Degenerate Blue.

吉戒 湖業

『序章』~邂逅/覚醒~①

 夜も更け、しんと静まり返った学校。

 昼には溢れんばかりに満ち満ちている喧噪と若き青春のエネルギーも、今は消え失せ、陰鬱な暗闇だけが静かに学校を飲み込んでいる。

 学校の巨大な漆黒の影は、一切を拒絶し、内と外を隔絶する城塞にも見えた。

 いま、その城砦の屋上に静寂を切り裂く一つの音が鳴り響いていた。

これは、有名なミュージカルの劇中歌『雨に歌えば』《シンギングザレイン》の鼻歌だ。うろ覚えなのか、時折音程が外れているが気にしている様子はない。

 音の出どころを探すため、街の明かりでうっすら明るくなった学校の屋上を見渡すと、詰襟の学生服を着た少年が一人、打ちっぱなしのコンクリートの上に仰向けに寝転んでいた。

 彼は、左手を頭に、右手の指の間に煙草を挟んで、時折吸っては紫煙を吐き出して、鼻歌を空に向かってハミングし、大きく開かれた彼の猫の様な黒い瞳は、吐き出した煙と暗い夜空をアンニュイに眺めていた。

 彼の退屈そうな瞳とは対照的に、その顔にはまるで「楽しくて仕方ない」と今にも言い出しそうな、底抜けに明るい表情が浮かんでいる。人気のない学校の不気味さも相まって、それがどこかアンバランスで奇妙な印象を与えた。

 なぜこんな夜更けに一人、それも学校の屋上に少年がいるのか。

 それはこれから彼が『青春』をするまでの時間つぶしだ。

 『青春』とは何だろうか。一般的には青春とは、モラトリアムに浸る健全な少年少女たちによる、未発達ゆえの、刹那的で、しかし格別な、生きることへの喜び、未来への希望、そして自分という個の実感、その享受のプロセスを指す。広く中高生の恋愛や若者同士の友情などを指して使われる言葉である。

 無論、ここで一般的と言ったのは、彼の『青春』がそれらの『健全なモノ』達に当てはまらないからだ。

 彼がしようとしている、否、既に幾度か行ったその『青春』という行為は、一見これらに当てはまらないようにも思える。しかし、少年である彼がその行為に感じているソレは、間違いなく定義に適ったものだと言えるだろう。

 空を見上げる少年の鼻先に何か冷たいものが当たった。少年が指で鼻先に触れてみると、それは水滴だった。どうやら雨が降ってきたらしい。示し合わせたように、しとしと雨粒が落ちてきて、コンクリートと少年の身体を濡らした。

 鼻歌が止んだ。少年は地面で煙草をもみ消してやおら起き上がり、身体を伸ばした後、雨で張り付いた前髪を掻き揚げ、眼下の歓楽街の光に目を細めた。

 屋上という外界から俯瞰した街は、その内側にいる時よりも眩しく、鮮やかで、そしてどこか退廃的な煙が立ち込めている。

 それはどうしようもないほど醜悪だったが、なぜだか彼はこの街を嫌いにはなれなかった。それは一種、そこに己の姿を重ねてしまう部分があるからかもしれない。

 

「―――そろそろ、かな」


 彼はそう呟くと、雨で濡れ冷たくなった学生服の裏ポケットに手を入れた。彼の指先がそこにしまったモノに触れる。

 やがて取り出したソレは、降りしきる雨のように冷たく、そして彼の心の滾りを表すように、街の薄明りを鈍く静かに反射した。

 少年は眼を閉じた。それに呼応して街の青い残影が彼の目蓋の裏に現れる。

頭の中では色々な考えが生まれては消え、消えては生まれる。次第に連鎖の中で全てが混ざりあって飽和し、あとには緩やかで安定した一つの秩序がもたらされる。彼は、心が落ち着くのを感じて深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。

 静かに彼の両眼が開かれた。

 瞳の奥には、先ほどまでの灰色ではなく、青い炎がゆらゆら穏やかに揺らいでいる。それは魂が感じる『生の実感』そのものだった。

 彼はなおも笑みを浮かべたまま、人気のない学校の屋上で独り呟いた。


「―――さて、殺しの時間がやってまいりました」


それは怖気が走るほど冷たく、そして年相応の子供のように無邪気で明るい声色だった。

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