人間のあやまちこそ、人間を本当に愛すべきものにする

次の夜、紘介は眠りについても、異世界に行くことはできなかった。


その次の夜も、またその次も。


夢の中のことなど、うっすらにしか覚えていない日常に、久々に戻ってきた。


これで、あの異世界のゲームを真にクリアしたということなのだろうか。


魔王や大魔王を倒すことではなく、あれが正解だったというのか。


紘介の心は少し、絶望から脱している。


あれは、異世界の人々を救うゲームではなく、紘介を救うためのゲームであったのかもしれない。


このゲームのクリアはこんなにもあっさりと終わるのか。


周りに友人たちが集まって、拍手をしながら「おめでとう」と言ってくれるわけでもない。


このゲームをクリアしたからには、当分は絶望に悩まされないかもしれない。


しかし、また絶望の淵に至らないとは限らない。


意味の病へのワクチンは打たれているが、いつまたこのワクチンが切れるともわからない。


紘介は今30歳の若造であり、これからの30年、50年、70年で何が起こるかなんてことは想像できるわけがない。


結婚するかもしれないし、子供が生まれるかもしれない、定年退職もしなければならないだろう。


生活の変化によって、いつまた異世界に呼び戻されるかもわからない。


それどころか、桐野さんのように自らの命を絶つかもしれない。


桐野さんが首を吊ったときの心情は今でもわからない。


ただ、桐野さんが、死ぬ必要のない人間だったこと、世の中に少なからず必要とされていたことは疑いない。


あの世というものがあるならば、桐野さんの魂にはそこでこそ報われてほしい。


そして、紘介が死んであの世に行ったときに、酒でも飲みながら、あの世の摂理や出来事を教えてほしい。


でも、あの世でも人格が保たれると仮定するならば、あの世でも意味の病に侵された人々は苦しみ続けるのだろうか。


現世で命を絶つことは、苦しむ人たちにとっての救済でもあった。


しかし、あの世で同じように「終わりなき日常」に苦しみ、「意味の病」に蝕まれるような人には、どのような救済があるというのだろうか。


この仮定の下で、「自殺はいけない」という言葉には重みがあるかもしれない。


現世で意味や競争の大獄から脱獄できず、苦しみ続けて、命を絶った人間は、あの世でも意味を求めて無限に苦しみ続けるのだから。


しかし、科学的というか、冷静に考えるならば、死後の世界などなく、死後は「無」であると考える方が説明がつくのだから、そんなことを考えるだけ無駄だろう。


世界の幾多の教義が、死後の世界について語るのは、そう信じさせることで、現世での生活を円滑なものにするため、あるいは、その方が教義を作る側の人間にとって都合がいいからだろう。


神が人間を作ったというならば、どうして人間は苦しまなければならないのか。


パンドラの箱を開けてしまったから?


