貴方と私はもういません

八ツ波ウミエラ

日夏子と若菜

 夏休み。この素晴らしい時の中、わたしは最悪な日々を過ごしている。


 初めての海外旅行(行き先はイギリスのロンドン!)のための準備を終えて、カレンダーをにこにこ眺めていたのが7月31日。


 階段から落ちて右足を骨折したのが8月1日。


 わたしを残して家族が飛行機に乗ったのが8月2日。


 そして日夏子との二人暮らしが始まったのも8月2日。



「若、骨折だなんて、大変でしたねぇ。みんなが帰ってくる8月7日まで、洗濯でも料理でもなんでも私がしますから!ゆっくり休んで下さいね。」


 東京から広島まで、何時間も新幹線に乗って来たであろう日夏子は、わたしの家に着いてすぐにそう言った。


「若って呼ばないで。世話もしないで。自分のことは自分でする。」


 遠くから面倒を見に来てくれた従姉妹に対して、わたしは冷たく接することしか出来ない。


 親が若菜なんて名付けるから、日夏子が誰にでも敬語で話すから、何もかもが前の自分と重なってしまう。わたしはそれが、とても苦しい。


 わたしが最後に惣一として過ごしたのは1945年のことだ。菓子屋の跡継ぎで、まわりはみんなわたしを若と呼んだ。


 それは近所に住んでいた5つ下の幸雄も同じことだった。若、今日は母親に叱られて落ち込んでいるので羊羮をひとつ下さいだの、若、帽子が木の枝に引っ掛かったから肩車をして下さいだの、敬語は使ってくるくせに、あまり敬う気は無かったらしく、随分と振り回されたものだった。


 その幸雄が、今では日夏子という名になって目の前にいる。冷たいことを言われたからだろう、悲しげな顔をしている。


「若、そんなこと言わないで下さい。右足を骨折しているんですよ。慣れないことも多いでしょう。甘えていいんですよ。私のほうが5つお姉さんなんですから!」


 前はわたしが5つお兄さんだったよ。



 テレビには凄まじい行列が映っている。タピオカを求める人々で出来た行列だ。


「コーヒーにタピオカが入ってるやつ、美味しそうですねぇ。私、調べたんですけど、広島にもタピオカ屋さんがあるんですね!買ってきますから、一緒に飲みましょうよ!!」


「いらないよ。」


「だ、だったら…………イクラ丼はどうですか?!」


「……なんで急にイクラ丼が出てくるの。」


「タピオカ屋さんに置いてある、大きなタピオカの食品サンプルを見るたびに、私は何故かイクラ丼が食べたくなるんです……。」


「…………イクラ丼もいらないよ。」


「そうですか……。若、私と一緒にいるのは……嫌ですか?私ね、5歳の時にお母さんとお父さんに、赤ちゃんを見に行こうと言われて広島に来ました。」


 わたしはテレビの画面を見ている。日夏子がわたしを見ているのに気付かないふりをする。


「そして病院で、生まれたばかりのあなたがすぅすぅ眠っているのを見て、ああ、この子が幸せになる手助けをしなくちゃと思ったんです。この子を、絶対に守るって、思ったんです。」


 わたしも、5歳の時に、近所に生まれた赤ちゃんを見に行こうと親に言われた。そして生まれたばかりのあなたがすぅすぅ眠っているのを見て、同じことを思ったよ。


 でも叶わなかった。あなたもわたしも戦争のせいで死んだ。8歳と13歳だった。



 8月6日、洗濯物をたたみながら日夏子が言った。


「私……なにかを、忘れているような気がするんです。」


 外で子供たちがバイバイと別れを告げている声がする。今は18時。遊び終わって家に帰る時間。


「ねぇ、思い出さないで。お願いだよ。」


 夕焼けが作り出した日夏子の影に向かって私は呟く。怖くて日夏子の顔を見ることが出来ない。


 お願いだから、わたしがあなたを、守れなかったことを思い出さないで。


「ああ!!!!!思い出した!!若、今日が誕生日じゃないですか!!!なんで言ってくれないんですか!!!!!!!」


 日夏子は大急ぎでケーキ(ふたりしかいないのに4つも!)を買ってきて、嫌だと言ったのにお祝いの歌まで歌った。


「ケーキ、4つとも若が食べて良いですからね。私は甘いものは苦手なので……。」


「え?!そうなの?!…………羊羮も苦手なの?」


「苦手ですねぇ。あ、抹茶羊羮とかなら……食べれる……かなぁ……。」



 わたしは14歳になった。もはや惣一として過ごした時間よりも、若菜として過ごした時間のほうが長いのだ。わたしは惣一ではない。そして日夏子も、幸雄ではない。


 大丈夫。ここにいるのは、日夏子と若菜。


「ねぇ、やっぱり、今度タピオカ買ってきて。……ふたりで一緒に飲もうよ。」


 日夏子は笑って、イクラ丼も買ってきて良いですか?と言った。

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