13 ガーベルマータ

 夜闇の帳は東の空から、徐々に剥がれつつあった。慈恵の光が差し込む、ほんの兆しが見え始めた頃。未だ降り続く霧雨の中、仙の琥珀はとてもゆっくりとした動きで、歩みを進めていた。

 それは、まるで雪山が歩いているかのようだった。塩の化身が持つ独特の燐光を帯びていて、暁の暗がりの中でも白く輝くそれは、常に雪を冠する霊峰の頂を思わせる。それが穢れの集積であるにもかかわらず、ショーポッドは刹那、美しいとすら思ってしまった。

 相手との距離はおよそ千シュリットほど離れていたが、それだけの距離はすぐに詰められてしまうだろうと思われた。一歩ずつが、非常に長いのである。

 ゆっくりとした動き。緩慢……なのではない。それはまさしく、匹敵する物のない巨体を得た驕りからくるものであり、相応の力を得たことを示威しているのだった。

「はは、こいつは……ちょっとびっくりしちゃったな」

 いまや見上げても足りないような巨躯と化した仙の琥珀は、もはや二人のことなど目にも留めていない。視線は遙か彼方、夜という時の中、享楽という穢れに沈んだ街を見ている。アブレーズだ。まさか領主も、これほどの化け物が襲来してくるとは想像もしていまい。それはこれから先、この獣に襲撃を受ける全ての街がそうだ。

 もはや一個の獣ではない。竜巻や落雷と言ったものと同じ、災害。しかしこれは天災ではない。バーンシュタインという一人の乙女が抱いた、純粋という妄念が招いた、ヒトの業であった。

「……バーンシュタイン、あなた……。本当、バカ」

 エルナが呟く。バーンシュタインは最も親しい友だった。それなのに、これだけの穢れを抱え込むことを、一言も相談してくれなかった。苛立ちを込めてもう一度呟く。

「バカ。バカやろう…………」

「エルナ。助けよう。助けてから、言いたいこと全部ぶっつけてやろう」

「分かってるわよ」

 ショーポッドが肩に手を添えたのを、エルナは振り払う。

「それじゃあ、手はず通りに。今回はアドラーに塩を回す余裕はないわ……全部ルーシュンにつぎ込む。だからしくじったら、終わり」

「分かってる」

「私はあなたがみせた、塩の量に賭けた。時間は稼ぐわ」

 ショーポッドが唾を飲み下す。緊張と焦りとが入り交じった、硬い顔をしている。

「だから見つけ出して。あなたの塩の獣を」

「……任せとけ」

 ショーポッドは歯切れが悪い。なぜなら、この時に至るまで、獣の出し方を聞いたにもかかわらず、ショーポッドは未だ塩の山を獣に錬成することが出来ていなかったのだった。

 それでも刻限は向こうからやってくる。構えるのに必要な最終陣地は、やはり清流の前であった。ショーポッドとしては、準備万端とは言えない状況のまま戦場に立っていることになる。不安も已む無しというところだが、エルナはそうは思っていない。

「この期に及んで不安にさせないでよね、まったく」

「あたしが……あたしがしくじったら、どうなるの」

「アブレーズも、その先の街も。その先の先の街もみんな、仙の琥珀のお腹の中よ。もちろん私たちも。みんなまとめて、いずれ漣に消えるでしょうね」

「……それは」

「まぁいいわ。気負わずに構えて。もしそうなるときは、あなただけのしくじりではないから。ルーシュンであれを止められなかった、私の責任でもある。運命共同体ね、まさに」

 硬直するショーポッドを残して、エルナが踵を返す。ショーポッドは手のひらに目を落とし、自らの肩に掛った責任の重大さを、改めて噛みしめる。

 エルナは、最初から勝てるとは思っていないのだ。無尽蔵に再生する仙の琥珀に対して、ルーシュンは有効打を持たない。巻き付いて粉砕する手段をとることも出来るが、それではどこにいるか分からないバーンシュタインを同時に砕いてしまうことになる。

 最初から、分の悪い賭けだった。ショーポッドは今になってそう思う。勝ちの目はただ一つ。ショーポッドが獣を呼び出すことが出来、かつその獣が仙の琥珀に打ち克つ事の出来る強い者であること。ショーポッドにはそれがどれほどの確率で起こりうるのか分からなかった。しかしエルナは、その目に賭けた。

