粉骨

佐藤踵

粉骨


 大人になったって、生傷は古傷なんて過去になり得ないまま、じゅくじゅくと心を抉り続ける。過去というには物新しいその記憶と痛みに、これからも翻弄され続けるんだ。ずっと、ずうっと。


 右腕に差し込む日光に、冬物の上着なんて着てくるんじゃなかったと少し後悔する。ウール素材のジャケットの毛羽立ちが気になったが、信号が青になり慌ててアクセルを踏む。

 墓園の駐車場に入る。ジャリジャリと石を踏むタイヤの音で目が覚めたように大好きな歌のサビに気が付く。皮肉が効いているけれど、幸せを歌った曲……。何時もの調子で口ずさんでみるけれど、駐車場はガランとしていてすぐに車を停めることが出来た。エンジンを切って俺の声だけになってしまうと、どうも頼り無い。

 上着を助手席に投げ置く。車を降り、吸い込んだ空気の懐かしさに頭痛がした。あんまり線香の匂いにあてられると、痛みで身体が崩れてしまいそうだ。だんだんと鮮明に、密度が高まる輪郭に耐えられず、鼻をつまみ足早に事務所と書かれた看板の矢印を追う。

 そよぐ木の陰、砂利道。墓園の道幅が狭く感じる。

 鼻をつまんでいても、嫌でも目に映る景色に目眩がした。くそ、くそ。そして今此処で苦しむ自分にも嫌気が差して、顳顬こめかみをドクドクと脈打つ、表面的な痛みだけに集中する。


 昔は、生い茂る木々から覗く黒い屋根だけを見ていたが、回り込んでみると、全貌は意外と大きな建物で驚いた。事務所内には客がおらず、すぐに受付カウンターの中年男性と目が合う。名乗り出ると、「あぁ」と思い出したように手元の分厚いファイルと閉じた。

 少し待たされて、男性が抱えて来たのは仰仰しい箱だった。側面中央に香典袋の水引のような飾り紐が付いていて、白地に薄い銀色で菊の花が描かれている。それを傍らに記名やどうでもいい確認事項へのチェックなどの事務的処理を済ませて、受け取ろうとする。

 まじまじと俺を見つめていたカウンター越しの男性が、いやぁ……と切り出す。

「引き取り手の無いご遺骨が増えててね。若いのに感心だ」

 そりゃあそうだ。五年黙っていれば勝手に無縁仏に放り込んでくれる……墓を建てなくても供養されるのだ。況してや孤独死するような状況ならば、親族が引き取りを拒むのだって当然だ。そんな状況になる程、縁遠かったり確執があったりするのだろう。


 事務所を出て、木陰を歩く。抱えた遺骨は軽く、こんな軽さに怯えた毎日が馬鹿みたいで笑えた。……少し鼻で笑った。

 痛みに、悲しみに、怒り。一粒ほどの思慕のはずが、天秤が振り切れなくてまた泣いた。そんなどどめ色の日々を断ち切ったはずでも、顳顬の痛みの根っこが断ち切れずにいた。

 真っ直ぐ進み、突き当たりを左に曲がると母の墓がある。母は優しかった。優しかった故に早死にした。今となっては薄ぼんやりとしか憶えていないけれど、曇り硝子越しでも笑顔だとわかる。それくらいに愛情の全てを注いでくれた人だった。

 母さん、今俺は楽しいよ。今更だけれど草野球のチームに入ったんだ。その話は、また今度。

 心の中で呼び掛けて、駐車場への階段を下る。今日は手向ける花も持って来ていないし、何よりこいつを近付けたくない。死を以ってやっと決別が出来たのに、あんたも早死にとは……呆れるほどに狡い奴だ。

 チリン。

 鈴の音がして、ふらつく。

 助手席に骨箱を置き、上着を覆い被せる。その哀れな姿に幼い自分を重ね合わせる。あんたが酒を飲んで帰って来て母さんを殴っている間、俺は声を押し殺し、布団を覆い被せて泣いていた。自分が殴られたほうがマシだと飛び出ても、俺を庇う母さんがまた殴られる。それを知っていたから、熱りが冷めるまで、殴るのに飽きて鈴の付いたキーケースをポケットに入れて出掛けるまで、感情も殺してじいっと待つのだ。罵倒と、嗚咽と、高音の耳鳴を顳顬で感じながら。

 あいつの居ない間は、母さんと色んな話をした。湯気の立つ夕飯を運びながら、二人で暮らせるようにお金を貯めていると言っていた。俺も高校に行ったらバイトをすると言うと、潤んだ目で謝られた。ごめんね、ごめんね、と。

 そんな話をしたすぐ後に、母さんが死んだ。中学生の頃だった。心労が祟ったらしい。俺は不思議と悲しさを感じていなかった。やっと解放されたとさえ思った。……無論、後を追うつもりだった。

 しかし俺は、死ねなかった。あいつが、あいつが、母さんの仏前で泣いていた。許せなかった。母さんを死に追いやったくせに、殴ったくせに、両手をついて涙を流しているのだ。線香にまみれて、和室に俺の怒りが立ち込めた。悲しむ権利なんてあんたにはこれっぽっちも無いのに、侮辱だと、冒涜だと思った。許せなかった。

