第7話
無事検査も終え、なんともなかったので退院を許されて早数週間。どうせ今日も、怜のところへ行くんだろう。そう思っていたから、いつからか京と一緒に帰るのを諦めていて、今日もさっさと帰ってしまおうと、荷物を持って教室を出ようとした時だった。
「ま……、待って、結!」
呼ばれてすぐ肩を掴まれてゆっくり振り返れば、しょげた子犬のように、困ったような、助けを求めるような顔をした京がいた。
「え……っと、ご飯でも食べる……?」
「……は?」
京の提案で入った駅の中のファストフード店で、俯いたまま、せっかく温かい状態で出されたハンバーガーに手をつけることも無く、無言のままの京の前で、一人ハンバーガーを食べていた。
「……それ、嫌いだった?」
「え……?いや、そんなことはないけど……」
注文カウンターに立った時、俺が注文を終えても京がぼーっとしたまま注文しようとしないので、何食うの?と訊くと慌てたように
「あ、じゃあこの人と同じのを……」
と、俺を指さして言っていたので、もしかして俺が何を頼んだか知らずに同じものを注文して、出されたものに嫌いなものが入っていて困っているのでは、と思ったのだがそうでも無いらしい。
「じゃあ何、体調わりぃの?」
「いや……」
今度はさっきよりも返事も短くなったし、眉間の皺も寄った。本当は、京が黙り込んでいる理由がこれじゃないことくらい、なんとなく分かっていた。
「……前、病院で言ったこと、気にしてる?あれは……、俺も言いすぎたって言うか、マジで京のこと頼りにしてっから余裕なくて……、ごめん」
多分、俺が怒っていると思っているから話しづらいのだということは、薄々気付いていた。だから、これで絶対いけると思ったのに。こっちが正直に謝れば、それで和解できると思ったのに。目の前の京は、泣いていた。
「え、なんで……?そうじゃないのかよ、なんだよどうしたんだよ」
予想外のことに驚き、どうしていいか分からず戸惑っていると、京がやっと自発的に、意味のある言葉を発した。
「……どうしよう」
涙をぽろぽろ零しながら、京がゆっくり顔を上げる。
「どうしよう、怜の家、飛び出してきちゃった……、結がちゃんと評価されなかったら、どうしよう……!」
怜のピアノの面倒を見るのをやめたらしいことは分かったが、その後が、京のどうしようの理由が全く分からない。
「待て、落ち着け。一個ずつ、ゆっくり話して欲しい」
言いながら、恐る恐る京の背中に手を伸ばして撫でてやれば、上がっていた息も少し落ち着いて、ちゃんと話せる状態になった京がまた口を開く。
「今まで、色々黙っててごめん……、怒ってもいい。怒ってもいいから、ちゃんと、聞いて欲しい」
駅で最初に怜に会った日、結を追い返した後で怜が最初に言ったのが、
「コーヒーでも飲むか?」
だった。怜に連れられて全国チェーンの喫茶店に入ってすぐ、また怜が話し始める。
「お前、俺のピアノを見る気は無いか」
「……どうして?」
「実力があるからだ。実績もある。講師の口からお前の名を聞くことさえある。それに……お前、野々村のピアノを見てるだろ」
すぐに断わって帰ろうと思っていたけれど、結の名前が出てきたことで思い留まって半分浮いていた腰を下ろし直す。
「そうだね、どうして分かったの?」
「やっぱりな。野々村は前からそれなりに上手かったようだが、ここ二年、お前が舞台を降りてから急成長した新星だ。元からお前と野々村は仲が良かったようだし、きっとそうだと思っていた。……野々村は、上手くなった。次のコンクールはあいつと被ってる。だが俺にとってもほぼ最後の機会だ、俺も勝ちたい」
だから、俺のとこに来い。そう言った怜の目は強かった。
「行かない。結のピアノを聴くのは僕の趣味みたいなものだし、結も多分、僕の意見を頼ってくれてる。結を裏切りたくないんだ」
「……だろうな。じゃあ、お前の左腕、治療で良くなる所まで可能な限り良くしてやる。ただし、俺が本選で優勝したらな」
「結構です。今のままでも、普通に生活する分にはほとんど問題ない」
「だがお前、もう一度ピアノを弾きたくはないのか」
「それは……。でも、行かない」
「そうか……、あまりこんな脅しは使いたくなかったけどな、仕方ない。麻倉の親戚に、次のコンクールの予選の審査員でそこそこの権限を持った人がいる。本線ではさすがに手を出せないが、予選ならこっちが本気になれば……金で野々村を潰せる」
怜の目がギラギラしていた。言葉にこそしないが、どうだ、こっちへ来るだろ?と、言っていた。
「……ゲスいね、どっちを選んでも僕は結を傷付ける結果になるって訳か……」
「ま、そういう事だな。最初の条件で折れなかった自分を恨むことだ」
そう言って、怜が澄ました顔で手元のコーヒーに口をつけた。考える時間をやる、という意味なのだろうが、そんなもの必要ない。端から結の可能性をへし折ってしまうか、自分がいなくてもいつもどおりの演奏をしてくれることを祈って自分は怜の元につくか、なんて、それくらいのこと即決できる。
「分かった、そっちへ行くよ」
そう返事を返せば、怜が満足そうな顔をして笑った。こうして交渉が成立した、はずだったのに。波風立てぬよう、上手くやってきたつもりだったのに。それなのに昨日、怜を怒らせた挙句、家から飛び出してきてしまった。
「どうしよう……、どうしよう結、ごめん、こんなつもりじゃなかったんだ……!」
せっかく結が一度涙を止めてくれたのに、話し終わるとまた罪悪感でいっぱいになって涙が溢れる。
二年前、京がピアニストになりたいと言った時、正直驚いた。けれど、お前の夢を叶えてやる、と言ってくれたことが、単純に嬉しかった。自分の夢を押しつけてしまってもいいのだろうかという気持ちもあったが、真剣にピアノを弾く結を見て、そうじゃないな、と思った。本気なんだ、と。だから、今まで本気の結を応援してきたのに。
「は?どうしよう、じゃ、ねーだろ」
「……ごめん」
怒るのも当然だ。せっかく頑張ってきたのに。結の場合、本当に真剣にピアノを弾いた期間が二年という短い時間なだけに、同じ学校を目指す他の人よりもキャリアが浅い。だから、優勝、とまではいかずとも、上位の賞は取っておくべき大会だったのに。それを、潰してしまった。
「そうじゃねー、京は悪くねーだろ!?むしろ、今までごめん、ずっと気付けなかった……。辛かった……よな?ありがとう」
結が、慰めるように、勇気づけるように背中をぽんぽん、と叩いて、それに、と言葉を続ける。
「それに、それって俺が審査員がいちゃもんつけられねーよーな完璧なピアノ弾けばいいんだろ?やってやんよ、ぶっちぎりの一位通過で本選まで行ってやんよ!」
そう言ってにかっと笑った。
「で……、でも、そんなこと……!」
「できる、京が一緒だったら。もう怜んとこじゃなくて、こっちに戻ってきてくれるんだろ?」
「そりゃ、結がそれでいいなら、もちろん」
「じゃあ絶対いけるって!」
ほら、と言いながら、結が拳を作って前に差し出す。
「勝利の誓い!」
結に急かされて、コツ、と控えめに拳を突き合わせて、自分も心の中に誓いを立てる。
絶対、結を予選なんかで落とさせたりしない。絶対に、本選で入賞まで連れていく、と。
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