15 旅立ち -END-

 その後、一度だけ。エルナ達はアブレーズ領に足を踏み入れた。

 最後のお別れがしたい。ショーポッドの提案……あるいは請願に、エルナが折れた形であった。

「でも……私たちは顔が割れてるわ。もう五体満足で入領させてくれるとは思えないけど」

「それでもいいんだ。あたし、用があるのは外縁墓地だけだから」

「誰を弔うつもり」

 エルナ達は今まさに、バーンシュタインという破天荒な娘を看取ったばかりだ。エルナの涙がようやく尽きた頃。そこへショーポッドは、もう一つだけ、涙を流しに行きたいと言う。

 ショーポッドが祈りたいとする人たちが何者なのか、エルナは聞き逃していた。

「外縁墓地ってことは、火にくべた後埋葬済みなのよね。言っておくけれど、もう地に帰ってしまった人を救うことは出来ないわ」

「分かってるよ。ただ、挨拶したいだけ。しばらくは……来られなくなるからさ」

 浄化の儀を図らずも完了させ、一人前の司祭として両足の立ったショーポッド。そんな彼女の望む礼拝とは、

「けじめつけなきゃな、って。パパとママにお別れを言いたいんだ。それだけ」

 顔を伏せながら、ショーポッドは歩く。見張り台から発見される危険を避けるために、アドラーによる移動は領の南端に回り込むまでに留めておいた。城塞の南側に広がる外縁墓地までは、距離はそれなりにあるものの、あっという間だろうとショーポッドは思っていた。

「……両親?」

「うん。そう」

「待って、話がおかしいわ。あなたは親にパンを買うために、春を売っていたんじゃなかったの」

「そんなことまで喋ってたのか……恥ずかしいな」

 ショーポッドは俯いて、自嘲気味に笑う。

「でも、嘘は言ってないよ。あたしはあの人たちのためにパンを買ってた。燃やされちゃって、もう骨しか残ってないけどね」

「……供養のため」

「うん」

 言葉少なに頷くショーポッド。エルナの目からは、悲しそうに項垂れた背中と、それでも歩みを進める足しか見えていない。

 それでも、なお。

 この別れがショーポッドにとっては、エルナにおけるバーンシュタインとの別れと同等の痛みを伴うものだということは、分かった。

 城塞が近づくにつれて、ショーポッドの足取りは次第に速くなっていった。それは外縁墓地に立つ最初の墓石が見えたときには、ほとんど駆け足の速さになっていて、エルナは追いつくべく慌てさせられたものだった。

 ショーポッドは走った。二十七の女が年甲斐もなく。

 父と母に、一刻も早く会いたいその一心で。エルナはショーポッドに追従しながら、何が彼女をそうまで駆り立てるのか知ろうとした。

「あなたは、信徒になったのよ。自由の身、穢れなき体。あらゆるしがらみから自由になったのに、どうして家族なんかのところに戻ろうとしているの」

 その問いにショーポッドは答えなかった。一つの墓標の目の前で立ち止まったが、息を切らしていてそれどころではなかったためだ。

 ショーポッドの足下には何の変哲も無い石ころが三つ積みあげられていた。その後ろには、これも粗末な立て板が地面に刺さっている。何か文字が書いてあったようだが、風雨にさらされたせいで掠れて読めなくなっている。

 恐らくは、ショーポッドの家族名。それはもはや、この世には存在しないものとなっていた。


「パパ……ママ…………」


 誰からも忘れ去られた、一つの家族がそこに眠っている。ただ二人の例外、ショーポッドとエルナを除いて。

「驚くかな……あたし、泪の君の信徒になっちゃった。みんなから石を投げられるんだって。場合によっては火刑まで……おっかないよね」

 墓標に跪いて淡々と話すショーポッド。エルナはそれを、少し離れた場所から見守っていた。

 そこに彼らの遺志など存在しないのに、人は死者に語りかけたがる。泪の君の信徒が過剰に嫌忌される理由の一つだ。エルナ達の祈りは、死体も魂も一つ残らず、この世から泪の君の膝元まで還してしまう。そうなったら、人の抱く死者の幻想を仮託する相手が無くなってしまう。