 そして俺は、生き抜くと誓った。絶対に屈せずに、あんたの死に直面して笑ってやろうと決めた。階段を上がる鈴の音と頭痛に耐えながら生きてきた。どんなに殴られても、灰皿を投げつけられて視界が赤く泥濘んでも、絶対に屈せずに飽きるまでそうさせた。母さんだってこの痛みを堪えたのだから。

 そんな生活からおよそ五年ほど経ち、高校を卒業してすぐに、今のアパートへ引っ越した。母さんの遺影以外、全てを置いてきた。しかしこれが真の解放で無いことくらい、俺にもわかっていた。

 チリン。

 鈴の音、顳顬の脈動、頭痛。俺の居場所を知らないはずのあいつの幻影に苦しんだ。そしてあまりにも深く鮮明に抉られた傷口は、古傷にはなり得ないことを知った。


 エンジン音と、好きなバンドのアップテンポな曲。意味があるのか無いのかわからないような歌詞が心地良い。押し付けられるくらいならば、置いてけぼりを食ったほうがマシだ。

 随分と遠くまで来た。辺りは夜とも夕方とも言い難い薄暗さで、煙草を吸おうと開けた窓からはひんやりとした風が吹き込んできた。葉のそよぐ音、埃っぽい匂い。煙草の匂いもすぐに車を通り抜けていった。

 煙草を咥えたまま、車を降りてトランクを開ける。ところどころ赤茶色に錆びた工具箱は重たく、グッと力を入れて持ち上げると、シャラシャラと中で釘が動いている。運転席に乗り込みそれを膝に乗せる。工具箱から選び取り出すのはこれまた錆びついた金槌。一度助手席へと置く。

 さて。煙草の灰を落として咥え直す。大層な装飾の施された骨箱は高尚で、笑ってしまうほどに内容物とは不釣り合いだ。蓋を開けると中にはさらに木の箱。野たれ死んだ男にここまでする必要があるのか。死んだら全て赦されるのか? 生前の素行に関わらず安寧が約束されるのか? そう苛立ったが、きっと自殺者も死刑囚も同じように管理されているのだ。〝死者は弔うべき〟などと言う堅苦しい様式美に当てはめていると思うと、多少は納得できた。

 木箱の中、やっとビニールに包まれた遺骨が見えた。灰皿に煙草を押し付ける。ゆっくりとビニールを摘み持ち上げると、黄ばんだ骨はちょうど人と物の間のような不思議な物質で、直視するのに嫌悪感があった。

 到底父親とは思えない脳味噌、痛みを知らない心臓、母さんの仏前で涙を流した眼……その全てが焼かれ、灰になったと実感する。そして残った汚い骨は、母さんを殴った。俺を蹴った。またしても痛みの輪郭が浮き出てきて、心臓がどくどくと脈打つ。汗ばんだ額を手の甲で拭うと、手が震えていることに今更気づいて細長くため息を吐いてみた。

 金槌を持つ手も震えていた。でも砕くだけだ、震えていても構わなかった。やっと消し去ることができる、やっと痛みから解放される。

 チリン。

 いつまでもうるさい。もうすぐだ、もうすぐ。

 

 草の生えていない土を選んで、ビニールのまま遺骨を投げ置く。傍にしゃがみ込んで大きい骨に金槌を落とすと、少しだけ砕けて白い粉が出た。軽石並みの命でも、軽石のように簡単に粉砕できるわけではなかった。

 砕く、砕く。すぐに砕ける部分と硬い部分があった。硬い部分には何度も何度も金槌を落とす。お前が何度も何度も母さんや俺を殴ったように。俺たちのわずかな希望やわずかな思慕を嘲笑ったように。汚い涙で母さんの死を冒涜したように。

 ……

 随分と時間が掛かった。

 粉々になったそれは、ついに無機物へと成り下がった。あいつが生きていた証明がようやく形を無くして、俺の心の炎とも靄とも言えない激情が取り払われた気がした。もう苦しめられる必要も無い。幻影に怯える必要も無い。長年俺に付き纏った「痛み」から解放される清々しさを夜風と共に感じていた。

 本当はこの手で殺してやりたかったが、叶わないのならばもう一度殺すまでだ。心臓が止まる死と、忘れ去られる死。この二つの意味を持つ死を与えてやる。お前は永劫、孤独に漂うんだ。

 骨を撒く。広大な海にではなく、風に乗せるわけでもなく……森とも言い難い雑多な茂みの中に適当に撒く。何処へも行けないし、この汚い茂みの中では安寧も得られないだろう。生きている間に苦しめたぶん、これからずっと漂い続け、苦しむといい。

 ……

 

 車へ戻りエンジンを掛けると、期待外れのバラードが流れた。清々しさに水を差したくなかったが、曲を変える気力は無かったのでそのまま垂れ流す。


 チリン。

 

 あぁ、辛気臭いバラードのせいで涙が溢れて止まらない。鈴の音、嫌な脈動、顳顬の痛み。家に帰れば今まで俺を苦しめた全てが無くなるはずだ、明日から全て忘れられるはずだ。


 骨を砕いたのだから。

 

 

 

 

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