読者の応援で話がつづく物語
たーにゃ
第一話「始まりは接吻から」
───詰んでいる。すべて、詰んでいる。
「クッソ、バカみたいに痛ぇな…」
痛いとは言ったが、嘘だ。痛みなんて感じていない。いや、痛みなんて感じられないくらいには神経ごとボロボロにされている。
そもそもこんな発言自体していない。言ったと感じたのは口を動かしたと認識した脳の幻覚だ。発話する能力を既に失った口は力なく開かれ、外の冷えた空気がその中を蹂躙している。
肺は呼吸を欲し、その酸素を豊かに含んだ気体を大きく吸い込もうとするが、潰された気管支がそれを妨げる。
「あっ……あ…………あっ」
地面と接吻する唇は、19年間恋い焦がれてきたファーストキスを叶える。初めてのキス──その甘美な響きに答えるのは、その唇よりもはるか昔から存在し、土の匂いとともに唇をざらざらと擦りつける、粗い砂。
初めてキスした人は大抵いう。思ったよりずっと温かくて柔らかい、だなんて。そんな彼女いない歴19年の人間には分からない感覚を、リアルで簡単な形容詞2つで言語化しないでほしかった。おかげで無駄に純粋で甘美な期待をしてしまった。残念ながら答えは、冷たくて硬くて痛いだ。ちなみに相手は地面。
痺れた四肢を動かそうとする。酸素の足りない脳で必死に命令を送るが、その信号に応答する者はいない。力なく横たわった右手は、血が通っていないことを感じさせる薄青紫をとっくに通り越して、そのまま地面に吸い込まれてしまうような土気色だ。
「……んっ……んぐっ…」
限られた音しか出せない自分の声に思わず笑ってしまう。いや、正確には笑ってなどいない。笑うための頬の筋肉を動かす力なんて残っていない。地面に叩きつけられた顔の、角度によっては人の横顔の印象を決めうる顎から耳にかけての輪郭──それを維持するのが精一杯だ。
だから、笑ったのは心の中だけだ。この程度で終わるのかという自嘲気味の笑い。これ以上はもうどうしようもないという諦念の笑い。どうしてこうなってしまったのかという後悔の笑い。
いまあの人はどうなっているだろうか、こんな無様な終わり方をする自分を見て、それでもそんな自分のことをまだ気にかけていてくれているんだろうか──そんな自分本位な欲求を最後まで残している、救いようがない自分への笑い。
喉奥に何かが突っかかり、咳が出る。何度か腐った床板が軋むような感覚の痛みが首を貫き、飛沫が顔の手前に射出される。最後の魂を出し切ったかのようなそれは、涙と汗と──生温かい液体でぼやけた視界から察するに、真っ赤な痕跡を地面に残して、じんわりと染み込んでいった。
微かに動く指先が土に軌跡を残す。ダイイングメッセージを書くなんて体験、人生で一度きりかもしれない、なんてシュールな感慨。
だがそもそも瀕死で喘ぎつつ横たわる半死体が、上から見てくっきりと読むことのできる文字を、はたして指先の位置感覚だけで書けるのだろうか。痛みを感じるなんて甘いレベル、はるか昔に痺れてその感覚を消失させている指の先は、少し土に擦っただけで今にも折れそうなのに。
とはいえ今の状況では、指が折れたとしても美容師が髪の毛を無造作に切るような感覚しかないだろうけれど。
「……あぅっ…」
足音が聞こえる。ゆっくりと、でも着実にこちらへと歩を進める足音は、地面から伝わるその振動だけでわずかに残った痛覚を刺激するのに十分だった。視界が明滅し、音は途切れ途切れになる。まるで世界から自分が切り離されてしまったかのように。
もう、終わりは間近だった。死神の足音は確実に近づいている。死神?それとも天国へ案内してくれる天使?いや、これまでの人生をつらつらと思い返しても、地獄に行く原因となるような行為は100個を優に超えれど、天国に行ける理由なんで全く思いつかない。
血の池でもがいていた盗人すら蜘蛛の命を助けたことがあった。自分は誰かのために何かをしたのだろうか。
いや、しようとした。誰かのために生きようとした。そしてそれに失敗した。無様に地に倒れ伏し、あまりに無計画で浅慮で肝心なところでは意気地のない自分を呪っている、負け犬の末路。
何かをしようとすることなんて誰だってできる。でも、それは達成されなければ意味がない。やっていないのと同じなのだ。
残念ながら、世の中は結果がすべてだ。勝った者は称賛され、その努力にスポットライトが当たり、その栄光のゴール輝く道筋は褒めそやされ、後進に勇気を与え各々の道を照らす太陽となる。だがそれは同時に、並行してゴールにたどり着けなかったいくつもの、数えるのが憚られるくらい恐ろしい量の道のうちの1つになった可能性を孕んでいる。
やってみなきゃわからない。そして、やって勝たなきゃ意味がない。
───それが、あっさりと希望の光を微塵も残すことなく願いは絶たれ、 ボロ負け、いやコールド負けと言っても差し支えないくらいに酷い負け方をした男の、人生を賭けた大勝負と言えば聞こえばいいが──単に、一人の少女を救うために視野の狭いある種の義侠心と自己陶酔を優先して散った、ある名もない男の最後の結論である───結論にしては単純すぎで、単純な結論にしてはたどり着くのに遅すぎたのではあるが。
背中の上で何かが動く音がする。空間がゆっくりと混ぜられ、力が溜まるのを感じる。足音は脇でぴたりと止まっていた。その者の体重移動する足が起こす地面への細かな振動は、とっくに全ての五感を放棄した体には伝わってこない。気配だけを感じる。気配を敏感に感じる。
五感が潰えてしまったからだろうか。人間は普段ノイズが多すぎるのだが、実は諸所の感覚をきれいさっぱり取っ払ってしまえば、本能的に命に関わる重大な出来事を感じることができるのだ。それを人は時に、第六感と呼ぶのだが。
振り下ろされる。いや、振り下ろされているのだろう。見えない聞こえない感じられない、でも気配だけが伝わる。
これで終わるという、濃密な死の気配を感じる。諦めたくせに身体は正直で、まだ生きることへの本能的意志にしがみつこうと何とか地を這おうとするが、それに応じる手足は虚しいことに一つもない。
詰んでいる。すべて詰んでいる。
───振り下ろされる。
───銀色の鈴音が、響いた。
「まだ第一話で死なないでよね、このクソ主人公っ」
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