14 看取り
仙の琥珀を包み込んだガーベルマータはみるみるうちに、蠕動運動を伴いながら収縮していった。その過程で彼女の内部において何が行われているのか、エルナ達はなんとなく感づいていたが黙っていた。だから、ガーベルマータの足下に急いで駆け寄ったのだった。果たしてそれは、まさにヒト一人分の大きさにまで収縮し、さらに縮もうとしているのだった。
「ガーベルマータ……! もういいよ。その子を自由にしてあげて」
戦慄くエルナの前にさっと割って入り、ショーポッドは命じた。
ガーベルマータは悶えるような動きを止め、星のない夜のような真っ暗闇をこちらに向けて問うた。あるいは、不満の声を上げたのかもしれない。――この者の穢れを、吸い尽くさなくて良いのか?
一度は抗った彼女の獣だが、ショーポッドが再び力強く頷くと、素直に従った。無数の皮膜が一枚ずつ開き、中身を抱き下ろすと、ガーベルマータは主人達の様子を見守るようにその異様を再び宙に浮かせた。
中身、はまさにバーンシュタインそのものだった。
しかしその有様ときたら……エルナは思わず顔を背けたものだった。四肢はとうに失われ、陶器のように艶やかだった彼女の腹部から乳房に掛けては、今も僅かに噴き出す塩のせいでざわざわと穢されていた。
「……ああ、エルナ」
掠れた声がした。エルナは即座に応じようとしたが、出来なかった。
あまりにも、バーンシュタインを襲った報いがひどすぎて。なぜなら彼女の顔、愛嬌のあり包容力に満ちたその優しい顔までもが、すでに塩の柱の餌食となり、目も当てられない状態になっていたからだった。
「エルナ……エルナでしょ? いるのよね……?」
顔を傾けようにも、バーンシュタインの首はすでに硬い塩に変じていた。エルナは意を決してバーンシュタインの顔をのぞき込んだ。しかし哀れな塩の巫女は、同じ問いを繰り返した。
「エルナ……? エルナ、どこ?」
それもそのはずだった。バーンシュタインとの名を得るに至った美しい琥珀色をした瞳からは、細かな塩の柱が容赦なく屹立し、まるでモミの木が生えているかのようだった。
エルナは息を呑んだ。しかしそれを気取られないよう平静を装った。
「ええ、いるわ。バーンシュタイン」
「ふふ、約束を果たしてくれるのね。あんな有様になった、私を見ても」
自嘲気味にバーンシュタインは笑ったが、エルナは悲壮な声で答えた。
「……この、大バカ。何笑ってんのよ」
「私だって、笑いたくて笑ってるんじゃなくってよ。勝手に口から漏れるんですもの。この時になって、ようやく気付いたんだもの。これがどれだけ、あなたを傷つけるか」
くすくす、と消え入りそうな笑い声をバーンシュタインが上げる間にも、彼女の体は足下から、真っ白な結晶となって徐々に消えていく。その早さは非常にゆっくりとしたものだったが……訪れる最期の時を思わせ、エルナの声を震わせるには十分な現象だった。
「ええ、果たすとも。果たしてやるとも。私の最後の友達。たくさんの信徒達とおんなじように、あなたのことも看取ってあげる。バカ。自分勝手」
それから……エルナは言葉を切って、胃の腑を吐き出すような苦々しい声で言った。
「……裏切り者。約束したじゃない」
「ごめんなさいね……ごめんね。エルナ・アプシート、琥珀の森に引きこもった私にとって唯一の友。あの森は、綺麗だった?」
「もちろんよ。あなたが作ったものだもの」
「おためごかしはこの際良いわよ。どう? 綺麗だった?」
「綺麗に決まってるでしょ! この世で最も美しかったあなたに、あれ以上ふさわしい寝所は無かったわ」
「美しかった、か。容赦ないのね、エルナ」
がひゅ、と塩粒を吐き出しながらバーンシュタインは一つ咳をした。もう時は残されていない。そんな中でバーンシュタインが、
「耳を貸して」
と懇願するものだから、ショーポッドはその場から少し距離を取ったし、エルナは応じて顔をバーンシュタインに近づけた。
「何? バーンシュタイ――」
質す声は最後まで続かなかった。もはや動かぬと思われていたバーンシュタインの首がその時持ち上がり、見えぬはずの瞳でその位置を測ったのか、エルナの唇を塞いだためであった。
彼女の唇だけは、生前の潤いを保っていたが、歯をかいくぐりエルナの口内をまさぐる舌はすでに塩の様相を呈しており、固くざらざらとしていた。あまりに想定の外であった乱行にエルナは戸惑い、抵抗する事が出来ずにいた。そうしている内に、舌のひとかけらが、エルナの前歯に当たって砕けた。エルナはそれを、飲み下してしまったのであった。
するとようやくバーンシュタインは、唇をエルナから離して、満足げに微笑んだのだった。
「……!! バニー!」
「ふふ、最後の最後に、一回だけ。ようやくしてくれたわね……エルナ」
バーンシュタインは笑った。三百年を共にして、初めて見る笑顔だった。もはやこの世に悔い無し、という、弛緩しきった笑み。
「私の欠片……あなたの中に。持っていて。それが最後のお願い。忘れないで、私のことを。お願いよ……」