 遙か遠方にいた仙の琥珀は、いまや目算で五百シュリットほどに距離を詰めている。こちらが視認されていてもおかしくない距離だ。

 しかし仙の琥珀の視線は、享楽の都を捉えて離さない。もはやショーポッドに対する執着すらも失われてしまったようだった。ただ快楽と穢れを求めてさまよう獣。それは即ち、死に際してショーポッドを呪ったバーンシュタインの意思が、掠れて消えつつあることを示していた。

 一刻の猶予もない。それに猶予するつもりもない。

 友と再びまみえるため、エルナは声高にその名を呼ぶ。

「待っててよ、バーンシュタイン! 今引きずり出してやるんだから!」

 同時にルーシュンが顕現する。その大きさにショーポッドは目を剥く。胴の回りは一抱えどころか、大の男が三人かかっても繋ぎきれるかどうか。とぐろを一巻きすればちょっとした丘のような高さ。雨天の中輝きを纏って顕現したそれは、鎌首をもたげて長い舌を威圧的にたなびかせる。

 しかしその威容を以てしても、まだ。仙の琥珀の体高には届かないのだ。

 目の前に現れた塩の獣を、流石の仙の琥珀も無視はできない。ちらと視線を向け、例の怖気立つ微笑を見せる。

 こんなもので、我を止められるものか――と。

「……嘗めるんじゃないわ、欲に塗れた獣。行け、ルーシュン!」

 エルナが苛立ちも露わに宣言すると、ルーシュンが動き始めた。巨体も相まって接敵は素早い。右方から流星のような速度でバーンシュタインに食らいつく。左腕を破壊。しかしすぐに再生。ルーシュンの体と、咬みちぎられた腕が着地する。あまりの質量に地響きが起き、ショーポッドは驚く。

 仙の琥珀もようやく、それが脅威だと認識する。這い回るルーシュンに対し追走を開始。歩みの一歩一歩が、まるで戦陣の太鼓のように腹の底に響く。ルーシュンは尾を振り抜いて仙の琥珀の胴を打つ。さしもの仙の琥珀もこの衝撃には顔を歪め、咆吼する。今の時点では、実力伯仲といったところ。

ショーポッドは目の前で繰り広げられている非常に大きな規模の戦いを、出来るだけ目に入れないようにしていた。怯えが勝ってしまい、自らのうちに深く入り込めなくなってしまうから。

『いい、よく聞いて……。塩の獣は、私たち信徒が抱く――原初の穢れから生じるものよ』

エルナの切迫した言葉を思い出す。

『それを芯にして、形となって獣は権限するそうよ。だから、必要なのは。ショーポッド、あなたを苛む最初の穢れを探し当てること。良いわね…………』

「そうは言うけどさ、エルナ」

ショーポッドは目を固く閉じて、心の内へ、うちへと潜り込もうとする。アブレーズで受けた辱めの記憶が、浮かび上がってくる。いくつもの屈服させられた夜。ショーポッドにとって穢れと言えば、その他にあり得なかった。自らの意思とは関係なく、いとも容易く行われるえげつない行為……隷従と屈辱の記憶。

しかし思い出すだけで反吐が出るような記憶を、無理矢理遡ってみても、それで塩の塊すら出ることがないというのだから救えない。回想はついに花を散らしたその瞬間にまで至る。組み敷かれた腕にかかる圧迫、激痛から疼痛へと変遷する不可逆な破壊。相手の下卑た笑顔。恋人だと信じて疑わなかった相手。

これが、ショーポッドが宿娼婦として取った最初の客だったと思う。今でも鮮烈に記憶に刻まれ、今後泪の君の信徒が永く生きるのだとしたら、一生ショーポッドを苛み続けることだろう。しかし彼女の塩はびくともしない。ショーポッドは戸惑う。

「思い出し損じゃん……」

足元から伝わってくる地響き、いうなれば戦闘の激しさは増す一方だ。いよいよもって時間が無い。焦りが思考を更に硬直化させる。ショーポッドはそれを自覚しながらも、何も打つ手がない。