 ――この行為に、意味なんて無いのに。

 死者は語らない。死者は聞かない。ただ塩に還り、再び大地を蝕むだけ。しかしエルナは、この場に限り口を出さないようにしようと耐えていた。

 自らもそうしてしまったからだ。バーンシュタインの最期にあたり、残留しているはずのない彼女を呼び、泪の君まで呪った。

 大切な人との別れ。それを邪魔立てしてよいものなど、どこにもいやしない。エルナは待った。ショーポッドの気が済むまで。

 彼女が家族という呪いを、吹っ切れるよう。

「でもね、悪いことばかりじゃないの。あたし、すっごい長生きになったんだって。ちょっと離れた所にいるあの子、三百歳超えてるそうよ。あたしもそのくらい生きるんだと思う」

 ――命は自分で守るものでしょ。甘えないで。

 心中で指摘するエルナ。それは若い信徒に届くはずもなく、ショーポッドはそのまま、彼女の決意を口にした。

「だから、覚えてるよ。パパのこと、ママのこと。今、胸に刻んだよ。立派な大理石の墓標に、二人の名前。世界中のみんなが忘れても、あたしだけは覚えてる。覚えてる……だから」

 言葉が一度切れたのは、ショーポッドがしゃくり上げたせいだった。

 あの時、ゴミ捨て場で流したのと同じ、限りなく透明な涙だった。それがとめどなく溢れ、ショーポッドの頬を濡らしていく。

 その場で膝をついたショーポッドは、顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。

 信徒の涙は塩を含まない。故に穢れ無きものだが、出来るだけ流すな。エルナは洗礼者にそう教わった。その理由までは聞けなかったが、今日の今日までは忠実に守ってきた。

「家族……ねぇ」

 ――そんなに、手放しがたいものなのかしら。

 これまで看取ってきた信徒たちは、皆一様にこう言ったものだった。

 塩と塩とが譲渡され生まれ落ちることそのものが、我らの穢れだと。即ち血のつながりとは、呪いだと。

 故に彼らは、例え可能であったとしても家族との交流を一切絶っていたし、エルナも個人的な理由があったにせよ、そうしていた。

 だから、物珍しくて、理解しがたくて仕方が無いのだ。

 家族とのつながりを保つために、泪の君の信徒になったショーポッドのことが。

「……だから、だからさ。旅に出るのを許して。二人のことは置いていかないから…………いいよね?」

 もっとも、つながりを保つべき相手はすでにこの世を去っていて、大地の死辱に融けてしまっている。ショーポッドはそれを知っていたはずだ。

「ショーポッド。そのくらいにしておいたら」

 次第に声を悲痛にしていくショーポッドに、堪らずエルナは声を掛けた。ショーポッドは振り向いた。涙の堰は決壊したままだったが、彼女はエルナの目を見て、頬の端を震わせながらも笑って見せた。

「エルナ……ごめんごめん。ちょっと、深入りしすぎた」

「まったく。そのまま干からびても知らないわよ。そんなに泣いて」

「あはは……それはヤだなぁ。折角拾った命なのに」

「そうよ。命を拾ったのはあなただけ」

 エルナは尋ねてみようと思った。

「あなたは言ったわ。帰らなきゃ、って。家族のところへ帰りたいって」

 彼女が抱いている真の願望を。

「私たちの話を聞いて、こうして泪の君の信徒になってみて……それでもまだそう思ってる? あなたはこうも言った。春を売り始めたのは五年前くらいからだって。それから二年前に家族が死んだって」

