『序章』~邂逅/覚醒~③
マンションのロビーの柱の一つに体をもたれると、張り詰めていたものが緩み、どっと疲労が押し寄せてきた。
マンションはオートロックで、暗証番号を打たなければロビーから先へは入れないようになっている。まだ完全に安全というわけではないが、しかしここまでくれば後は中へ入るだけだ。
荒い息を整える。息が整うにつれて、だんだん頭が回るようになってきた男は、今後の身の振り方についてあれこれ思案した。
(上手く撒けたはいいが、追っ手を始末できなかったのは痛い。もし情報が本部に露呈すれば、梶間課長は俺をトカゲのしっぽにするだろう。)
男は頭を抱えた。
「なんで俺がこんな目にあうんだ! 俺はエリートだぞっ!? そこいらの人間よりよっぽど価値がある人間だ。まして、あの組織の中では! 」
ヒステリックになった彼は声を荒げた。
そしてブツブツと己の不運を嘆きながら、よろよろとロビーの奥の自動ドアの前に立ち、慣れた手つきで部屋番号と暗証番号を入力し、扉を開錠する。
すぐに扉が開いた。彼は痛む足を引きずりながら、開いた扉の中へ入っていった。
男の心にひとまず安堵が広がる。
(ともかく、今は急いで高跳びの手配をしなくては)
男が上階へとあがるためエレベーターのボタンを押した、その時
ふと、背後の扉で何か物音が鳴った。
それは、何かと何かの間に異物が挟まったような鈍い音だ。
エレベーターを待つ男の顔に冷汗がにじむ。
全身が凍ったようにその場へ張り付き動かない。心臓が痛いくらいに脈打ち、鉛のような恐怖が体の芯まで浸透していく。
男はなんとか首をひねり、肩越しに背後を覗く。
「・・・っ!」
そこには、髪を後ろで結んだ詰襟の学生服の少年の姿があった。しかし、二点を除けば、その姿はどこにでもいる学生と大差はない。そう、その少年の眼が異常に血走っていることと、その手にナイフが握られていること以外は。
「オトナとしてさぁ、信号は守んなきゃダメだろぉ」
友人との会話のように笑って男に話しかけ、少年は今にも閉じようとしている扉の端を掴んだ。「―――なぁ、オッサン?」どうやら扉が閉まる直前に足を挟んで止めたらしい。
男は何とか地面から体を引きはがし、迷うことなくエレベーター脇の階段を駆け上がった。恐怖で
勢いよく階段を駆け上がる男の耳に階下からカツカツと足音が聞こえてくる。
(銃だ! 部屋に隠した銃であの餓鬼を殺す!)
男はひたすら階段を駆け上がることに全精力を注ぎこんだ。
と、男が五階の踊り場に差し掛かったとき、突然携帯が鳴った。その音に気を取られた彼は前傾のまま転び、階段の角にしたたかに脛をぶつけた。
「・・・・ッ~~!!」
男の顔に苦悶の表情が浮かぶ。あまりの痛みに声が出ず、ただ空気を震わせることしかできない。
(あとすこし・・・あとすこしで―――)
痛みにうずくまった彼は、目前の階段に自分以外の影が伸びていることに気がついた。
いつの間にか少年は、彼の背後に追いついていたのだ。
一閃、何かがきらめいたかと思うと、次の瞬間、男の背中は袈裟型に切り裂さかれていた。
灰色のジャケットと白いシャツは裂け、深く傷つけられた傷口からドロドロと鮮血がこぼれて男の丸まった背中を真っ赤に染めていく。
先ほど以上の耐え難い痛みに男は絶叫した。
もはや、少年を殺すことなどは考えられなかった。痛みから逃れたい。死にたくない。頭の中でただその言葉だけを反芻した。満身の力を振り絞り、男はなんとか階段を上がり始めた。
少年はというと、その後ろについて歩き、足を引きずって歩く男の姿をただ眺めていた。それは、軽蔑や見下すような様子ではなく、ただただ男の一挙手一投足を観察し楽しんでいるようだった。
何とか自宅の扉の前へ着き、尻ポケットからカギを取り出す。震える手で鍵穴を回して解錠し、男は中へと倒れるようにして入っていった。
