雲を霞と
高野悠
雲を霞と
人よりも空想して遊ぶのが好きだった。
誰かの頭の中なんて覗いたこともないからわからないけれど、多分。
「コーヒーの専門店はあるのに、紅茶のはないんだ。おかしな話だとは思わないかい?」
いつも唐突に話を始める人だ。おかげで僕は、あいさつなしに始まる会話に慣れてしまった。
「探したらこの近くにもあるだろ」
「探さなくても見つかるところにあってほしいんだ」
Iは壁にもたれかかる。以前、服に大量の木屑が付いて大騒ぎしたのを忘れたのだろうか。
「そんなに好きだっけか。紅茶」
「コーヒーよりはね」
これでは、自分が探して教えても行かないな。
「今、行かないなって思っただろ」
どうしてわかったんだろう。
散歩をする時は、木の舟がある家の前を通るようにしている。
いつだったか。テレビで観た海辺の家は一階から船でそのまま沖に出られるようになっていた。僕はそれで舟屋と言う言葉を改めて認識して、ついでに船のある家も思い出した。それらはそっくりだったのだ。僕の知っている家は、一階の天井から吊り下げられていて、そこに違いはあるのだけれど、近くに海か川があればより似ただろう。
船のある家に気が付いたのは、散歩を日課にするよりも前。普段から使う道で見つけた。日課になってからしばらくは、舟屋を探して歩いていた。最初はいくつかあったけれど、徐々に取り壊されたり、舟が車になったりして数を減らしていった。今は、今も通る一つしか僕は知らない。
散歩をしながら、僕は最後の舟に乗っていた。最近流行りの空想だ。使い道がわからない、見つけてから今まで一度も使われていない舟に乗る。穏やかな風が吹いているけど水面は平らで、使い方もわからないオールを漕げば滑らかに進む。何かに向かって進んでいるのだけれど、目的地を決めていないから場面はいつも同じ。
だから、僕は知らない場所まで行きたかった。いつものルートをやめて山に向かう。視界から人工物が減っていくにつれて、気分は開拓者。山の向こうの未開の地こそ、僕の理想の地。きっと、嫌なことから完全に逃げられて、求めるものが何でもある、僕のために用意されたかのような場所がある。
なんて。あいにく僕は気楽に生きているから、切羽詰った事情なんて何もない。ただ考える。矛盾も何もかも気にしないで、全力で逃げた先に何かあったら面白いなあって、それだけの話。そもそも、徒歩での山越えは無理だ。知らない場所へ行くためにはいつも、足以外の移動手段が必要だ。歩ける範囲にある道は歩いてしまった。映画で観たような、幼い頃の絵本のような、自分の隣にある別世界なんてないのだから、別世界と勘違いできる場所まで足を延ばさなければならない。
だから僕は舟のある家が好きなんだ。あの意味を知らないまま遊んでいられるから。
開拓者気分は終わったけれど、足はテンポよく進む。まだ歩けそうだけれど、ルートを戻そう。
家を見つめていたIは、僕が話しかけるより先にこちらに気付いた。
「やあ」
「ああ」
今日はあいさつをする日らしい。
「ここもずいぶんぼろになったな」Iは舟を指す。
見つけた時からぼろだったけれど、敷地に入るのが不安になるほどじゃなかった。辛うじて、まだ住めるような気配はあった。
「やっぱり空き家だよな。俺はずっと、お前とかが住んでるんじゃないかって思ってた」
いつからかここで話すようになったIはイニシャルしか教えてくれなかった。僕はイニシャルすら教えた記憶がない。
Iは臆せず舟の下まで歩いていく。敷地内とはいえ道路と地続きだから抵抗はないけれど、いつか舟が落っこちるんじゃないかと思って、たまにしか入らなくなってしまった。
「そのうち取り壊されるんだろうね……舟も」Iは言う。
「台風でやられるのが先かもな」
そいつは真上の船をしばらく見ていた。
「どうした?」
静かになったIに聞く。
「舟……」こちらを向いた。「いいな」
ろくなことしか考えてなさそうな顔。
「急になんだ」
無視するわけにもいかない僕は、開いたまま捨て置かれたパイプ椅子に座る。
(( ◎ ))
次の日、僕は軽トラを運転していた。舟屋のある細い道で対向車に出会わないこと祈りながら進む。
「さ、やるぞ」
何ともすれ違わなかった幸運な車から降りてきた僕を見て、やる気に満ちたIは言った。
「本気か?」
