第49話 ラ・ダンツァ・マーカブラ(3)
ゴンゴン。
窓ガラスを叩く音が聞こえて、ルカは薄っすらと瞼を押し上げる。強烈な眩しさに襲われて、思わず目がくらんだ。
痛む頭をさすりながら首をもたげると、黄色いヘルメットを被った見知らぬ男が、車のサイドガラスからこちらを覗き込んでいた。
「…………?」
鈍る頭でどうも、と軽く頭を下げながら、ルカは男の肩越しに見える景色へと視線をやった。鬱蒼と生い茂る糸杉の森。その上には、清々しいほどの青空が広がっている。七日七晩続いた嵐が嘘のような快晴だ。
「(快晴……?)」
そこまで考えて、ルカの体はすべてのスイッチが一斉にオンになったようにバッと飛び起きた。振動でビートルが揺れ、眠りこけていた三人も奇妙な声を発しながら、びっくり箱の人形さながらに飛び起きた。
「追いつかれる! ……って、あ?」
起き抜けの顔で、三人は一様に目をぱちくりとさせている。一拍置いて車内を飛び出せば、蒸し暑い夏の空気が全身をむっと包み込んだ。
わんわんと虫の鳴き声がそこかしこから聞こえてくる。
「どうなってんだ。俺たち、逃げ出せたのか?」
空を見上げながら、半信半疑でアダムは呟いた。
「どうやらそうみたいだね」
ニコラスも疑った口ぶりで答える。頭上に広がる真水色の空が、逆に不気味なくらいだ。
「でも私たち、どうして車の中で寝てたんだろう。さっきまでは廊下を必死で走ってたのに……。今までの出来事は全部、夢だったのかな」
「全員が同じ夢を見たってか? それもこえーよ」
「だよね。でも、とりあえず無事でよかった」
口々に疑問を交わしつつも、明るい日差しに誰もがホッと胸を撫でおろした。
そこでやっと、一同は側に立つ男の存在に目をぱちくりとさせた。
「ところでおじさん、誰?」
ニノンが尋ねる。それは向こうこそ聞きたいことだっただろう。熊そっくりな体躯の男は、黄色いメットの下でつぶらな瞳をぱちぱちさせた。
「お前たちこそ、こんなとこでなァにしてんだ」
間延びした声で男は問いかける。
「あの、俺たち、このあたりにあるホテルに泊まっていて……ここは、一体?」
説明しようと思ったが、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
まごつくルカの言葉を一掃するように、背後から馬鹿でかい笑い声が聞こえてきた。
「サンディさん、もう来とったかァ!」
背後を振り返ると、同じく黄色いヘルメットを被った屈強な男が、大股でこちらに向かってくるところだった。サンディと呼ばれた男は、もう一人の男に片手をあげて挨拶してから、「なるほどなァ」となにやら訳知り顔で頷いた。
「お前さんたちの言うホテルってェのは、そいつのことかい?」
サンディは、立てた親指で自身の右手側をくいくいと指した。
「そいつ……?」
ルカたちは示された先を視線で辿った。糸杉が
深緑の葉陰の中、溶けるように、今にも崩れ落ちそうな廃墟が佇んでいたのだ。
「あれは、マーカブラホテル……ですか?」
ルカの声が僅かに震える。
壁をびっしりと覆い尽くす蔦。窓ガラスはバリバリに割れ、看板が掲げられていたはずの場所には腐食した骨組みだけが残っている。人がいた痕跡など微塵も感じられないほどの朽ち果て様だ。
ということは、昨日まで宿泊していたホテルは――恐ろしい考えに至って、一同はゾッとした。
「マーカブラ? なんだァその不吉な名前は」
サンディは口を開けて豪快に笑った。
「ここは〈グランノーブルホテル〉っていってよォ、かつて五つ星ホテルだったところだぞ」
アダムは「は?」と訝しげに眉をひそめた。
あの男が口にした名前は確か〈マーカブラホテル〉だったはずだ。
難しい顔をしている面々を見て思うところがあったのか、サンディは片眉を上げて「なるほどなァ」という顔をした。
「お前さんたち、もしかして幽霊ホテルに泊まったのかい?」
「ゆ、幽霊ホテル!? おっさん、なにか知ってんのかよ!」
目を丸くして迫るアダムに、サンディはにやりと笑ってみせた。
「まぁ、このあたりじゃあ有名な噂話だからなァ。おおい、アレ持ってきてやれ」
そう声を掛けると、熊のような男はのんびりと返事をしながら、側に止めてあったトラックに向かい、一冊のファイルを抱えて戻ってきた。
「ほれ。これだよ。グランノーブルホテルで起こった殺人事件について書かれているだろう」
四人は顔を寄せ合い、広げられたファイルのページを覗き込んだ。見開きページいっぱいに、切り取られたたくさんの新聞記事がスクラップされている。小見出しにはでかでかと〈悲劇の五つ星ホテル〉の文字が躍り、その後に続く細かな文字の羅列と共に、複数の写真が掲載されていた。
