第1話 悪運は珈琲に溶かして

その日は本当に運が悪かった。

どのくらい運が悪かったかと言うと、それはもう人生で一番と言っても過言では無いほど。

朝のニュースでの星座占いが最下位だった。時計の電池が切れており時間を間違え学校に遅刻した。鞄に入れたはずの宿題が見つからず提出出来なかった。それにより先生の雑用に選ばれた。何も無いところで五回は躓き、そのうち二回はしっかりと転んだ。


そして何より、先程、付き合って二年の彼に唐突な別れを告げられてしまった。


決して不仲だったわけではないし、喧嘩をした訳でもない。

ただ、彼に好きな人が出来てしまったのだ。私よりも好きな子が。

彼のことがなんだかんだ好きだった私は傷ついたが、それは彼が悪い訳では無いし私にはどうにも出来ないことだったため、彼の別れの提案に首を縦に振らざるを得なかった。

縋るなんてことも友達から『お人好し』のレッテルを貼られている私には出来そうもなかったのだ。


そんなことがあった学校からの帰り道はやはり足取りは重く、家に帰る気にもなれないほどだった。

気分転換でもしなければやってられないと思い、慣れ親しんだ道とは違った方向に歩き出す。

どこかお店に入ろうにも、お金も大して持っていないのでどうしようもない。けれど家には帰りたくない。そんな思いでぐるぐると考えながらただひたすら歩き続けていた時だった。


ふと目に入ってきたのはこじんまりと佇む本屋。

はて、こんなとこに本屋なんてあっただろうかと不思議に思い少し近づいてその本屋を見た。

古いと言うほど古くは無く、けれど新しくもない見た目の本屋は客がいないのだろうか、静かである。

そうして眺めているとふと窓の方から視線を感じ、そちらを向く。するとそこには長い黒髪を一括りにした女性が柔らかに微笑んで私を見ながら手招きをしていた。

まあ行く宛も無い上に、折角呼んでくれているのを無下にもする訳にもいかない。私はそっと扉を押し、その本屋へ足を踏み入れた。


店の中に入れば古紙と珈琲と木の匂いが混ざったどこか懐かしいような心が落ち着く香りがした。ふと店の中を見回せば、見た事のあるタイトルの本から私には理解も出来そうにない古書まで様々な本たちが綺麗に並べられている。

そんな本達に囲まれて私を手招きした女性は店の少し奥まったとこに座っている。そして微笑んだまま私に向かって声をかけてきた。

「いらっしゃい。まあまあとりあえずそこの椅子に座ってよ。」

何故か嬉しそうに彼女は私を彼女の座る場所のテーブルを挟んで目の前に置かれた椅子に私を招く。私が恐る恐るその椅子に座ると未だにこにことしながら私に尋ねる。


「貴方は、何を見つけに来たの?」


私はこの女性の言ってる意味が分からなかった。いや、私を店の中に呼んだのは貴方だろう。別に私は本を見つけに来たわけじゃない。たまたま通りすがって目に付いたから覗いていただけであって…。そんなことをぐるぐると考えていると彼女は私の考えていることを分かっているかのように言葉を続けた。

