『序章』~邂逅/覚醒~②

 その男は、繁華街を抜けてすぐに背後の追跡者おっての存在を察知した。

 

(距離は・・・おおよそ十五メートルといったところか?)

 

 見てくれこそ同年代の、三十代前半ほどのサラリーマンと大差ない彼だが、その素顔は、いわゆる『反社会的組織』に属する構成員だ。

明日の命すら確かではない修羅場を日夜行き来しているため、背後の気配には人並み以上に敏感だった。

 

 男は追っ手を撒くために普段の帰路を外れ、なるべく人気のある繁華街のほうへと歩みを向けた。信号につかまらないように慎重に道を選択していく。不用意に立ち止まれば、逃げる間もなく殺されてしまうからだ。

 平時こういう場合の判断と敵の始末は、専任の護衛を使っている。

護衛は偵察、工作、暗殺に秀でた選抜射手マークスマンだ。彼女であれば最善のルートを選択し、人目がつかないように追跡者をあしらうことなど造作もない。

だが、不運なことに今日の夜はちょうど別件の仕事に向かわせていた。今から連絡をとったとしても、暗号化されてない通信なうえ作戦行動中の彼女がに応じるとは思えない。      


(・・・ああ、畜生)


自身の迂闊さと間の悪さに腹をたて、男は内心で毒づいた。

 

 しばらく道なりに歩いていると、飲み屋でにぎわう繁華街に出た。

 据えたような臭いと、ホステスの黄色い嬌声、やかましい客引きや狂喜乱舞する酔漢で賑わうネオン街の雑踏、彼はその間をぬってすり抜けていく。

 途中何度も酔漢やらチンピラに肩をぶつけ、口汚く暴言を吐かれたが、気にもせず先を急いだ。

とした人間が発する熱気と背後からの緊張プレッシャーで吐きそうになるのを堪えながら、男は追跡者との距離を離すことに腐心した。

 しかし、どれだけ人ごみに紛れても、複雑な道に入っても追跡者はつかず離れず、絶妙な距離を保ち、背後についたまま離れる気配がない。

 単に強盗目的のチンピラの動きではなく、明らかに尾行慣れした者の、確立された技術だった。


(『組織』からの差し金か・・・)

 

 男の頭にもう一つの不安がよぎる。

 今日、とある暴力団と行った取引は『組織』の意向に反するものだった。

 もしこれが、『組織』から差し向けられたものなら、それはすなわちを意味する。

 そうでなくとも、今日この日の行動が知られたら、幹部として、構成員として地位を失うことは免れないだろう。男は最悪の事態を想像して、心臓が冷たくなるような錯覚を感じ、身震いした。


(このまま歩いていても時間の問題だ・・・!)

 

焦った男は、背後を気にしつつ懐から携帯電話を取り出した。震える指先で電話帳を開き『v―20』という登録名を押す。


(出てくれ・・・っ)


祈るようにして彼は携帯を耳に当て、呼び出し音を聞いて待つ。

しかし、いつもなら三コールで出るにもかかわらず、彼女はついぞ最後まで応じることはなかった。


「―――クソッ! ダメか!」


男は思わず声を荒げた。駄目でとは言え希望が断たれた彼は目に見えて冷静さを欠いていった。


 やがて繁華街を抜け自宅のある住宅街に近づいてきた。

 彼の五十メートル前方に見える横断歩道、そこを渡った先からは丘に面して建設された閑静な住宅街が広がっている。高級住宅街のため、この時間は人通りが少ない。いまその道を悠長に歩いていては追跡者に殺せと言っているようなものだ。

 しかし、そこを通らねば自宅へはたどり着けない。

(渡らずこのまま逃げ続けるか。いやしかし、奴を殺さなければどのみち俺に未来はない・・・)男は葛藤した。

 そうこうしているうちに横断歩道が近づき、決断までの猶予はあとわずかとなった。

 男のシャツは汗ばみ、心臓が早鐘を打ち始める。

 足の筋肉が緊張で固まり、口の中が乾いて仕方がない。

 前方の信号が青から赤に変わった。歩道まで残り約十数メートル、契機チャンスは今この瞬間しかない。


(―――ままよっ!)


男はさしていた傘を脇に投げ、横断歩道めがけて駆け出した。背後の追っ手もそれに気づいたのか走り出す。男は信号待ちの人間たちを押しのけ、眼前で行きかう車を無視し、横断歩道の上に飛び出した。


「―――キャッ!」


背後の群衆から悲鳴が上がる。

男のすぐ前と後ろでけたたましいクラクションが鳴り響く。

彼は死の恐怖を押し殺し、足がもつれそうになるのを堪えて必死に走った。

 

 やがて命からがら横断歩道を抜け、対岸の歩道にたどり着いた。

 しかし息つく間もなく、今度は長い坂道を駆け上がる。

 耐え難い運動量に、呼吸器が悲鳴を上げ、ぜえぜえと呼吸に痰が混じるようになってきた。額から伝って入った油汗が目に染みる。

 男は丘に居を構えたことをいまさらながら激しく後悔した。

 街から自宅に近づけば近づくほど、あたりは静かになってくる。辺りからは、男の走る音と荒い呼吸の音だけがマンションの壁に乱反射して聞こえる。まるで自宅までの道標のように、道なりに置かれた街灯達は、アスファルトにぽつぽつと光を落としていた。


「―――うっ!」


 突如感じた痛みに、男は思わず足を抑えてうずくまった。どうやら筋をどうにかしてしまったらしい。「こんな時に・・・っ!」男は悪態をつきながら、ふたたび前へ進もうとした。

いつッ・・・!」男は激しい痛みに思わず声を漏らした。この状態では、もはやとても逃げられそうにない。


(追いつかれる・・・っ!)


まるで冷たい水が背筋を伝っているような恐怖を感じ、男は恐る恐る背後を振り返った。


「・・・・・・い、ない?」


気配とは裏腹に、背後にそれらしき人物の姿は見えなかった。ただ来た時と同じような景色が広がっているだけである。歩道からここまでは、家屋に続く細かい路地こそあるものの、基本的に一本道だ。隠れようにも、追いかけながらでは無理がある。


(俺の思い過ごし・・・いや、用心に越したことはない)


男はゆっくり立ち上がると、足を引きずりながらマンションへと急いだ。

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