第二話「銀髪の少女」
「まだ第一話で死なないでよね、このクソ主人公っ」
鈴が鳴った。
いや、声が聴こえた。爽やかで甘い声だった。
甘いと言っても、蜂蜜ではなく取れたて新鮮な西瓜の甘さ。媚びが少しも感じられない透き通った声音の、水のような清涼感が耳を洗い流す。
それとは裏腹に、天から降ってきたのは言われなき謗り。お世辞にも綺麗とは言えない言葉づかいに、抵抗する体力もなければ憤慨する気力もない。
その発言内容はいまいち判然としない。
だが、何より口調に殺気がないことが、死を数秒前まで意識していた体を弛緩させる。
貶されて落ち着くなんてあまりにも滑稽。どこのマゾだと問いたくなるが、その声には不思議と、小川の音のような心地よい安らぎがあった。
声の主は、何かに気づいたように体の向きを奥の方へと変える。
「あら、さすがに一撃という訳にはいかないわね」
どこか呑気で、退屈で、気怠げな態度。しかし落ち着き、余裕があり、場慣れしている。
いわゆる「舐めプ」とも捉えられかねない余裕を持った振る舞いは、彼女の経験豊富さ、戦いにおける錬度の高さ──そして、自信を感じさせる。
「死になさい。ラル・ワインド!!」
少女の凛とした声を起点に、強烈な突風が生まれる。
土煙が爆発的に上がり、傍に倒れている人間の身体すらを転がし――煽られた身体は、見事に地面から引き剥がされ、横向きにもんどりうって二転三転。
三半規管はかき回され、お腹に溜まっていた液体が胃の中で暴れ、産卵期のサケの勢いで口元まで遡上する。
少し力の抜けていた身体は、見事に地面の硬さをありとあらゆる凸部で味わう。四肢はあっけなく重力に組み伏せられた。再び五感を失った身体はほとんどの機能を停止し、喘いで息を出し入れするのがやっと。
「…ぐ、はっ……」
助けに来た少女にトドメを刺されるなんて滑稽な話があるだろうか。
それも、少女はあくまで他の何者かに攻撃の矛先を向けており、倒れている人間など眼中にない。別の対象への攻撃の余波で、勝手に少年は吹っ飛ばされたのである。
「ラル・ワインド」――ただの風魔法。常人なら蝋燭の火を消すか、気まぐれに木の葉を飛ばすくらいにしか使わない。最もシンプルで、ただし規格外の風魔法に。
少年は転がされながらも、その原因を作った少女に邪気を感じることはなかった。
空中で煽られ、まさに木の葉のごとく軽々と転がされる身体、その容赦なく回る視界から見えたのである――声質から想像されていた、まさに「少女」であることが。
そしてこの一瞬が、少年がその少女を、『はじめて』目にした瞬間だった。
状態はあの世まであと二歩。状況はその少女の魔法で吹っ飛ばされたところ。どんなにひどい縁結びの神でも、さすがにもうちょっとマシな出会いを用意するだろう。
一目惚れなんて、現実世界ではそうそうない。人生で一度あるかないかだ。あったとしても、それが叶うことなんて滅多にない。
だからこそ一目惚れの歌詞だとか、恋愛小説とかギャルゲーが跳梁跋扈する。
だが、少年――黒髪眼鏡に安物のパーカー、街を歩いて数えれば両手に余るほどいそうな外見の男。ただし全身がトマトジュースの樽に浸されたかのような色であることを除けばだが――は、一目惚れなるものをしてしまったようだ。
それが一目惚れかどうかは分からない。なぜならその19年の人生において、一目惚れをしたことがないからだ。
しかし、視界が少女を捉えた瞬間、モノクロの視界は色彩を生んだ。
全身ボロボロ、五体不満足、意識は朦朧、魂ギリギリこの世。しかし心だけは突如、除夜の鐘の100倍速で鳴り始める。
理由は少し考えればわかった。
なぜか命のやり取りをしている状況。自分の血で汚れた地面。それを踏みしめる、神々しい美貌。そして突如ぶっ放された魔法。
少年は考えるまでもなく、薄々感づいていた。
どうして現実世界にはありえないような一目惚れをしたか。
そんなこと、ここが『異世界』だからということに他ならない。