「いやね?確かに店の中に呼んだのは私なんだけど…。」

「でも、こんな見つけづらい店の前になんだか浮かない顔をした普段本を読まないですって感じの子がいたからさ、」

「何か悩んでるのかなあって思って。」

何故わかったんだろう。私が今日のことを悩んでること。

「ああ、言い忘れてた!ここは本屋なんだけど、ちょっと変わっててさ。」

「ここは何かモヤモヤしてることとか、考えても分からないことを抱えたふらーっとやって来た人達の話を聞く場所。」

「それで、その人達に何かを見つけて帰ってもらうの。」

ふふと笑って彼女は言う。ああ、なるほど、私はここに来るべくして来たのか。確かにここに来るまでに私は行く宛もなく彷徨っていた。

「ささ、なんでもお話して!あ、でものんびりお話出来るよう珈琲を飲みながらにしよっか!ちょっと待ってて!」

そう言うと店のさらに奥にパタパタとかけて行った。

ここで、彼女に私の気持ちを打ち明けたら、私の中のこのつっかえは取れるだろうか。私は少しの期待と不安を抱えて珈琲を抱えた彼女が帰ってくるのを静かに待った。



少しして彼女が珈琲とそれに入れるためのミルクと砂糖、それから二人分のクッキーを持って戻ってきた。

「いやあ、待たせてごめんね。ちょっとクッキーどこに置いたか忘れちゃってさ。」

「あ、大丈夫ですよ。そんなに待ってないですし。」


「それなら良かった!うん、じゃあ珈琲でも飲みながらゆっくり教えて?君が思ってることと分からないこと。」


彼女はさっきとはまた違った優しい笑みを浮かべて私の目を真っ直ぐに見てそう言う。


「あの、今日、運が悪くて。朝から本当についてなくて。」

「彼氏にも振られちゃったんです。」


私のたどたどしい喋りをうんうんと頷きながら彼女はしっかりと聞いてくれる。ポロポロとずっと抱えてたものが口から零れていく。


「彼、好きな人が出来たんです。私じゃない子。だから別れて欲しいって。私はうんとしか言えなくて。」

「でも本当は別れたくなかったんです。大好きだったんです。」

「なんで私じゃダメだったんだろうって悔しくて苦しくて。」


ああ、なんだか視界がぼやけてるなあ。珈琲に雫がぽちゃんと音を立てて落ちる。


「それが誰にも言えなくて。たかが恋愛かもしれないけど、私には人生の中で一番大事で幸せな時間だったんです。」


目の前の彼女をはっきりと見ることは出来ないけれど、きっと微笑んでいた。変わらず優しい笑みを浮かべながら頷いて聞いてくれていた。そんな彼女が口を開く。


「そっかそっか。君にとっては大事だったんだね、彼との時間が。彼と過ごした日々が。」

「それが急に無くなっちゃったから、苦しくて仕方なかったんだね。」


声が出ないくらいの嗚咽をしながら目から雫を流していた私はただ必死に彼女のその言葉に頷く。苦しかったんだ。なんでって思ったんだ。この二年傍にいて、楽しくて楽しくて仕方なかったあの日々が、今日あの一瞬で無くなってしまったという事実が。


「君はさ、彼との日々が楽しかった?」


静かに首を縦に振る。


「じゃあ、その彼との日々は別れた今もう忘れなきゃいけない?」


目の前の彼女が私に優しい声で問う。その問いには首を縦に振れなかった。振りたくなかった。


「うん。そうだよね。忘れたくないよね。それでいいと思うよ。」

「だってそれは''君にとっての''大事なものでしょう?」

「君の大事なものは君がちょっとずつちょっとずつ積み重ねてきたものだよ。だから、君以外が捨てることなんて出来ない。」


ずっと分からなかった。別れてしまった今。別れを告げられてしまった今。私は彼のことを忘れなければならないのか。周りは皆、次の男に切り替えろと言うけれど、周りの男の子とは比にならないくらい彼が好きだった私には無理な話で。


「たかが恋愛だと周りが言っても、君にとっては彼とのそれが大事だったということは変えられない。」

「忘れなくていいんだよ。何年、何十年か経ったある日にまた取り出しても、君の人生の大事な一部だったと言えるようにしまっておけばいい。」


ああ、そうか。捨てなくていいんだ。彼との大切な日々を。幸せだった二年間を。苦しくて仕方なかったこの数時間が彼女の言葉で少しずつ、少しずつ癒されていく。


「でも、それを捨てるのも君次第だよ。いつか彼を超えるくらい好きな人が出来たとして、その時に彼との思い出を捨てたいと思うのならそれもまた君の選択だ。」


少し悪戯に微笑んで彼女はこちらを見ながら言う。彼よりも好きな人か。出来るだろうか。まあ未来の話なんて分からないし、のんびり待ってればいい。そうなったらその時考えよう。


「君の思い出は君のもの。好きにしたらいい。」

「…はい。」


心がすっきりした。傍から見たらたかが振られたごときでと思われるかもしれないそんな私の苦しさを出会って数分の彼女は解放してくれた。彼女の言葉は重いわけでも軽いわけでもない。

ただ、真っ直ぐだった。

「ありがとうございました。私の話、聞いてくれて。私の悩みを解決してくれて。」

「いいのいいの!私が聞きたかっただけだし。それに私もなんか熱くなっちゃって…。」

ちょっと照れくさそうに頭をかきながら私に笑いかける。私も釣られてなんだか微笑んでしまった。

彼女は珈琲を飲んでから一息ついてまた柔らかに笑う。


「なにより、今の君みたいに人が前向きになる姿を見るのが好きでね。」


彼女はパンっと手を叩くと私に向かって言う。

「さて!君の気持ちも晴れたことだし、何か楽しい話でもしよう。珈琲のおかわりならいくらでも淹れるからね!」

なんだか楽しく笑う彼女を見ていると私まで嬉しくなってきてしまい、彼女とまだ話していたいと思った私は来た時からは考えられないくらい、元気よく、返事をする。


「はい!」


私はこの後、自分の失敗を楽しそうに笑いながら彼女が話すのを夕飯の時間にギリギリ間に合うくらいまで聞いていた。

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気分屋な聞き上手 桐崎零 @RaiN_818

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