車を持ってきた僕も僕だけれど、そう返さざるを得ない。だから自問自答の意味もある。本気でやろうとしているのかってね。
「本気だよ。さ、舟を下ろしてくれ」
僕は、信じられないとIを見る。
「手伝えよ」
「わたしはこういった作業は苦手でね。滑車があるからできるできる」
Iはニコニコして眺めたまま動こうとしない。本気かと、もう一度聞いてやりたくなる。
「滑車が生きてりゃ話が早いけど……」
二階へ続く、斜めに掛けられた梯子を慎重に上る。以前登った時より何倍も慎重な僕に、Iは声を掛ける。
「この間使った時は平気だったし、いけるさ」
面白がって油を差してたこともあるが、さて。梯子の途中から滑車とロープに手を伸ばす。
「お前、俺があげた油、まだ差してるのか?」
「もったいないじゃないか。君と同じように、油を差してまで使いたいものをわたしは持ってないんだよ」
どうやら僕らの手によって滑車は生きていたらしい。慎重にロープを解くと、舟が軽トラの荷台へ向かって下りて――いや、落ちた。
凄い音がして、無言で目を合わす。僕はそそくさと地面に降りて、壁の陰へこっそり移動していたIの隣に立つ。よかった、軽トラも舟も壊れてなさそうだ。耳にはごんごんと違和感があるけど。
「君っ、君!」
「無茶言うなよ!」
小声で言い合いながら聞き耳を立てる。網戸が開いた音がしたけど、玄関が開く音はしなかった。
「もっと、こう、わらわら人が来るかと思った」胸に手を当てるI。
「とうとうあの舟も落ちたか、くらいで納得してほしいな……」
呟いて、道路を見るが誰もいない。
「見つかったら怒られるだろうな」僕は言う。
「ちょうどいい。誰かに盛大に怒ってもらいたい気分だ」
変に爽やかなIが、この場に似合わない。
「なんだそれ」
「じゃ、速く行こう。運転は君だ」
「噓だろ……長距離嫌いなんだけど」
「無免許のわたしよりマシさ」
「しっかしこの車もぼろいねー。心なしか避けられてないかい?」Iは笑う。
祖父から借りた軽トラは、祖父と僕とがつけた傷でいっぱいだ。
「うるさい。近付いたら当てられそうな車に誰が近付きたいよ」
赤信号の先には山を抜けるトンネルがある。昨日、徒歩だからって諦めた山だ。後戻りしたい気持ちとそうでない気持ちが最悪な乗り心地によって混ざり合い、不思議と心を振るわせる。本当に――本当に向こうに何かがあるかもしれない。
ルームミラーで背後を確認した。普段は意識しない電波塔が見える。ランドマークがある町だから、帰りの心配はしなくても大丈夫。迷うことはないだろう。
アクセルを踏む。暗くなって、「ライト」Iの言葉で点ける。高くない山だ。目が慣れる前にトンネルは終わる。
目の前には僕の住む町と変わらない、見慣れた風景。
「はは」
当たり前だ。始めて通った道じゃない。
普段はそうでもないのに、舟まで積んで馬鹿なことしているから、当たり前の風景にショックを受ける。
「なあに、新天地はまだ先だろ?」
僕の顔を見てIは微笑む。
今気付いた。Iを舟屋以外で見るのは初めてだ。
やがて、建物の切れ間から湖の水面が見え始めて、僕はここへ来た経緯を、落ち着いた気持ちで思い返していた。
(( ◎ ))
「そろそろ、この家もダメだと思うんだ」
きらきらした顔は相変わらずのまま、Iは続ける。
「そうだな」
椅子に座り見上げる僕は、つま先を上げたり、下げたりしていた。Iは何を言い出すのだろう。
「空き家だろう? ここ」
知ってるよ、と呟く。前にも話したじゃないか。
「何故こんなところに舟屋があるのか、調べてみたんだ」Iは僕を見た。「君は知りたくないだろうけど」
頷く。この舟は空想に続いている。自分で舟がある理由を考えるのは楽しいけれど、Iみたいに正しい答えは知りたくない。
「君にとって舟は、桃源郷へ連れてってくれる乗り物――ってところだろう? それは壊したくはない」
「理解があって助かるよ」
Iはにやりと笑う。なら、ろくでもない話はここからかな。
「どうだろう。むしろちょっとヤな事かもしれない。なあ君、最後に桃源郷とやらを探さないか」
「馬鹿か」
Iは眉を上げる。意外だなという風に。
「どうして。桃源郷に行ける舟だろう?」
「それは俺の空想な。どう転んだら実行する気になるんだよ」
空想を壊したくないのなら、あるはずのない桃源郷を探すなんて馬鹿げてる。いや、理解がないなら馬鹿ではない?