「あっ!」
声を上げたのはニノンだった。
被害者として掲げられていた男の顔に見覚えがあった。骸骨のような落ち窪んだ目元に禿げ上がった頭。画家のモーリス・カーロだ。
そしてその隣に並ぶ、もう一人の被害者の写真。
「そんな……ヴァネッサちゃん」
それ以上言葉を続けることができなくて、アダムはモーリスの隣に掲載された写真をじっと眺めた。白黒の枠の中で、赤毛のショートカットの女性が微笑を浮かべている。
「もう何十年も前の事件だそうだ。当時のホテルのオーナー、えー、なんて名だったかな」
「ジーノ・トワイニングね」
ニコラスが助け舟を出すと、サンディはポンっと手を叩き「そうだそうだ」と頷いた。
先ほどの切抜きに写真こそ載ってはいなかったが、容疑者として本文に見知った名前が載っていた。モーリスが偽名として選んだのは、皮肉にも自身を殺害したかつてのパートナーの名前だった。
「なんでもトワイニング氏と画家の間でいざこざがあったとか。勢い余って殺しちまったらしい。ヴァネッサって子はよォ、画家の世話係だったみてェだな。たまたま食事の準備に部屋へ訪れただけだったのさ。画家の体から血ィ吹いてんのを目撃しちまったんだねェ。口封じだったのか、氏の頭がイカれちまってたのか定かじゃねぇが。献身的に画家を支えていた子だったみてェだが、浮かばれねえよなァ……」
サンディは苦い顔を廃墟に向けた。
殺人容疑でオーナーが逮捕されたあと、ホテルは次の経営手がなかなかつかず、ほどなくして廃業になったという。後を追うようにして新街道が開通すると、人々の話題はすぐにそちらへと流れた。やがて、忌まわしい事件の話を口にする者もいなくなった。
何者かが廃墟となったホテルに忍び込み、墓荒らし同然に絵画を盗み出す事件が頻発したのはここ最近の話らしい。
ルカは耳を傾けながら、昨晩のできごとを思い出していた。サンディの説明は、モーリスが語っていた内容とほぼ同じだった。
「だがそれもよォ、しばらく経つと新聞にゃ『盗難』の見出しよりも『交通事故』の見出しの方が多くなっちまってな」
「どういうことですか?」
ルカが問うと、サンディはぼりぼりと頭を掻いた。
「盗難事件が増えたのと同じころ、この近辺で失踪事件も頻発してなァ。そいつらはどういうわけか、一週間経ったころに旧街道の糸杉の森の中で見つかるのさ。スクラップ状態の車の中でな。おそらく猛スピードで大木に突っ込んだんだろう」
失踪者が発見される前日はいつだって、旧街道一帯は嵐に見舞われた。激しい雨風に視界を奪われ、運転を誤ってしまったのだろうとサンディは言う。
「しかもだ。車の中からは決まって盗難品の絵画が発見されるってんで、世間は『幽霊ホテルの呪いだ』なんて騒ぎ立てたのよ」
サンディは大袈裟に肩を震わせた。きっと噂話だと信じているからこそ、こんなにも演技めいた口調で話せるのだろう。
四人は軽々しく相槌を打てずに、曖昧な表情を浮かべた。噂話で片がつく話ではないことを知っていたからだ。だが誰も、その事実を口にする気にはなれなかった。
「で、あんたらは一体ここでなにをしようってんだい? まさか事故を起こす前にコソ泥を捕まえようってわけでもないでしょうに」
ニコラスは腕を組みながら、黄色いヘルメットの二人組をじろじろと眺めた。サックスブルーの埃っぽいツナギはよく見るとペアルックのようだ。警察官にしては少々お粗末な服装をしている。
「そんなモンでねェよ」
熊のような男がゆったりと首を横に振る。
「俺たちホテルを解体しにきたただの工事業者でさ」
「工事? ホテル、潰しちゃうの?」
驚くニノンに、男はうんうんと何度も頷き返した。
「もうずいぶん前から要望があったらしいんだけど、どういうわけか、工事をしようとすると決まって嵐に見舞われるのさァ。いつも中断ばっか続くもんで、しまいにゃどの工事業者も匙を投げちまったんだよ」
「そんなときに呼ばれたのがなにを隠そうこの俺、サンディだったってェわけよ!」
「おっさんが?」
「おうよ」と胸を張る姿に、アダムが冷たい視線を投げかける。そんな事には気にも留めず「いつだって晴れ男、それがサンディたる
「嵐が晴れたのって、画家が成仏したからなんじゃねえの」
二人の男に背を向けながら、アダムはヒソヒソとニコラスに話しかけた。
「もしくは、本当に彼が晴れ男だったのかもね」
「だったら俺たちが事故に遭わずに済んだのは、あのおっさんのおかげってわけ?」
「そうなるわね」
なんだそれ、とアダムは唇を尖らせた。