「そうだね……でも、後悔はしてない」

「あなたがあんな目に遭うようになったのは、家族が呆けてしまったからでしょう。恨んでいないの。それがあなたを貶めたのよ。そのつながりを保とうとするあまり」

 エルナに突然詰め寄られ、ショーポッドは困惑している。そのことが、エルナの鼓動をさらに駆り立てるのだった。

 ――あなたは、騙されているんだから。

 エルナの脳裏には、彼女が育った三百年前の光景が蘇っていた。

 今よりもよほど文明としては稚拙、ヒトがより動物に近かった頃の話だ。女は雌であり、家族という共同体は女を孕ませ、そこからこぼれ落ちた子を収穫するための集団でしかなかった。

 血のつながりなど、いかほどの価値もなかった。単にでっぷりと太った薄汚い父親の子種が、体中に混じっているというおぞましい事実を示すだけのものだった。そして父親が孕まそうとした相手は、妻と呼ばれる同年代の女に留まらなかった。長女が最初に身重になった。五度にわたる種付けの結果だった。次女は、その様子を見ていて増長した長兄によって身ごもった。

 エルナには次兄がいて、それがちょうど盛りの付き始めた頃だった。次は、エルナの番だった。藁敷きの農具小屋に敷いた床に押し入ってくる次兄、その指。その感触があまりにざらざらと獣じみていて、エルナはひ弱な足に渾身の力を込めて蹴り飛ばした。その結果……次兄は死んだ。背後に無造作に立てかけられていた草刈り釜に脳天を突き割られて死んだ。

 恐るべき事態に、エルナは逃げ出すしかなかった。

 そして恨んだ。自身の手を汚した血を。生を。ヒトの営みを。生命の営みを…………。


 エルナはショーポッドの答えを待っている。かつて娼婦だった信徒は、すでに泣き止んでいて、エルナの唐突な問いに真意を求めようと、瞳を探っていた。

 しかし。


「やめとこうか、この話。今は」


 ショーポッドから帰ってきたのは、肯定でも否定でもなく、拒絶だった。

「待って、どういうこと。今は……って、何」

「言葉通りだよ。今話してもしゃーなそうだもん。だって、エルナ。あたしが何言っても、絶対に否定するつもりでしょ」

「……その通りよ。それが真理だもの。何か悪い?」

「それが聞けただけで十分さ。今、あたしが何を言ってもダメ出しされるばっかりなんじゃ、面白くないもの……。そうだ!」

 ショーポッドは「閃いた!」と両手を打って、

「一年後。一年後にもう一度、同じ話をしようよ」

「なによそれ。時が経てば、真理が歪むとでも?」

「そう期待してる。エルナ、時間が経てば人は変わるよ」

「そんな変化は認めないわ」

「ほら、そう来る。だから話したくないのー。絶対否定されるから。今はね」

「何そのごまかし……! ゼッタイ! ゼッタイ変わらないからね! きっとショーポッドを説き伏せてみせる」

「そっかそっか。せいぜい期待してるよ」

「うう……絶対だからね!」

 ショーポッドに降った雨は止んだ。

 エルナから滴る涙滴も止まった。

 雨が降れば、大地は緩み、新たな生命の苗床として、あらゆるものを受け入れるようになる。

 二人の心に降った雨から、何が芽吹くのか。それはまだ、誰も知らない。

 


 状況は切迫していた。

 外縁墓地から離れようとしていたエルナとショーポッド。しかしその途中、運悪く外壁を巡回中の衛士に見つかってしまったのだった。

 壁の内側では、エルナもショーポッドも、すでにお尋ね者――というよりも、異端者であることを認識されている様子。第一発見者である年若い短槍兵の叫び声に呼び出され、百はくだらない数の衛士たちが総出で、エルナたちを追跡している。

 アブレーズ領の周辺は、街道を離れると黄金色に染まった下草が繁茂している。どれも肩丈ほどの高さだ。飴細工の森ほどの美しさはないが、今はこれが琥珀で出来ていないことが二人の助けになった。身をかがめ、分け入って追っ手を撒くには、好都合だった。

