方舟
そうやって甦らせた人類は、彼女の分け与えた組織により驚異的な頑健さと長命を誇った。
成長した個体の、生育歴に関する記憶を消去して生きる術だけをインプリンティングし、地上への連絡用カプセルに閉じ込めると、主と動力を失った後も機能を残しているオートメーション物流システムへ通電し、小さな群れになるよう意図した地点に転送する。
人類が消え、自然を取り戻した地上へと放たれた彼らはエデンを追われた人類のように、それぞれの運命と対峙した。
細胞内小器官となった機械があるとはいえ、純粋なナノマシン群体とは違う。
あるものは獣に襲われ、病に蹲り、飢えや無慈悲な天候に斃れていった。
しかし、それでも幸運な個体は子孫を残し、知恵を伝えた。
こうして世界中の神話や伝説において、少しばかりナノメカニックな機構を組み込まれた始祖の人間たちは異常な長寿を誇り、その記録が残るに至った。
人類が種としての黎明期を過ぎ、繁栄を始めると彼女の意思通り、生命体としての本来の姿で彼らは生きるようになった。
ナノマシンは沈黙の細胞内器官と化し、休眠している状態のままコピーを繰り返して、代々の人間に受け継がれていった。
少しばかりアカデミックになったところで、研究者たちは不可解なその組織を矯めつ眇めつし、口々に言う。
「これは原始の頃に何らかの役割を担っていた痕跡器官なのだろう」
そこまで見届けると、彼女は一人、海底の施設で自分自身の機能を回復するため眠りにつき、たまに目を覚ましてはモニターを記憶野に繋いで自分の「成果」を眺めた。
彼女が人類たちに伝えた、直前の人類の滅亡の記録が神話や伝説として語り伝えられているのを、彼女は注意深く彼女の中の記録媒体に書き込んでいった。
温かい灰の中に、幼子を立ち上がらせる人ならざる者の手。
何度繰り返し生み、育て、幸いあれと願っただろうか。
ヒトの醜さを呪い、自分の愚かさに絶望しそうになりながら、彼女は身体を構成する組織を分け与えつづけた。
第一世代の母集団数を、可能な限り大きくすることが人類の生存率を格段に上昇させる。
祈るように、自分の身体を解き、発生を始めたヒトの中へ潜り込ませていく。
自己修復し自らを再生する機能があるとはいえ、限度がある。
とうとう、彼女は小さな箱に入れるほどの大きさになった。
それでも、彼女を構成している人工組織は、未だ数十億のヒトゲノムパターンを記憶し、サンプルを収納していた。
汚染されきった大気が徐々に澄んでいく。
時間はかかるが、空は幾度も青い色を取り戻す。
――今度こそ、ゆっくり眠りたい。
彼女は一番最後に、自身のナノマシンを偏光配列した箱を作って自身の棺とし、そこへ納まり休眠することにした。
それがなぜか、レネの家に代々伝わり、守られてきたのだった。
そして今。
地下鉄の駅、そして線路上に、青ざめた群衆がごった返していた。
出口の階段まで立錐の余地もなくぎゅうぎゅうと犇めいている。
祈りの言葉の乾いた声以外、誰も一言も発しない。
赤ん坊の泣き声がする。
ロザリオの音だろうか、何かがしゃらしゃらと触れ合う音もする。
サイレンが不気味に響いてくる。
ヒトは、恐怖を覚えるとアドレナリンが分泌される。
これだけの人間が集まると、それは匂いとして立ち昇る。
地下の空間はむせ返るような絶望の匂いに満ちていた。
都市部において、地下鉄は地下壕、シェルターの機能を持つ。
もう半時ほどで、太陽と同じ原理を小さな金属カプセルに詰め込んだものが、この街の上に落ちてくる。
迎撃ミサイルは悉く外れてしまった。
市民は逃げまどい、地下鉄構内へと走り込んだ。
逃げ込めなかった者、自分の暮らしの中で生を終えることを選んだ者は、今いるその場所で思い思いに祈り、泣き喚き、愛する者と抱擁を交わしている。
逃げ込む先に差こそあれ、これが今、この時、世界中にいるすべての人類の姿だった。
「ねえ」
腹の底をぎゅっと掴まれているような心持で、少女は胸に抱えたテディベア柄の買い物バッグに顔を寄せ、囁いた。
「私達、どうなるの」
バッグの中の箱は囁き返した。
「このままだと死ぬ」
「ここにいても、死ぬの」
「ああ、こんなとこにいたって気休めにもならない。一人も生き残らない」
箱は、少女の腕が震えるのを感じた。
レネは母親ともはぐれ、独りで恐怖を噛みしめている。
ぱた、ぱた、と薄い帆布の生地に涙の雫が落ちてくる。
「わたし、まだこどもなのに死んじゃうの」
「まあ、なにもしなけりゃな」
箱は、静かに言う。
「なあ、助かりたいか」
子どもが生きたいと願う気持ち。
それ以上に純粋な気持ちがあるだろうか。
レネは嗚咽を漏らし始めた。
「死にたくないよ」