年齢は15,6歳ほどに見え、少しあどけなさを残す顔立ち。髪、目、口元は、いずれも常人とは一線を画した造形。それらによって形作られる雰囲気は、静謐さを持ちながら、しかし『いる』ことを無意識に宣言するように、圧倒的な存在感を醸し出ている。
まるでその一本一本が光を集めて輝いているような銀色の髪は短く切り揃えられ、本人の起こした旋風を受けてふわりと浮き上がり、その輝きをいっそう増す。
深海のように澄んだ碧い双鉾。それはまるで何かを決意しているかのように、鋭い眼差しを放つ。
潤いのある口元はきつく引き結ばれ、軽い口調とは裏腹に少女の強い警戒感を示していた。
それはどこか嬉しげで、でもどこか悲しげで――。
「ラル・シャウタッ!!」
再び少女の声が空気を切り裂く。比喩ではない、文字通り空気を切り裂いている。
少女の口腔で圧縮された空気は高密度のエネルギー弾となって、前方に直進する。無色透明の殺戮兵器は矢の如く空を切り、一切方向を変えることなく標的に衝突。
いや、衝突という表現は正確でない。
正しくは、その弾道上に標的があった。ただそれだけの話だ。
それを言葉にするならば、一番近い言葉は――「通過」、になるだろうか。
標的が為すすべなく一欠片も残さず爆散し消失したことを確認すると、少女はふっと短く吐息を漏らす。
「『記述』の修正は完了、後は私の管轄じゃない」
これで仕事は終わったとばかりに、少女は両腕を上に伸ばしてやれやれと一つ欠伸をする。
起きたばかりの子供がするような無邪気な欠伸。それはただ日常の一コマのようで、数瞬前に起きた圧倒的な破壊力、その根源が少女であるということを微塵も感じさせない。
やっと少女は気付く。傍らに倒れていた少年が、今回の任務で守るはずの人間が、自身の放った魔術によって吹き飛ばされてしまったということに。
下手すればオウンゴール、肝心の保護対象にトドメを刺すという最悪極まりない結果を生みかけたミスに、少女は心の中で舌を出す。これがもし上官にバレていたら、間違いなく単なる注意では済まないだろう。
「減給かな…?降格かな…?それともカ・イ・コ?」
少女は軽く呟きながら、地面に力なく横たわる少年の下へ向かう。
片手で掬えるぐらいの意識は、辛うじて少年に残されていた。解剖間近のカエルを思わせるように地面に縫い付けられた全身は、もはやピクリとも動かない。それでも肺は空気を求め、心臓は血液を動かし、脳は朦朧とする意識を何とか現実に繋ぎとめていた。
一時は全身の毛の先を震わせるほど迫っていた死の気配。張り詰めた空気はいつの間にか完全に消失し、その場に存在するのは仕事を首尾よく終えた少女の、緩やかな雰囲気だけだった。
助かったのか、と安堵する。
また助かってしまった。
また?
前にも、同じようなことがあったのか…?
あるかもわからない漠然とした記憶に疑問を呈する少年の下に、足音はゆっくりと歩み寄る。
それは死の気配をもたらす足音ではなく、今度こそ未来の道標をもたらすような足音に感じられて――。
「ふーん、面白い手ね」
少し立ち止まってから言った少女の短い一言。
この発言がはたしてこれからどれほど大きな意味を持つのか、まだ倒れている少年は、この時は気付きもしない。
「また、会いましょ。
――ノザワ・リイチ くん」
つかつかと、足音は離れていく。
聞きたいことが山ほどあって、知りたいことが山ほどあって、分からないことが山脈くらいはある。
それでも気力は意識を保つだけで精一杯で、その必要性が消失した今、急速に疲労が全身を覆い始めていた。
意識も、少しずつ奥底に沈んでいく。
「――って、重症の怪我人を放り出していくなよ!!」
満身創痍の少年の心の嘆きは、もはや声にすらならない。
ノザワ・リイチの意識は、完全に落ちた。
読者の応援で話がつづく物語 たーにゃ @tanyatanya
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