「ねぇ。アドラーで、バッって飛んでいくのは今回ダメなの?」

「……これだけ距離を摘められていると、ちょっとキツい」

 ショーポッドが小声で問うと、エルナは普段のつんけんとした様子もみせず、真剣にそれを否定した。

「あなたも何度か見たでしょ。塩の獣を呼ぶには、まず塩の堆積を作らないといけない。私たち二人を運ぶだけの塩を積み上げるのには、少しばかり時間がかかるし、下草の背丈を超えちゃう。捕まえに来てくれと言っているようなものよ」

「……そっか。それじゃあ追っ手を撒くまで、このまま?」

「撒けるかしらね。相手は太陽を背負った慈恵の光。異端者に対して『取り逃がす』なんて失態をやらかすとは思えない。ここから千シュリットほど離れると、この草原も終わってしまうの。きっとその先にも、衛士が張っているはず」

「それじゃあ、このままいぶり出されるのを待つしか無いってわけ?」

「バカ? そんなわけ無いわ。このくらいの窮地、私は何度も経験してきてる」

 軽口を交えながらも切迫した口調。一点を注視し動かない瞳。エルナの頭の中で、策が高速で駆け巡っているのだろう。

 果たしてエルナは、右手を地面にかざすと、小声で呼んだ。

「……おいで」

 下草の高さを超えない、ほんの小さな塩の堆積。そこから生まれ出でたのは、白馬と、それから狼であった。鼻先を掠めて飛ぶのは、揚羽蝶の姿をしながら真っ白な光沢を見せる蝶。それから、よく見慣れた獣、ルーシュン。

「彼らで攪乱するわ。ルーシュンは私の側に。他はてんでバラバラな方向に走らせて、私たちがめいめい逃げ出して後で落ち合おうと決め込んだように見せる。索敵はこの蝶がしてくれるわ」

「通用するかな」

「ええ、多分ね。私の知ってる慈恵の光なら……必ず食いつく」

 エルナのその自信は、迫害の身で三百年を生き抜いた実績から来るものだ。ならば、生まれたての信徒であるショーポッドが口を挟む余地は無い。

「狼、いるじゃない。この子は……」

 しかし懸念はあった。

「この子は……本物の狼みたいに、咬んだりするの」

「私は、させてない」

 エルナは即座に断言した。

「でも、前の飼い主はさせていたみたい。身を守るため、の範疇を超えて。私たちが死の間際に穢れを回収するっていうのは話した通りね?」

「うん……でも、まさかでしょ」

「彼の願いがそれだったんでしょうね。穢れがそこに有るのなら、生かしておくわけにはいかない。潔癖な人だったけれど、誰よりも血に塗れて、飢えていた」

 エルナが一瞬、遠い目をしたが、すぐにそれどころではないことを思い出した様子だった。

「ともあれ、この獣たちが誰かを殺めることは絶対にないわ」

「そっか。なら良かった」

 ショーポッドが胸をなで下ろしたのを見て、エルナは嘆息した。自らを狩り出そうという衛士ですら、彼女にとってはアブレーズ領での大事な思い出であるらしい。彼女が抱く優しさというか、愛着というか……もはやエルナからすれば妄執に近いものは、底なしに深いようだった。

「……まぁいいわ。じゃあ、始めるわよ。行って、みんな……! 殺しは無しよ」

 エルナの号令と共に、塩の獣たちは動き出した。大げさなまでに草の根をがさがさと鳴らしながら、銘々の方向へ駆けていく。とはいえ小さな獣のこと、人の走る速度を超えることはない。

『……あれだ! 囲い込め!』

 慈恵の光の衛士たちも、早速獣たちに気付いて陣形を変じた様子だった。上空に舞う蝶がそれを見ていた。風に流されながらも地上をふわふわと見下ろして、エルナに戦況を伝える。

