気付かずにはいられない
だって
私はあなたが好きだから——
あのさ
あんた次の日曜空いてる?
別に空いてなくてもいいんだけどさ
……ああっ 私ったら何言ってんだろ
大したもんじゃないんだけどさ
私ピアノのコンクールに出るんだよね
チケット余ってるからさぁ
(実は余ってなどいない この時のために無理言って確保した)
あんたにあげるよ
予定あるんだったら無理に来なくていいよ
ホントこれ余りだから 余り
……泣きたくなった
ピアノ以外は不器用で意地っ張り
何で素直になれないのかな
何だよ
あんまり期待すんなよ
オレとお前が付き合ってる~なんて噂になるぜ
そんなのイヤだろ?
ま せっかくだからもらっといてやるよ
オレ音楽好きだけどクラッシックとかピアノの世界なんて分かんねーし
だいたいさ これ開始朝の10時だろ
土曜の夜はたいがい夜更かしすっから多分寝てるな
マジで期待すんなよ
ま 余りくれるくらいだから最初っから期待してねぇと思うけど
本当は誰よりも来てほしいこの気持ち
どうしてちゃんと言えなかった
ピアノ以外のことでは何でも人並み以下 恋愛も
挫折した私の多分最後のコンサート
見届けて欲しかった
でも 半分はあきらめてた
彼は多分来ない——、って
私の魂に火の玉が入った
ボウボウと燃え盛って狂ったように出口を求めている
私は心の壁を解放した
火炎は一気に大気中に放出される
熱い
熱いよう
弾いてるのは私じゃなくなった
一応私なんだけど
あなた 一体誰?
自分で弾く音に涙が出るなんて不思議
踊る うねる 弾む 撫でる 憩う 戦う
手ごたえを感じる
客席も息を呑んでいる
ああ 音の神様ありがとうございます
あなたがいなければ私にこんな演奏はできません——
私はもうコンサートホールにはいなかった
まったく別の空間でまったくの別人になって
私の翼は遠い異次元へ
ラフマニノフを弾き終わった私は
勝負の分かれ目となる自由曲
『グリーンスリーブス』を弾き始めた
技巧的にはさほど難しい曲ではないが
私が本物なら
先生が言うような者なら
必ず人の心を動かせる
審査員も人だ
ああ
好きよ
あなたのことが
大好きなのよ
今私はなんの迷いもない
だって あなたのためだけに
たった一人あなたのためだけに今私は弾いてるの
会場のお客さんには申し訳ないけど
あなたしか見えない
あなたしか感じれない
でも
たった一人のために捧げる曲であったとしても
そのたった一人の心に届く音なら
きっと皆さんも何かを感じてくれる
見える
見えるよ
イングランドの大草原が
曲が私を呼んでる
その魂が私とひとつになる
お聴きください
これが私です
私という人間です
こんな私を 好きになってくれますか?
こんな私の音楽でも 聞きたいと思ってくれますか?
もし望まれたなら
私はもう迷いませんから
逃げませんから
泣きませんから
この道を 行きます
終わった
すべてが
最後の一音を弾き終わった時
割れるような拍手
沢山の人混みからでも見分けられる
センセイ
泣いてるね
ありがとう
心配かけたけどもう大丈夫だよ
私はピアノを一生のトモダチにするよ
そして——
お互い不器用だったけど
今 二人の心は通じ合えたかな
ピアノ分かんないって言ってたけど
あんたも泣いてんじゃん
バカ
早起きした努力は認めるけど
寝癖治してから来いよ……
私は審査を待つため舞台袖に引き上げた
結果ははっきり言ってどうでもいい
決めたんだから
私は音楽の神様に仕えるシスターになるんだから
世界中の人に音楽の喜びを伝える伝道師になるんだから
もう私を邪魔できるものは何もない
あとでどんな顔してアイツと会おう?
言うことは決めてある
クラシック興味ないんでしょ?
当然ピアノとかも分からない世界でしょ?
心配しないの
これから私がじっくり教えてあげるんだからね——
詩集『逢魔が刻』 賢者テラ @eyeofgod
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