「生きて帰ってこれたんだしよかったじゃない。ね、ルカ――どうしたの?」
ニノンにそう声を掛けられて、ルカは踏み出していた一歩をそのままに、首だけで振り返る。
「ちょっと、ホテルに忘れ物」
「忘れ物?」
なにか忘れたっけ、とニノンが窓ガラス越しに車内を覗き込む。
「ホテルが壊される前に行ってくるよ」
そう言い残し、ルカは今にも崩れそうな廃墟の中へ向かった。
しばらくしてから目当てのものを抱えて戻ってくると、アダムは嫌な顔を隠しもせずに、サッと車のトランク前で両手を広げ、通せん坊をした。
勘の鋭い男だ、とルカは素直に感心する。
「ダメダメダメ。ぜーったいダメだからな」
「まだなにも言ってないよ」
「たった今! お前の言いそうなことは、超能力者みたいに、手に取るようにわかったの!」
アダムは言葉の端々に力を込めて非難した。
ルカが抱えているのは、ホテルに飾られていた連作〈死の舞踏〉だった。
「モーリスさんはもういないよ」
「信用できねえ。俺は呪いとか幽霊とか、もうこりごりだもんね!」
アダムはルカが動くたびに同じ方向に身体を動かして、ダメだ、の一点張りをする。小心者の男を見兼ねたニコラスが、至極真面目な顔で人差し指をぴんと立てた。
「アダムちゃん、あれは幽霊なんかじゃなかったのよ」
「はあ? じゃあなんなんだよ」
「妖精よ」
「妖精だあ?」
「そう。絵画の妖精。それでいいじゃないの」
「妖精!? へぇー!」
ニノンが感嘆の声を漏らして、場の雰囲気がますますややこしくなる。
「いや、へえ~じゃねえし、それでいいわけねえだろ――おいルカ、勝手にトランク開けんな! 許可してねえぞ!」
ルカはいそいそとトランクに絵画を詰め込んで、ごちゃごちゃうるさい男を「アダム、ありがとう」と礼で押しきった。
不意に、木葉の隙間をぬって風が吹いた。
蒸し暑い風には、まだ少し湿ったにおいが残っている。そこに激しい嵐の名残が溶け込んでいるかのようだった。思えばヴェニスの町を出たときからずっと、自分たちは画家の執念によりこのホテルに誘われていたのかもしれない。
――世界は変わるよ!
ふと、あのときモーリスに告げたニノンの言葉が、ルカの頭を過ぎった。
今自分が立っているところからは見えない真実が、すぐ側で眠っている気がする。生まれ故郷から一歩踏み出した今、コルシカ島を巡っていけば、見えてくる景色も変わってくるだろうか。
そうであればいいと、ルカは思う。
他愛もない話題に興じているニノンの横顔をぼんやりと眺めていると、その顔がこちらを振り返った。「なに?」と照れたようにはにかんだので、ルカもゆるく笑顔を返した。
「お前さんたち、まさかとは思うが……盗っ人、じゃあねぇよなァ?」
サンディの疑いの目が、トランクの中に積み込まれた絵画の束をじろりと射抜いている。
「依頼されたんです」
「依頼?」
ルカは頷く。私を忘れるな、と叫んだモーリスの声が蘇った。
「保護してほしいって、頼まれたんです」
ご本人に、という言葉を、ルカは心の中だけで付け足した。
サンディがなにか言いたげに口を開いたので、アダムはトランクから一番上に積まれた絵画を引っ張り出して、慌てて二人の眼前に突き出した。
「ほら、これ。エネルギーに還元できないような絵ばっかだぜ。んなもん盗ってどうしろっつーんだよ」
二人はほぉ、と納得したのかしていないのかよく分からない相槌を打った。
しかし、やはり怪しさを拭い去れなかったのだろう。男たちは眉根を寄せて、四人を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺め倒した。なにしろ幽霊ホテルに忍び込む物好きなんて、ここ数年絵画泥棒ばかりだったのだ。疑うのも無理はない。
「お前さん、一体何者だ?」
「俺は――」
訝しげに尋ねる男へ、ルカは静かに視線を向けた。
もうじき崩れ落ちてしまう、廃墟と化したホテルが背後に見える。跡形もなく消え去った後には、きっと緑がその空間を埋め尽くして、ホテルが建っていた名残も消し潰してしまうだろう。
だが、このホテルで画家が胸に秘めた想いや人々の感情は、残された絵画に宿る。たとえ時の流れとともにキャンバスが色褪せようとも、修復すれば何度だって蘇るのだ。
「コルシカ島の、しがない絵画修復家です」
バタンとトランクの閉まる音が、快晴の空へ抜けていった。
〈第七章 マーカブラホテルへようこそ・完〉
コルシカの修復家 さかな @sakanasousaku
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