「では、私に願え。助けてやる」
「本当に?」
「ああ」
「わたしだけじゃなくて、ここにいるみんなも?」
「この街の人間全体でも、助けられる」
「本当なのね?」
「早くしないと間に合わんぞ」
本当にこんな箱にそんなことができるのだろうか。
もしできても、できなくても、レネはこの箱に縋りたくてたまらなかった。
自分の命よりも、大事だというこの箱。
この箱は、実際のところ何なのか。
父に固く禁じられたこと。
その禁を破った時何が起こるか、当の父さえも知らなかった。
――いいよね? お父さん……
「ねえ、わたしとこの街のみんなを助けて」
袋の中で、不思議な音が響きはじめた。
夏、冷たい飲み物を入れたグラスの中で氷が立てるカランという音。
雨の夕暮れに響くシロフォンの柔らかな低音。
寒い朝、靄の中歌う白鳥の声。
そういうものを綯交ぜにしたような、けっして不快ではない音。
箱は言う。
「ここから出してくれ」
その言葉通り、箱から帆布の袋を剥がし、それを小脇に挟もうとしたとき、レネは箱の変容に気づき、驚愕のあまり取り落としそうになった。
今まで真っ黒な箱だったのが、うすく月長石のように光りながら、透明になっていく。
危うく落としそうになり、少女は箱を抱え直した。足の上にバッグが落ちた。
煙水晶のようなうっすらとした暗い色を底に残しながら、ほぼ透明になったその箱の中にあったもの。
それは、げっそりと痩せた少女の首だった。
レネより少し年上のようだ。
レネの腹に下端を引っ掛け、ほんの少し仰のくように抱えられた透明な箱の中、キャラメル色の痩せた顔を覆うように、藻のような黒い髪が揺れる。
切れ長の目を覆ううっすらと開きかけた薄い瞼。
長く濃い睫毛の隙間から漏れる燐光。
蛍のような小さな光の玉が、その首の周りをゆっくりと旋回している。
まるで、理科室で見た、原子核のまわりを回る電子の模型のように。
首の切断面は見えないが、ちぎれた部分の組織は風化した土壁のようにぼろぼろと崩れ、そこに小さく入った罅割れは、奇妙に幾何学的な線で構成されていた。
少女の眼がゆるやかに開こうとしている。
レネは気丈に、箱をしっかり抱えていたが、恐ろしさで呼吸が細く顫えた。
――お願い、助けて
――助けてよ
自分が抱えているものの恐ろしさと、これから迎えるであろう死。
もう、ひたすら、誰かに助けてほしかった。
自分をここから、遠くどこかへ連れ出してほしかった。
レネのすぐ頭上で、甲高い悲鳴が上がった。
妙に魚臭い、母親ほどの年齢の女だ。
瞳の上下に白い部分が現れるほど目を見開き、レネの腕の中のものを凝視している。
「あ……あんた、何持ってんの」
それを合図にしたように、箱は烈しい光を放った。
強烈な光に盲いる一瞬前、レネははっきり見た。
首しかない、箱の中の少女の瞳がかっと見開かれていた。
それは光で情報を読み取るための記憶媒体によく似た、虹の色だった。
光の中で人が溶けていく。
レネも溶けている。
服の隙間からどろどろとした自分が、箱へ向かって奔流のように流れ込む。
痛みも、崩れていく感覚もなく、溶け崩れて箱へと流れこんでいく。
レネはぼんやり思った。
――そうだ、わたし、痛くも苦しくもないんだったら、消えてしまってもよかったんだ
――ただ、痛いのと苦しいのが怖くて死ぬのが嫌で、生きていたいだけだったんだ
ふと、レネは横に優しく懐かしい父と母がいてしっかりと自分と手を繋いでいるのを感じた。
――これでいいや……みんな一緒にいられるなら、これで……
人工の女神は、上半身しかない少女の姿で起き上った。
人間から取り戻した粒子は体躯の再構成には到底足りない。
やっと上半身だけ造り上げたが、皮膚には大きな間隙が開きフラッシュのように規則的に発する光の合間に肉とも機械ともつかぬ構造が見える。
体内に収めた人間達は瞬時に圧縮し、ゲノムの近しい配列でグラデーションのように並べて整理し終わった。
今の今まで人間が身に着けていた衣服、後生大事に抱えてきた様々なものが散乱する中に両の腕で身体を支え起き上ると、彼女は空から降るまばゆいものを見上げた。
それは太陽の表面温度に等しい熱とエネルギーを纏って落ちてくる。
何度この光景を見てきただろう。
――人間たちよ。私のほうは、いつになったら救われるんだ?
彼女は、静かに呟いた。
「まだ名前を教えてなかった……私の名前は、
自らが生まれたラボへ、もう一度人類を産み育てるためにアルカは這い始めた。
<了>
灰の上の舟 江山菰 @ladyfrankincense
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