エピローグ

「お、来た」

 バイト先の建物から外へ出れば、壁にもたれかかって待っていた結に声をかけられる。

「あれ、ごめん、待った?」

「や、全然」

「そっか。……結、髪に桜付いてる」

「マジ?どこ?取って」

 結が連れてきた桜の花びらを、髪からそっと剥がして風に飛ばす。春になって、大学生になった。結はといえば、例のコンクールでみごと金賞をもぎ取って志望校にも合格していた。ちなみに怜も結と同じ学校、コンクールでは結に続く銀賞だった。

 あのコンクールの表彰式が終わってすぐ、怜が自分たちの元へやって来た。

「曲に気持ちを込めろ、というのがどういうことか、野々村の演奏を聴いて分かった気がする。猫宮も、野々村も、本当に済まなかった」

 そう言って、深々と頭を下げていた。

「……京は辛かっただろうからそっちはすんなり許してはやれねーけど、俺は、謝ってくれればそれでいーよ」

 だって結局俺が勝ったし!と、貰ったばかりの表彰状を怜に突きつけた。突然の事に驚いていた様子だったが、すぐ呆れたような笑みを作って、そうか、ありがとう。と握手を交わしていた。自分にも本当に悪い事をしたから、何日分かのレッスン代も兼ねて腕を治す治療費を出すと申し出てくれたが丁重に断った。

 そもそも、腕の後遺症なんてほんとうに大したことはなくて、本気でリハビリを積めば多分、前より多少不自由にはなるかもしれないが、ピアノだって弾こうと思えば弾けていた。それを分かっていてやらなかったのは、事故をきっかけにピアノが弾けないかもしれない、と言われたとき、今までずっと周りから感じていた圧が薄くなったような、肩の荷が降りたような感覚に、自分は本当はピアノが大して好きでは無かったのではないかと思ったから。今までピアノに触れなかったのも、本気で弾いてる奴の横で中途半端な気持ちでピアノに触れたくなかった、ただそれだけの話なのだと言えば、怜も、それから結も唖然としていた。腕の後遺症が相当酷いと思われていたのだろう、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。

「いや、でも京のあれ、ピアノ弾かなかった理由、普通にビビったって」

 二人で桜の木が立ち並ぶ道を歩きながら、結が言う。

「ごめんごめん。……でも、ピアノってやっぱり、いいよね。楽しい」

 今のバイトは、ピアノの講師だった。昔お世話になっていた先生が産休に入ると言うので、その間の代役を務めさせてくれないか、と頼んで今に至る。

「だろ?あんなガチガチのピアノ弾いてた怜ですら最近は楽しそうに弾いてんのに、人のピアノ聴いてるだけでめちゃくちゃに幸せそうな顔してた京が楽しくないなんて言ったらそれこそビビる」

「え、そんな顔してた……?」

「してたしてた!怜に言ったら『俺のときはずっと難しそうな顔して聴いてたぞ』って言ってたけどな。でもそれはお前のピアノがかたすぎたんだよって言い返してやったら若干ダメージ受けてた。……でも、良くなったよ、怜のピアノ。前よりずっといい」

 あのコンクール以来、結はよく怜の話をするようになった。自分は大学が違うから、話を聞いて羨むことしかできないなぁ、なんて思っていた矢先

「でも、俺は京のピアノが一番好きだから!あと、怜が京も入れてまた三人でどっか行こうってさ」

 なんて言うから、嬉しくて、なんだかちょっと恥ずかしかった。

「……結、走って帰る?」

「え、ううん、なんで?」

「なんか、楽しい気分だから!じゃ、いくよ。よーい、ドン!」

「走らないって言ってんのに〜」

 そう言いながらもちゃんと着いてきてくれる結は優しい。春の空気をいっぱいに吸い込む。まだ始まったばかりの新生活に期待を膨らませて、まだ見ぬ世界を見るために。春の追い風を受けて、どこまでも。

 結と、怜と、みんなと一緒ならどこまでだって行ける。そんな希望を胸に抱いて、Tempo Rubato(自由な速さで)、散りゆく桜の花弁を引き連れて未来へ向かって駆け抜けた。

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テンポ・ルバート 芹なずな @manyamin

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