――あたしは宿娼婦として、穢れてきたんだ。


愛する人に裏切られ、自暴自棄になっていた部分は否めない。それは理由の一つだが、顕在化した一つの感情……根菜で言うところの葉の部分に過ぎない。

「パパ、ママ。そうだ。あの人たちが働けなくなったから……だった……けど」

だが、ああ。ああ! 内観を深めるうちに彼女は苦しみ始める。

ショーポッドの暖かな記憶が、家族と過ごしてきたこれまでの安らぎの記憶が……唯一の心の拠り所が、自らのうちを掘り下げた今、崩れていく。

書き換えられていくのだ。まるであたかも、最初からそうであったかのように。

家族団らんの風景がそこにはあったはずなのに。ショーポッドがいま見ているのは、郊外の共同墓地にある墓の前に立つ自分自身だった。

『パパ、ママ。今日もごはん買ってきたよ。一緒に食べようね』

記憶の中のショーポッドが呟く。パンを墓に供えて自らの分を食べる。周囲には干からびて黴の生えたパンがいくつも転がっている。

なんだ、この記憶は。

あたしは確かにパパとママと一緒に、食卓を囲んでいたはずなのに。

じゃあこの墓は誰のお墓なのか。墓碑に刻まれた名前はぼんやりとかすんで読めない。

読めないが確信はある。これは、ショーポッドの……。


「違う……違う! 私は、淋しくなんか無かった!」


叫び。それに呼応するように、見上げるような塩の山が顕現する。狂乱するショーポッドは、気付いてはいないが。


「だってパパもママもいた! 確かにいたんだ!」


しかしそれを証明する記憶は今や消え去り、残ったのは冷たい墓石と雨の感触だけ。


「私の帰る場所は……全部幻だったって言いたいの」


その冷たさが肌で感じられるほどに現実味を帯びてくるにつれ、塩の山が徐々に形を変じ始める。

円錐が縦に長く、引き延ばされていく。高く、高く。泪の君の住まう御簾であるところの、雲にまで届こうかという高さにまで。

そしてその前面に、すぅ、と一筋切れ目が入る。それはあたかも薄布であるかのように、ひらりとたなびく。

その奥も、その奥も。切れ目が入ってはすらりと風になびく。

そうして最後に出来上がったのは異形の怪物。むしろ生物と呼ぶことすら躊躇われる、異質な存在。まるで巡礼者のような輪郭をしている。しかしおかしなところは、それがごく薄い絹布のローブを何十、何百枚も重ね着しているところと、あるべきところに足がなく空中に漂っているところだった。頭部に当たる部分には見る者全てを吸い込むような暗闇が横たわっている。空中に悠然と漂うその姿はまるで、おとぎ話にある幽鬼の首魁のようであった。

ショーポッドは背後で生じた変化に振り向く。そして異形の怪物を目の当たりにする。

恐怖はなかった。むしろ、この怪物を見ているとなぜだかほっとする。

まやかしでも良い。帰る場所が欲しい。ひとりぼっちは、もうたくさんだ。


「……そっか。それがあたしの、最初の願いだったんだね」


その存在を確かめたくて、ショーポッドは自ら選んだのだ。宿娼婦としての茨の道を。

全てのものの、最初の故郷。

即ちそれは、母の胎内。

獣を見上げて、ショーポッドは呼びかける。


「ガーベルマータ。あんたと、あたしの名前。お願いガーベルマータ、その子を還してあげて」


宙に浮かぶその獣ガーベルマータに、呼びかけが届いたとショーポッドは確信する。あの巨体に合わせて、体の感覚が伸張されるのを覚えたからだ。繋がっているという自覚、それはお互いに感じているはずだ。

まさにその時、鳴り止まなかった地響きがピタリと止んだ。死闘の現場を振り返ってみれば、あの巨体を誇ったルーシュンがその体を半分に千切られ、仙の琥珀の両手にぶら下がっているではないか。

少し先で指揮を執っていたエルナが、膝をついて、倒れ伏す。それと同時にルーシュンの体は消滅する。向かうところ敵無しとなった仙の琥珀は再び鷹揚に歩みを進めるが、ガーベルマータを認めて立ち止まる。

その隙にショーポッドは、エルナに駆け寄る。彼女は蒼白な顔をして、息も絶え絶えと言った様子だった。しかしショーポッドの姿を認め、その背後に浮かぶ威容の怪物に目をやると、かすかに笑ったのだった。