 追っ手のうち、草原に分け入ったものは、全勢力を二手に分けて獣たちを追っている。しかし、エルナの読み通り、草原を抜けたところにも衛士たちが構えていて、彼らはまったく動く様子を見せないのだった。

「どう? エルナ」

「依然草原の向こう側が邪魔だわ……でも、迫ってきていた連中の気は引けたわけだから。正面の連中くらいなら、ルーシュンにひと撫でしてもらって……」

「ひと撫で。ひと撫でだけだからね? 気絶するくらいで済ませてあげてね?」

「ええ、分かってるわ……」

 草原の南端を見通していた蝶が、再び戦場に視線を戻した。その時、

「……え?」

 エルナは目を疑った。

 いったんは崩れた敵の陣形が、整っていたのだった。二重の円形を描いて、エルナ達を取り囲むように。

「囲まれた」

「なんで」

「蝶を降ろしてみる。ちょっと待って」

 戦列を進める歩兵達の側に、エルナの蝶が近づく。すると聞こえてきたのは、彼らの奸計であった。

「それにしても、隊長殿の言うとおりにことが進んだな。その二人が別れることはあり得ない」

「ああ。泪の君のクソどもの習性をよく分かってんだな。元々単独行動を旨にする連中が、わざわざ二人で逃げたのなら」

「そいつらには行動を共にしなければならない、何らかの理由があるはず……か。だから、あの連中はおとりだと」

「めんどくせぇ女みてぇだな。二人でベタベタしてなきゃ嫌だってか」

「ちげぇねぇ。だが女が二人なことには変わりねぇ。さっさと引っ捕らえてひん剥こうぜ。泪の君のモノは、滑りが良いって噂だ」

「そいつは楽しみだな」

………………………………

……………………

「ちっ」

 薄汚い会話を聞いたエルナは、足下の土を蹴飛ばすことで苛立ちを逃がした。

「読まれた。思い切りね。クソッ」

「何を聞いたのよ」

「思い出させないで……! この……。ルーシュン、待って。まだダメよ」

 危険な威嚇音を出し始めたルーシュンを、エルナは諫める。

 その様子に、エルナはふと気付いたことがあった。

「……ルーシュンが、エルナの獣なの?」

「後にして。今どうしたら良いか考えてるんだから……」

「いや、どうしたら良いも何も……」

 聞いてしまった兵士の雑談が、相当堪えたらしい。こんな至極単純な事実にも、気付かない様な動揺を与えたのだから。

「エルナ、落ち着いて。もう見つかってるんだよ」

「そうよ、見つかってるからこんなに焦って」

「じゃあ、出すね。『おいで、ガーベルマータ』」

 エルナが追の句を発する前に、ショーポッドは彼女の獣を呼んだ。

 天にまで届くかと思われるほどの細長い塩の円錐が、再び顕現する。それを当然、兵士達も目撃している。

「……おい、なんだあの大きさ」

「城壁より高いぞ……どうすんだ、あれと戦うのか」

 包囲網に動揺が走る。その間にもガーベルマータは展開していく。稜線に一つ切れ目が走ったかと思うと、それが風もないのにバサリと広がり、その風圧は草むらを薙いだ。

 それが何枚も何枚も続くものだから、草原は巨大な塩の獣を中心に吹き荒れる嵐に見舞われる格好になった。すると恐怖するのは、それに立ち向かおうとする兵士達だ。

「あ……なんだぁ、ありゃあ……」

「風で何にもみえねぇ……! 無理だこんなん、聞いてないぞ!」

「こんなちんけな槍で戦えるかってんだ……! 逃げろ、逃げろ!」

 這々の体で散る衛士たち。

「エルナ、早くアドラー!」

「え、……あ、分かった」

 塩の堆積はすぐに山のように積み上がり、二人を運ぶに足る怪鳥を顕現せしめた。

 こうして二人は、運命共同体となって最初の危機を、無事に乗り越えたのだった。



 アブレーズから遠く離れたある街道の上。二本の足で地面を歩きながら、エルナはぼやいた。