「―――おっじゃましまーす!」
と同時に背後で少年も中へ押し入ってきた。
しかし、それを気にしている余力はもうなかった。
「畜生・・・俺は、死なねえぞ。こんなとこで・・・死んで、たまるかクソが・・・」
男は意識が朦朧としながら、手探りで寝室を目指した。
途中、床に置いた調度品に躓きながら、男は何とか寝室の前にたどり着いた。
扉を乱暴に開け放ち、ベッドの隙間に手を入れる。そして男がそこから銃を取り出したその刹那、少年は男の手をナイフで深く突き刺した。
「―――ぐあああああああッ!」
男は銃を取り落とし、手のひらから血を流して固いフローリングに上に倒れた。
「ゴォーーール!」
少年は叫んだ。
「見事にゴールテープを切ったなオッサン! いやあ、こんなにしぶてぇ奴は初めてだったよ。うん、アンタに期待してよかったよかった」
彼は、ケラケラと笑いながら、うんうんと頷いて足元の男に言った。
「―――目的はなんだッ! 金かッ!? それとも『組織』に依頼されたのかッ!?」男は痛みでのたうちながら叫んで言った。
「『組織』ィ? 」少年は笑った。
「なんか知んねーけど、俺はただアンタを殺したいなと思ったからここまで追っかけてきただけだよ」
てかこのチャカホンモノ?
少年は床に転がった銃を見て言った。
まさか、相手が単なる通り魔だとは思いもしなかった男は耳を疑った。
「俺は・・・俺は、こんな、わけのわからん餓鬼に殺されるのか・・・・・・」
「そーだけど?」ニカっと少年は八重歯を見せて笑った。
「・・・・・・・・・・・・」
男は痛みに体を震わせながら、視界の端に先ほど落とした銃があるのに気が付いた。
(・・・奴の隙を伺ってあれを取ろう。それまでは、・・・時間稼ぎだ)
「・・・最近、この地域一帯で起こってる、通り魔事件の犯人・・・あれお前か?」
息も絶え絶えになりながら、以前ニュースで聞きかじった情報を頼りに必死に言葉を紡ぐ。
「お、正解」少年は手でナイフを弄びながら言った。「よくわかったね?」
「犠牲者は・・・全員が三十代の男・・・つまり、俺みたいなやつが、当てはまるってわけだ・・・」
「―――え、オッサン三十代なの?」少年が意外そうな顔をする。
「てっきり、四十くらいかと思ってた。ごめんな」
「・・・お前は・・・、何者だ?・・・」出血多量で飛びそうな意識を何とかつなぎとめる。手足の先が冷たくなってくるのを感じる。残された時間は、そう長くない。
「見りゃわかんだろー? 青春真っ盛りのリッパな高校生ってやつだ」
少年の視線はその手に持ったナイフに注がれている。
「・・・そうか、」男はこちらの思惑が伝わらないように努めて言った。
「・・・それは、悪かったな―――!」
男はすばやく横に転がり、無事なもう片方の手で床の上の銃を手に取る。親指でセーフティーを外し、少年に向けて発砲した。乾いた音とともに、銃弾が発射される。しかし、その弾は狙いを逸れ、少年の頬をかすめるだけにとどまった。
(しまっ―――)
その刹那、少年は獣のような速さで男の腹部に鋭い刃先を突き刺した。
ズブズブと奥へ刃物が飲み込まれていく。やがて、横隔膜を破り刃先は膵臓へと到達した。噴き出た鮮血が少年の手を伝い、地面に大きな血だまりを作る。
「そーいや、あいさつがまだだったわ」男の腹に刃物を突き立てたまま、少年はあっけらかんと男の耳元で言った。
「―――はじめまして、俺は
「そしてさようなら、六人目の犠牲者サン」
崩れ落ちる男が最後に見たものは、自身の血で濡れる漆黒の殺人鬼の不敵な笑みだった。
Degenerate Blue. 吉戒 湖業 @gris_aube
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