「どうやら、時間稼ぎは十分だったってわけね」

「あたしのことはもういいよ……大丈夫なのエルナ」

「それは、あなたの獣にかかってる」

見上げると、獣二体が、およそ三百シュリットの距離でにらみ合っている。ガーベルマータは動かない。仙の琥珀の方が、じりじりと距離を詰めている格好になる。

不安を覚えたのはエルナだ。

「ショーポッド、どうしたの。早く戦わないと……」

「違うんだよ、エルナ。あたしのガーベルマータはね」

命脈の繋がった今なら分かる、彼の獣の本質。


「あの子は故郷。帰る場所だから。自分から迎えに行っちゃ、いけないんだ」


ショーポッドはきっぱりと断言する。エルナが更になにか言いたそうにしているのを指で押しとどめて、

「まぁ見ててよ。大丈夫だから……必ずあの子を、還してみせる」

そう言って、接近してくる仙の琥珀と、自らの分身であるガーベルマータを見上げる。

 そして状況は、突如目の前に自らと同じ大きさの餌が現れたことで奮起した仙の琥珀によって動き出した。

 声なきうめき声の後、仙の琥珀は完全なる獣性を取り戻し、四つ足での戦闘形態に映った。

 直後、まずは素早い踏み込みからの鋭い爪一閃。ガーベルマータのマントを切り裂こうとする格好だ。仙の琥珀自身も信じて疑わなかっただろう。末広がりに浮遊するマントの中には、必ず本体があるはずだと。

 彼のもくろみは二つの意味で外れた。即ち、ガーベルマータの纏う三十を超えるマントには傷一つ付かず、しなやかに爪の一閃に沿ってなびいたこと。

 そして爪が貫通したはずのその空間は、やはり全くの虚無であったということである。

 干したシーツになまくら剣とはまさにこのこと。仙の琥珀もこれには驚いた様子で、瞬時に一歩後ずさって距離を取る。

 しかし、その時にはもう、ガーベルマータの侵攻は始まっていたのである。

「……見て、ショーポッド。仙の琥珀の腕の所」

 今まさにガーベルマータに一撃を食らわせた右腕である。そこにはいつの間にか、一枚の絹布がひらひらと舞っており、ショーポッドがそれを認識するが早いか、瞬く間に仙の琥珀の腕へ、まるでそれそのものが命を持っているかのようにしゅるりと巻き付いた。布の張り具合から、相当な張力を以て締め上げようとしているのが分かる。振り払おうと闇雲に腕を振るう仙の琥珀、しかしそれは叶わず……まるでガラス玉でも砕けるような澄んだ音を立てて、仙の琥珀の腕は砕け散った。

 上は岩山に鎮座する巨岩のような、下は切り出す前のチーズのような、大小様々な塩の破片が降り注ぐ。それらは地に落ちると共にじわじわと、大地へ還って行く。死辱の巨人の胸元へと、還って行く。

 もっとも仙の琥珀は獣であり、そんなことを気に留めた様子はなかった。片腕を失ったくらいでは、彼の本能は折れない。慎重に距離を取り、残った左腕をどこに打ち込むかを図っている。

 対してガーベルマータは超然とそこに浮いている。呼び出したままのその位置で。呼び出された直後との違いは、彼女を包む礼装の一枚が、荒々しく破けているというその一点だった。

「……見て!」

 エルナが叫ぶ。

「再生してない……! 右腕!」

「よかった。多分そうなるんじゃないかと思ってたけど、確かめられたね」

「どういうことよ」

 ショーポッドの奇妙な確信を、エルナは問いただす。

「帰ったんだよ。仙の琥珀は。もと来た原初の胎内に……って、ガーベルマータが言ってる」

 ショーポッドは答えて、返す剣で呼びかける。誰あろう仙の琥珀に向けて。

「おいで! 塩の獣。穢れにひきずられて走るのは、とても痛いでしょう。辛いでしょう。あたしが胸を貸してあげる。一緒に泣こう?」

「ショーポッド! 何を……」

 気でも触れたか。エルナはショーポッドの肩を掴んでその真意を質そうとした。しかしその答えは、遙か頭上から現れた。ガーベルマータがショーポッドの呼びかけに呼応して、その身を開いたのであった。

 風に揺蕩うばかりだった彼女の霊衣。それが外側からふわり、ふわりと順々に、劇場の幕が上がるように持ち上げられていく。彼女の内側が次第に詳らかになっていく。ガーベルマータの霊衣は塩で出来ているにもかかわらず、内側に行くにつれて肉質の赤色を帯びていく。それがまさに口腔内の色に達したのが、最後の一枚。その内側には……胎動する球体があった。

