第6話
その部屋には、ピアノの音が響き渡っていた。奏者の性格を表すように、はっきりと澄み渡った音色。スラスラとよく回る指が生む滑らかなメロディ。楽譜通り、きっちり、漏らすことなく、示された記号どおりに表現される音。
麻倉怜のピアノは、正確だった。指示されたところでしかテンポも揺れず、間違った音も鳴らさない、完璧な演奏。だが
「凄いね、一回もミスしなかった。でもね、楽譜に従うことはもちろん大事なんだけど……」
「なんだ、続きを早く言え」
「……この曲は、理想とされる演奏法がある程度固まってしまった曲だから意外性、オリジナリティを出しにくい。でも逆に言えば、この曲で他と違う演奏が出来れば、上位の賞との距離もかなり近くなるはずなんだ。……けど、今の演奏は理想形の型にバッチリはまってる」
怜の演奏は完璧だった。が、それ故にどこかで聴いたことのあるような演奏になりやすい。毎度言い方を変えてはいるものの、この話をするのももう何度目だろう。
「具体策を教えろ」
「もう少しイメージを膨らませてみて。曲の情景を思い浮かべて……」
「具体策を、教えろ。どこをどう直せばいいのか、明確に示せ。お前ならどう弾く」
このやり取りも、多分五回はした。いつもは渋々、自分が感じた曲のイメージをほんの少し話すが、その部分はちゃんと雰囲気を変えてくる。怜は努力家だし、ピアノが上手い。どう弾けばいいのかが分かれば、スルッと弾けてしまう。だからこそ、だ。
「……これ以上、怜の言う『具体策』は教えられない。こういうのは、ある程度自分で考えないと意味が無いんだ。人に押し付けられて弾いた音と、自分で鳴らしたいと思って出す音は違う。人に言われて弾くだけなら、プログラミングされた自動ピアノにだってできる。……僕は怜に代奏して欲しいわけじゃない」
「……自動ピアノだと?俺だって、お前の代奏をしているつもりは無い。もういい、お前に教える気がないなら、話は全部チャラだ」
「僕はちゃんとやってるつもりだったけど、怜がそう言うなら。……お邪魔しました」
僕がそう言い捨てて部屋から出る間、怜は一瞥もくれなかった。勢い余って部屋から飛び出してきてしまったが、もう少し冷静になればよかったと、今更後悔する。
「どうしよう……」
麻倉家から駅まで行く間、考えていたら焦りで足が前へ進まなくなって、その場にしゃがみ込む。正直、自分の腕のことはどうでもよかった。問題は、そこじゃない。怜は、『全部』チャラだと言った。全部。
腕のことでは無い。もう一つ、自分を頼ってくれている結のピアノを聴くのを辞めてまで怜のところへ通っていた理由があった。
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