「……なんて、力技よ」

「ああするのが一番。人間、自分よりでかくて怖い物には抗えないもんだよ。よっぽどの理由が無きゃね」

 ショーポッドは言いながら、少しだけ表情を陰らせた。それは自身の経験を多分に踏まえて知った、人間というものの本質だったからだ。

「でも、上手くいって良かったっしょ? ようやっとこれから、二人で旅が出来そうじゃない」

「終わりよければ全て良し……そうしたいわけね。まぁ、実際その通りになったし、良かった…………けどね!」

 胸をなで下ろしたり、噛みついたりとエルナは忙しい。

「これだけは絶対に、絶対に覚えておいて。人前でむやみやたらに塩の獣を出しては絶対にダメ!」

 城門すら破ろうかという剣幕だった。ショーポッドは狼狽えてしまう。

「わ……分かってるって。今回は特別だよ」

「本当に? 特にあなたのガーベルマータなんて、下手したら家ごと呑み込みかねない大きさなのよ。激情に任せて出そうものなら、街道中の警備という警備が飛んできて私たちを捜しにかかるわ。私たちは、追われる身なの。返事は!」

「はい。承知しました」

「よろしい。それで、さっき何を訊こうとしたの」

 エルナはそれで溜飲が下がった様子で、ショーポッドに留保させた問いを促した。

「……なんだっけ。ああ、そうだ。エルナの獣って、どれなの?」

「ああ、そんなこと」

 その身に無数の獣を宿すエルナ。そのほとんどは、看取りに際して引き受けた遺物なのだろう。ならばエルナの願いを映した獣は、一体どこにいるのだろうか。

「ルーシュン、なの?」

「いいえ。私の獣は、存在しないの」

「……? どういうこと」

 尋ねると、エルナは即座に答えた。胸を張って堂々と、恥じるところなど一つも無いという風体で。

「私は、消え去りたかったのよ。この世に何の意思も遺さず、ただ消え去りたかった。その私が信徒になったら、塩の獣はどうなったと思う? 消え去りたいという願いを映して、その場から掻き消えたのよ」

「え……じゃあ」

「そう。私こそが最も優れた信徒であるっていうのは、単に永く生きてやってきたってだけじゃない。その出自の瞬間から、私はまったく穢れを持たない信徒だったのよ」

 反り返らんばかりに誇るエルナ。ショーポッドはしばし、言葉を失った。しかし言った。

「じゃあ、しばらくの間、正真正銘の一人旅だったんだね」

 エルナは頷いた。

「寂しくなんか、無かったわ」

「でも、今はあたしがいるかんね」

「あなたがいなくたって、今はルーシュンもアドラーも、いっぱいいるもの」

「じゃあ、いなくなっても平気かな」

「それはだめよ。バーンシュタインがいなくなっちゃう」

「へへ、そっか」

 二人の信徒は歩き去って行く。

この日、泪の君はひとりの信徒を迎え、ひとりの信徒を失った。

彼女は慈悲の涙も、祝福の涙も流さなかった。ただ、薄ぼんやりと降り注ぐ太陽の後ろ、青空の御簾に隠れて、地上を歩く二人の信徒を見つめているばかり……なのだろう。天なるものの御意志など、エルナにはわからない。泣いてくださったり、下さらなかったり。

今日、彼女はここに泣きに来た。

泣きに泣いて、その果てにひとりの友を失い、ひとりの友を得た。

ひとりの友を心に住まわせ、ひとりの友を隣に侍らせ。

泪の君の庇護のもと、明日も明後日も、降り止まぬ雨を求めて放浪の旅。

明日は雨だと、嬉しいのだけれど。


泪の君の愁雨 ―バーンシュタインの走馬灯― 完

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泪の君の愁雨 -バーンシュタインの走馬灯ー 瑞田多理 @ONO

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