第5話

 目を開けると、無機質な白い天井が見えた。俺はまだ、生きていた。あんなに大きな鉄の塊にぶつかったのだから、絶対、死んだと思ったのに。死んだどころか、左足──ピアノを弾く時に一番無くても困らない部分が折れただけで、他はなんともない。頭を強く打った為、念のために精密検査を、と入院こそしているが、どうせなんともない。

 しばらくは安静に、と言い付けられ、暇を持て余していたところへカーテンの向こう側から久しぶりに自分宛の声が届く。

「結、入るよ」

 聞き慣れた声がして、入るな、と言おうとしたのに反応が遅れて、返事をする前にカーテンが開いた。

「あ……、結、起きてたんだ」

「……んだよ今更。お前、俺の事なんかどーでもいんじゃねーのかよ」

 自分で言っておいて、悲しくなる。友情を切ってまで京がその選択肢をしたことが、悲しい。でも、京の腕が治るなら──。あまり京を責める気にもなれなかったし、もしかしたら否定してくれるんじゃないか。そう、淡い期待を込めて。

「え……?それ、どういう……」

「とぼけるな。……怜が、言ってた。京が腕の為に俺との友情を売ったって。……知ってるんだろ、オレが京のアドバイスをすごく頼りにしてるって。分かってて、怜に付いたんだろ。俺の面倒を見ても、俺はお前に何もしてやれないから……」

 京は酷く傷ついた、今にも泣きそうな顔で俺の目を見ていた。何か言いたげに動いた京の口から否定の言葉は出ず、言葉にすることを諦めたように口を閉ざして俯く。

「……ごめん」

 そう小さく呟いた京の声は、小さく震えていた。

「否定……、しないのかよ」

「本当に、ごめん……」

 京は欲しい俺の言葉はくれない。ただ、困ったように、今にも涙を零しそうな瞳で微笑むだけ。心のどこかで、京が怜の言葉を否定してくれるのを信じていた。自分の腕よりも友達とはいえ他人のコンクールを優先して欲しいだなんて、とんでもないわがままなことくらい、分かっていた。だから、自分が京に怒れる要素なんて本当はどこにもないことも、ちゃんと理解していて、それでも、勝手に、いつだって優しすぎるくらいに優しかった京に甘えて、期待して、勝手に裏切られた気分になった。気持ちの整理が下手くそで、また何も言えないままで固まっていた自分の手に、京がそっと触れる。

「でも、結がちゃんと生きててよかった……。結はすぐ死にたい死にたい言うから、事故ったって聞いた時、本当に死んじゃうんじゃないかってすごく不安だった」

 京が、触れていたオレの両の手の指をなぞりながら言葉を続ける。

「でも、ちゃんと生きてた。この綺麗な指も、ちゃんと残ってる。ちゃんと動く。ピアノも弾ける。本当によかった」

 京は、愛しいものを扱うかのように俺の指を撫でていた。右手に触れている方の手、京の左手の方だけが若干カクカク動いていて、昔に比べればかなりマシにはなったもののまだ少しぎこちないその動きから、なんとなく目が離せなかった。その手がぎゅっと俺の手を握って離れる。じゃあ、また学校でね、と言い置いて、仕切りのカーテンを開けようと手をかけた京の背中に言葉を投げる。

「コンクール、悪いけど、譲らねぇから。……予選も、その先も」

 音大に入って、将来的にはピアニストになれたら──。これは、もともとは京の夢だった。そして、今の、俺の夢。

 初めは、京がやれないなら、と、事故以来ピアノを弾くことを辞めた京に代わって自分が演奏家になってみようか、と、ただ漠然とそう思っていた。京にも話した。俺がお前の夢を叶えてやる、なんて、恥ずかしい事を言ったような気がする。それを聞いた京は、やっぱり優しくて、怒ることなどせず、いいね、ありがとう、と、そう言った。俺の演奏にアドバイスもくれるようになった。そのうちに、ピアノを指導してくれていた先生から、それまで勧められていたものよりも上のコンクールを勧められるようになり、京に背中を押されて出た、そこそこに名の知れた大会でギリギリのところで賞を逃して以来、負けず嫌いだった俺の心に火が付いた。

 今は、かつての京の夢、では無い。これは、俺の夢だ。怜も言っていた通り、キャリアを上げるにはこれがラストチャンスだった。情で手加減できるほど、俺にはそれまでの積み立ても余裕もない。

「……うん、楽しみにしてる」

 一度目は、背を向けたままで

「期待、してる。応援してるから」

 二度目はこちらを振り返って、そう言い残して出て行った。俺は、さっきまで京に触れていた自分の手を見つめて、少し不格好に動く京の手を思い出していた。

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