 金色、とは少し違う。さりとて塩の色では全くない。穏やかに発光するそれは例えるなら満月。柔らかな光、それがゆっくりと明滅している。まるで、心の臓腑が脈動するかのように。あたかもこの獣に、光の機関から動力が巡らされているかのように。

「……なに、これ」

「あの子の心臓だって。そう言ってる」

「え……バカ? ならなんで、今それをさらけ出すのよ!」

「ガーベルマータなりの考えがあるんだよ、きっと。信じよう」

「塩の獣に考えなんか……」

 無いわよ。そう言い切りかけて、エルナは思いとどまった。ショーポッドは今まで、ガーベルマータに一つの指示しかしていない。


『お願いガーベルマータ……。その子を、還してあげて』


 ショーポッドの獣がそれを、今もまさに履行しようとしているのだとしたら……?

 目の前に現れた獣の心臓に、仙の琥珀は色めき立ったようだった。腕を失った憤懣もわすれ、明滅する球体に目も心も奪われ、その口からあるはずのない荒い吐息が幻視されるほどに興奮している様は、まさしく仕留めた獲物の肉を前にした獣の様子そのものだった。

 おあずけがいつまでも続くはずもない。何せ彼は獣なのだから。仙の琥珀は走った。一目散にその卵に向かって。

「……ねぇ! どうするの。やられちゃうよ!」

「任せるよ、あの子に。あたしはお願いした。あの子は了承した。だったら、信じるしかないでしょ」

「悠長なことを……! ルーシュン!」

 エルナが叫ぶと、蛇が生じた。しかし白樺の木を一抱え、といったところか。山のように巨大な仙の琥珀を相手取るには心許ない。

「……アドラー!」

 続いて鷲が生じた。これも、人二人を運搬するための大きさというのが、力を押さえていたのだと分かる大きさだった。翼長八シュリットほどの大怪鳥。しかし地を鳴らしながら走る仙の琥珀の巨躯には到底及ばない。

 悔しさに歯がきしんだ。エルナは叫んだ。

「お願いよ! 私たちの獣じゃ太刀打ちできない……! なんとかして……なんとかしてよぉ!」

「慌てなさんな……! 大丈夫。ガーベルマータを信じて」

 仙の琥珀はショーポッドたちの目の前を瞬く間に通り過ぎた。ガーベルマータに迫る。その中央にきらめく卵へと手を伸ばす。そしてその手が触れた……まさにその時だった。

 吸い込まれたのだった。

 仙の琥珀の鋭利な爪が、厳かなる球体を傷つけることはなかった。その爪が球体にそのままめり込み、慌てて引いたその手には、球体に喰われたと言っても過言ではない、丸い痕跡が残されているばかりだった。

 エルナは唖然としていたが……ショーポッドは。この事態を想定していただろうか。いずれにせよショーポッドの表情が、緊張に満ちた物から安堵の一色へと塗り変わったことには変わりない。

「さぁ、ガーベルマーター。抱きしめてあげて……。彼の苦しみを、還してあげよう?」

 彼女の獣は、その時初めて自ら動いた。両手を失い、這いずるようにしてあとずさる仙の琥珀へ悠然と追いつくと、彼女を構成する無数の皮膜を目一杯広げた。そして仙の琥珀を覆うように被さったのである。

 仙の琥珀は、大いに暴れるかと思われた。しかしエルナと仙の琥珀の目に映ったのは真逆の光景だった。仙の琥珀は何の抵抗もしなかった。ただ降りてくる塩の帳を仰ぎ見て、受け入れた。ガーベルマータが彼の姿を覆い尽くすその瞬間まで、仙の琥珀は口をだらりと開け、よだれすら垂れそうなほどの、安堵を浮かべていた。

 それはまさしく抱擁だった。ガーベルマータの降ろす天幕がバーンシュタインを完全に包み込んだその時、エルナの瞳からは一粒涙がこぼれた。安堵の中、温かな抱擁に沈んでいく仙の琥珀の姿はすなわち、バーンシュタインが抱えていた苦悩であったり、煩悶であったり、そういった苦しみの類いが一切救われたということに他ならず、故にエルナは嗚咽を呑み込むことが出来ずに、その場に崩れ落ちた。

 ショーポッドはその背中から、覆い被さるようにしてエルナを抱いた。


「さぁ、行こう。バーンシュタインさんのところへ」

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