激情極まったエルナは、塩が体に触れるのにも構わずにバーンシュタインの蚕のような体を抱きしめた。
「あなたはいつもそう。お願いするばっかりで……私のお願いをひとつも聞いてくれなかった。私の望みなんて、たった一つしか無かったのに……!」
「ごめんなさい。あの森を保つには、こうするしか無かったの。愛しい隣人たち、温もりある木々草花……でも、そうね。あなたほどの優しさをくれたかというと」
バーンシュタインはその時、ショーポッドが初めて見る表情をした。
余人ならば誰もが一度は浮かべる、その苦悶。涙を堪えるというその表情である。
「そうね。あなたと離れるのは、嫌よ」
「なによ今更。三百年も付き添って、これからひとりぼっちで……一体どうすれば良いのよ」
「約束を破ってごめんなさい。でも、全く反故にしたわけじゃないわ。『一人にしないで。』あなたの望み。振り返ってみて、あなたは今、一人かしら」
二人の世界から急に手を伸ばされたショーポッドは、しかしこの展開を予期していた。言うべきことも、分かっていた。
「バーンシュタイン、やっぱあんた、どうしようもなく最低だわ。最初っから最後まで、自分のことしか考えて無くて、エルナを振り回して。この上あたしまで巻き込もうとしてる。無関係なあたしを」
「ええ」
「だから、エルナのことは心配すんな」
「……ショーポッド?」
エルナが振り向いて、透明な涙塗れの顔で呼ぶ。
ショーポッドは、哀願に対して包容にて答えた。
「あんたがしてやれなかったこと、してやらなかったこと。エルナのためになる事ならなんでもするさ。エルナは通りすがりのあたしを助けた。なら今度は、通りすがりのあたしがエルナを支える番だ」
「そ。それが聞けて安心したわ、新入り。そしてどうしようもない穢れの器。あなたがいつまで私との約束を守れるか……見届けられないのは、少しだけ残念」
バーンシュタインの首は、もう動かなくなっていた。体もすでにどうしようも無く真っ白な塩の堆積となり、すでにぐずぐずと崩れ落ち始めている。
「エルナ」
それでも声を出したバーンシュタインは、その喉に亀裂を生じながら、最期の言葉を遺した。
「エルナ……愛していたわ」
その一言にエルナが総毛立つのと同時に、無理に声帯を震わせたバーンシュタインの喉はまるで花瓶を落としたかのような音を立てて砕け散った。その亀裂は顔面にまで走り、彼女の端正な美貌に鼻筋を通り右眉の上に掛けておおきな傷を作った。
そして、正真正銘最期にバーンシュタインが微笑んだ、その弛緩によって。彼女の顔までもが、ついに砕けて、塩の粉末となって落ちた。
仙の琥珀と呼ばれた魔獣の主、バーンシュタインは、エルナの胸の中からさらさらとこぼれ落ちる塩の集積と成り果てたのであった。
風の無い夜だった。それがいま、明けようとしている。
霧雨は未だ降り続いている。泪の君(トレーネイン)の流す涙だ。まるで、一人の敬虔な信徒の終末を愁えるかのように、絶え間なく、しかし優しく降り注ぐ天恵。
バーンシュタインだった塩の堆積は、エルナの膝の上に貯まっていた。それをひとすくい持ち上げると、エルナは戦慄く手でそれを握りしめた。
「……ばかやろう」
天の上に届くものなら届けてくれ。
「バカ、ばかやろう! ふざけんな!」
泪の君よ、聞いているか。聞こえているなら伝えてくれ。あなたの御許に還った愚かな姉に伝えてくれ。
「ヒトの……あなたの代わりがいると思うな! 私だって大好きだった! 自分勝手なのもいい加減にしろ! 私だって言いたかった! 言いたかったのに!! ――――!」
あとの想いは嗚咽に混じり、涙に溶けて言葉になる事は無かった。
夜が明けていく。厚い雲の向こうからでも分かる陽光の兆し。
――こんな……こんな無慈悲な夜明けが、あってたまるか。
ショーポッドは天を呪いながら、エルナの小さくうずくまった背中を優しく包み込む。何か気の利いた言葉はないかと探してみるが、見当たらない。
三百年来もの長きにわたる友との別れに際して、たった二日の付き合いでしかないショーポッドの言葉など、なにを言ってもただのおためごかしに過ぎない。だからショーポッドは、ただ抱きしめることを選んだ。言葉は通じずとも、この身に宿る温もりだけは本当のものだ。自分は宿娼婦であったから、バーンシュタインなら嫌がるかも知れないと思った。でも、エルナには。身内を失ったエルナには、温めてやれる同胞が身近に存在するのだと伝える必要があった。
エルナはしばらくショーポッドの腕の中ですすり泣いていた。やがて振り向き、ショーポッドに抱きつくと、すすり泣きは堰を切ったように人目を憚らない号泣に変わった。
ショーポッドはエルナが泣き止むまで、ずっとそうしていた。
どんなに矮小でも、今やショーポッドだけが、エルナの帰る場所なのだから。
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