では、どうして神はパンドラの箱を開けるような人間を創造してしまったのか。


神の理想通りの、理性的で、合理的な人間が作られていれば、人間は苦しむことがなかったかもしれない。


でも、人間は非理性的であり、非合理的であり、だからこそ、苦しむけれども、楽しむこともできる存在だ。


先が見えている未来など、面白みがないし、不確定的な人生にこそ面白みがあるだろう。


紘介が会社に出勤すると、いつも通り、そこには岩倉さんがいた。


あれから、岩倉さんとも、一条さんとも関係は深まってはいない。

そして、彼女たち以外の交際相手もできていない。


人間を要素として扱ったとき、それは交換可能なものである。


そこに交換不可能性をもたせるものは、偶然か必然かを問わず、経験の共有であるかもしれない。


岩倉さんのような女性はたくさんいるだろうし、もう少し紘介のタイプの女性も五万といるだろう。


しかし、紘介の隣の席で、今この時間を共有している女性は、この岩倉さんだけであって、ほかの誰でもない。


10年付き合った彼女が持つ価値というのは、単なる要素を超えて、共有してきた時間や経験が作り為すものである。


ギリシャ神話のキプロスの王、ピュグマリオーンは自分の理想の女性を彫刻した。


そのうち、その彫刻に恋をするようになり、人間になることを祈った。


アフロディーテがその願いを聞き入れて、彫刻の女性は人間となり、ピュグマリオーンはその女性を妻とする。


もし、ピュグマリオーンが、自分の作った彫刻ではないが、理想の女性というものに出会ったとき、彼は彫刻と同様に愛することができただろうか。


理想の女性を妻に迎え入れるという結果は同じであっても、自らが長年かけて作り、愛してきた彫刻とは違うものだろう。


人間から、その経験を取り除いたとしたら、交換可能であるかもしれないが、今この瞬間を生きている経験こそが、自分を唯一無二の存在にしてくれている。


紘介が会社を辞めたところで、紘介の代わりとなる人間がその仕事をやってくれるだろう。


紘介が結婚したとする。その結婚相手は紘介と結婚しなかったとしても、別の誰かと結婚していただろう。


しかし、この紘介と全く同じ人間というのはこの世には存在しない。


バタフライ効果というものがある。


ブラジルで、蝶が羽ばたいた影響により、めぐりめぐってテキサスでトルネードが起こる、と言ったように、些細な事柄が大きな変化を世の中に与えることである。


紘介は総理大臣でもなければ、偉大な英雄でもないから、直接的に世界を動かすことはできない。


しかし、紘介の歩く一歩一歩は確実に世界に影響を及ぼしている。


紘介がいなかったなら、今のこの世界は違うものになっていたかもしれない。


それほどまでに、世の中は複雑なピースの重なり合いでできている。


単に同じ大きさのもので代替が効く歯車ではないのだ。


桐野さんは、今、この世にいることに意味を見出せなかったのかもしれないが、意味など追いかけなくても、存在意義はあるのだ。


30歳は、一つの節目である。


たまたま、10進法で10の位の数が進む年というだけではあるが、学生から社会人になったばかりの20代とは違う。


20歳とは違い、30歳になっても社会は祝ってくれない。

もう、社会から祝われる側ではなく、社会として祝う側になっている。


どこに行っても一人前の大人として見られる。


同級生にはもう結婚している人も多いし、子どもがいたって普通である。


ルックスも、運動神経も今後、衰えていくし、もう人生における一通りのステージや楽しみを経験してしまっている。


あとは似たようなつまらない人生を送るだけかもしれない。


しかし、人生が50年だった時代から、100年の時代になろうとしているから、まだまだ若造の年代だ。


30歳で人生に飽きてしまった人間が、あとの70年をどうやって過ごせば良いというのか。


自分が偶然、持っているもの、偶然、自分の周りにいるもの。


意味のないそれらのものに価値を感じ、足りるということをしらなければ、いつまでたっても報われることはなく、ただゾンビのように70年間を漂い続けるだけである。


紘介は、ブリスベンのジェームスさんに、合気道をする理由を聞いてみれば良かったと思った。


無粋な質問ではあるが、彼はまるでメキシコの漁村の漁師のように、生き生きとしていたから、何かヒントが得られたかもしれない。


彼は、何か崇高な目的の下に、意味を感じながら合気道を教えていたのだろうか。


いや、おそらくジェームスさんは、たまたま日本の合気道家と会う機会があって、感化されたから合気道を始めたのだろう。


それが柔道家であれば、柔道だったろうし、中国拳法でも良かったはずである。


偶然、自分が出会ったものを大切にして、80歳を過ぎるまで取り組んでいるのである。


紘介も、今まで出会ったもの、これから出会ったものを大切にしていけば、ジェームスさんのようになれるかもしれない。


それが、意味のある活動である必要はない。

また、将来、彼の横にいるのは、彼の「イデア界の片割れ」である必要はない。



それから、4ヶ月が経った。


世の中は、いよいよオリンピックだということで、浮かれている。


テレビや新聞では、連日、オリンピックの話題が絶えなかったが、紘介は正直に言って、どうでも良いと思っていたし、彼の周りでも観戦に行こうという人はあまりいないようだった。


1940年の幻の東京オリンピックの時代は言うまでもなく、1964年の東京オリンピックの時代でも、オリンピックは人々の夢を背負うことができた。


ナチスドイツがオリンピックを権力装置として使ったように、オリンピックは高度に政治性を帯びている。


戦後の高度経済成長の物語の中で、オリンピックは重要な役割を持っていた。


けれども、今日では社会全体から支持される大きな物語自体が機能しないから、オリンピックというものを冷ややかな目で見る人も少なくない。


オリンピックの物語が社会的に共有されていたならば、人々はもう少し生きやすかったのかもしれない。



一条さんは、会社を辞めてしまった。

旦那さんの転勤について行くためとのことで、「イデア界での片割れ」は、今、どこで生活しているのかもわからない。


岩倉さんは、彼氏と別れたらしかった。

それを知ったときに、紘介は不器用なアプローチをしたのだが、あっさりとかわされてしまった。

断られたのではなく、かわされたというのが味噌である。


桐野さんの話は、会社ではもう出てこない。

あの奥さんがどうしているかもわからないし、桐野さんがなぜ死んだのかという理由も、未だに憶測の域を出ない。


入江係長は異動してしまってから、あまり会うことはない。


細川課長や佐久間係長は今でもたまにすれ違うが、簡単に礼をする程度である。


オーストラリアで会った人たちが、もう二度と会わないだろうというのは、簡単に想像がつくし、あの異世界の人々とも会えないだろう。


日常で近くにいる人も、なかなか実感はできないが、すぐに近くからはいなくなってしまう。


また会える人もいれば、もう一生会えない人もいる。


この一瞬、一瞬を共有する人や、たまたまテレビをつけてやっていた番組が、人生において何の意味を持つかはわからないが、この偶然の出会いというものに満足する。


世の中に飽き飽きしたならば、少しいつもと違うことをしてみる。


いつもと違う道で帰ってみたり、入ったことのない店に入ったり、新しい趣味を始めてみる。


知らないミュージシャンのライブや、劇団の劇を観に行って、もし少しでも楽しめれば儲けものだ。


3連休でもあれば、東南アジアに旅行もできる。


最初の一歩は勇気のいるものかもしれないが、踏み出してしまえば、自分が変わってくる。


世の中の本は絶対に全部読み切ることはできないし、あらゆるスポーツも全てやりきることはできない。


100年は長いけれど、この世のあらゆるものを消費するにはあまりに短かすぎる。


紘介は、あとの70年は楽しみなものとまでは言えないものの、楽しむ価値があると思えるようになった。


異世界とは違って、世界の主人公にはなれないだろうけど、それでいいのだ。


思い通りにならない世界で、苦しいことも、悩むこともあるかもしれないが、それもまた一興なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界転生しないで絶望から抜け出す方法 @philosai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