「聞いてみたかったんだ。舟がなくなったら、君の空想はどうなる?」
「そうだな……」
始めての疑問に即答するのは難しい。散歩ルートは変わるかな? 昔、どんな空想をしていたっけ。
「いつか忘れるんじゃないか?」
Iはにやりと笑う。さっきよりも強く。
「いいじゃないか。いつか忘れるなら探しに行こう。わたしは舟に乗りたいんだ」
僕は散歩を終えた。
探してみる、探さない。波のように結論は揺れる。そして朝、僕の気持ちは探してみる方に傾いていた。
(( ◎ ))
湖の砂辺に軽トラを停めた僕は、ちょっと自慢げだった。
「ほら、無傷だぞ」
「途中ちょっと冷や冷やしたけど、忘れてあげよう」
僕は聞こえないふりをして、荷台へ乗る。
「滑車まで連れてきてる」
僕は舟に片足を突っ込んで滑車を退かす。
「わたしたちが乗って出発する間に落ちたのかな」
不器用に固定した舟は、とても二人では降ろせない。
「じゃあ、わたしと君とで助けを呼ぼうじゃないか」
好奇心で近付いてきた釣り人のおじさんを筆頭に集まってきた人たちで、何とか舟を引き摺り下ろす。居座りそうだったその人たちを、日が暮れるからとか言って追い返した頃にはずいぶん暗くなってしまった。
僕は砂浜に仰向けに倒れる。特別綺麗でもない空が見える。
「もう嫌だ……捨てて帰ろう。そうしよう」
様々な筋肉が悲鳴を上げている。舟を出す気力もない。今日の朝の結論と、力仕事を一切手伝わなかったIを恨んだ。
「乗せるのは、絶対無理だろうね」
薄々気付いてはいたけど……まあいっか。誰かわからないけど許してくれるだろう。
とにかく僕らは朝を待つことにした。
(( ◎ ))
夜が明ける前に目覚めるなんて、人生数えるほどしかないことだ。座ったままの身体は痛いし首は明確に痛めていた。右に曲がらない。ドアを開けて砂浜に流れ落ちる。Iみたいに砂浜で寝ることも考えたけれど、下を向いて寝る癖のある僕が真似すると、砂を吸い込みかねない。
「寝る場所を変えたら寝られない人だったよ」
トラックの反対側からIの声が聞こえる。
「その割には元気そうじゃないか」
もし首を痛めていなかったら、Iを置いて帰っていたところだ。
よいしょと起き上がる。
「この紅茶、あまり美味しくないね」
缶の紅茶を飲みきったIは、自動販売機の方へ捨てにいった。頭だけが変にすっきりしていて、身体は昨日以上に疲れていた。
軽トラから水辺の船を結ぶ、抉れた砂を均していたら完全に明るくなった。朝日に輝く湖は対岸が見えなくて、なるほど。新天地でも桃源郷でもなんでもありそうな感じだ。ただちょっと舟に自信が持てないけど。
首が右に曲がるようになるにつれ、またわくわくしてきた。寝不足ゆえだろうか。なんでもいい。まだ静かだし、いい天気。最高の船出になるだろう。
どちらからともなく、始めようかと顔を合わせる。
「沈みそうだな……そもそも浮くのか?」
ここまでくればもうどちらでもいい。今の清々しさをそのまま持っていきたい。
「大抵の木は浮くはずさ。船としての機能がまだあるのかは別としてね。沈んだら泳いだらいいさ。もしくは浮かんで救助を待つか」
間違いなく溺れるだろうけど、新天地に向かう船にそれは似合わない。
昨日、半分以上水に付けた舟は、二人で押しても動いた。
「すごい、浮かんだ!」
Iは嬉しそうだった。
「浮いた……」
沈んだら、帰らざるをえない。でも、浮いた。まだ進んでいける。ここまで来たならきちんと浮いて、僕らが目指す場所まで連れてってほしい。
願いどおり、僕らとオールを乗せても舟は浮いていた。
もう、どこへでも行けそうだ。
「君はどんなところがいい? わたしは、コーヒーよりも紅茶が飲まれている町だといいな」
オールから曲線を描いて伸びる水が音を立てた。
「そうだな……」
僕は考える。
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