第5回「引越し」5000字
引越しとは憧れに近づく行為である。
ひとり暮らしをはじめる時、私は大阪から東京に引越した。ひとり暮らしの理由は東京の芸能プロダクションに合格し、半人前と言えど役者としての活動をはじめるためだ。声優専門学校のクラスメイトとルームシェアをする。場所は営団成増駅から徒歩10分。そこで新生活がはじまる。
某大手引越し社に連絡すると、見積もりを言った後に「正直その量なら◎◎さんの単身パックの方が安いですよ」と教えてくれて非常に好感を持った。幸先の良いスタートだ。引越し業者に少ない荷物を渡し、それらはひと足早く憧れの地に向かう。
引越し前夜、20年住んだ大阪を離れる。センチメンタルな気持ちにはならなかった。上京後はまずバイトを見つけないといけない。猶予は1ヶ月。金が尽きてしまうからだ。不安を抱えたまま眠り、早朝、母親に起こされる。眠い目を擦りながら起き上がると、仕事に出かける前の父親が立っていた。
「まあ、無理せずがんばりや」
「ありがとう。行ってくるわ」
簡単な挨拶だったが、父親の優しさを感じた。東京に持っていく荷物を確認すると、まるで長渕剛の歌のように薄っぺらなボストンバッグ一つに収まる。18時頃、母親と短い挨拶を交わし、しばらくは乗ることがないだろうJR阪和線の席に座る。
大阪駅で当時付き合っていた恋人と待ち合わせていた。相手は声優専門学校の1年後輩だが、年齢は3つ上。デヴォン青木に似ていて性格も勝ち気だった。東通り商店街でお好み焼きを食べ、普段デートで歩いていた梅田の街を歩き、HEP上にある観覧車に向かう。大阪の街を二人で見下ろし、光景を焼き付けようという訳だ。普段の態度からは想像もつかない幼稚な発想を笑い飛ばそうとしたが、余りに真剣に言うので勢いに押し切られて乗ることになった。
観覧車は別に大きくはなく、そこまで大阪の街は見えない。お互いに向かい合うように座り、夜光虫の群れにも見える大阪の街を見下ろす。それなりに綺麗ではあるが、大阪に強い思い入れがない、むしろ粗野でアクの強いこの街が好きではなかった僕はぼんやりと時間を過ごした。
「隣、座ってええ?」
僕の答えを待たずに隣に座る。僕は変わらず景色を眺めていたが、恋人はもたれかかってきた。それっぽく肩を抱くが目線は変わらない。小さな振動と断続的に鼻をすする音が聞こえたので恋人を見ることができなかったのだ。
「東京でも頑張ってや?」
「君も来年なったら来るやん」
「夏とか会いに行っても良い?」
付き合った当初から、私が数カ月後には東京に行くと分かっていたので覚悟はしていたはずだ。引越しの準備も手伝ってくれたし、東京に何度か行ったことがある恋人は美味しいと言われるお店も教えてくれた。どこまでも凡庸だった私と違い、恋人は芝居が上手く、何よりもセンスがあった「私も今から準備しとかないと」と言い、学校生活があと1年あるのに上京プランを細かく決めるほど東京が近い場所にいた。順調に東京に来ることになり、順調に声優としての活動をはじめるだろう。
「寂しいの?」
「それもあるけど……羨ましい」
「どういう意味?」
「だって、まだスタートやけど東京で声優になる訳やん?私に近い人がちゃんと夢を叶えるための一歩進んでるのが……羨ましい」
大阪から東京、新幹線なら3時間程度、高速バスでも8時間程度だ。その距離は物理的な距離だが、地方の人間からすると憧れの距離でもある。多分、四国、山陰、九州、沖縄と距離が開いていくごとに憧れの距離は伸びていく。
恋人の見つめる先は僕ではなくその未来かもしれない。しかし、声優を志す身としてはそんな「同志」が近くにいてくれることがありがたい。
無言は時にして雄弁で、感じ合う体温が通貨となりその場を飾る。さほど大きくない観覧車はすぐに下に降り、程よく充填された心をまだ肌寒い風が吹き付ける。大阪駅の高速バスターミナルはここから歩いてすぐだ。細い道を歩き、二人で何度も行った揚子江ラーメンの横を抜けてバス停を目指す。少し歩いては振り返り、遅れる恋人を少し待つ。振り向くたびに笑顔で返す恋人の顔が、バス停が近づくごとに曇っていく。大阪にいるのはあと20分ほど。それが過ぎたらしばらくは会うことがない。しかし、恋人は今から一年目以上に過酷な声優専門学校二年目に立ち向かう。一瞬にも感じられる学校生活、だから次に出会う時は「ひさしぶり」なんて言わずに自然に会える。それほどまでに激烈な一年なのだ。
バスの乗車がはじまり、列が進むのを見守る。このバスに入ってしまえば距離は開くばかりだが、私の心を掴んで離さない憧れへは近づいていく。しかし、瞳は恋人を捉えて離さない。このバスの行き先は私が追い求めていた世界、東京だ。この街に置いていく思いはない。そう思っていたが、何度も涙を拭う恋人を見ていると、時間が許す限りこの場所にいたいと感じてしまった。
「私……嘘ついてた」
「どんな嘘?」
「さっき、羨ましいって言ったの……嘘……」
声を押し殺して泣いている。乗車待ちの人はもういない。僕が乗ればすぐにでも発車するだろう。そのバスに乗らなければならない。これは、一番近くで私を応援してくれた恋人のためでもあるのだ。
「君なら絶対に東京に来れるよ。それも僕より良い成績で」
「うん……」
「気持ちは嬉しいし、僕も寂しいけど……謝らないといけないことがある」
「何…?」
「寂しい以上に、向こうに行くのが楽しみやねん」
恋人はうつむき、肩を大きく震わせる。寂しがる人間に言う言葉ではないが、そんな気持ちを隠して紡ぐ言葉に意味なんてない。正直にぶつかってくれた恋人には正直に返す。分かってくれなかったらそれで良い。来年、この場所に立てば理解してくれるに違いない。
「ほんま、正直やね」
顔を上げた恋人は涙を流しながら笑っていた。その顔、その言葉を聞いて覚悟は決まった。強く握手し、バスに乗る。乗務員が乗車人数の点検に来た。無事全員の乗車を確認しバスにエンジンがかかる。最後に大阪の街でも見るかとカーテンを開けると、そこには笑顔で手を振る恋人がいた。暗いとは言えない大阪駅、そこで手を振る恋人は、大阪で一番輝いていた。その輝きを10秒は見ていただろうか、バスは発車し、辺りは少し暗くなった。私は携帯電話を取り出し、マナー違反上等と思いながら電話をかける。
「どうしたん?」
「僕も嘘ついてた」
「どんな嘘?」
「やっぱり……寂しいわ」
「すぐ行くから……待っててな」
その言葉を信じて頑張ろう。あと8時間後には東京駅八重洲口だ。そこから山手線に乗り、池袋に向かう。そして地下鉄有楽町線に乗り、営団成増駅で降りて徒歩10分。和光市は白子の2DK。そこで憧れに対峙し立ち向かう。一年後には援軍が来ると分かっている。だからこそ、私はどんな敵が現れても戦うことができるだろう。
引越してから2ヶ月、恋人は大阪に残った僕のクラスメイトと付き合うことになったと連絡してきた。
声優志望者は全員死ね!!!!!!!!!
殺す!その一念だね!?どういうことだ!!!
俺はなあ、お前が上京してきた時に一緒に住もうとして6畳間に不釣合いのソファーを買ったんだよ。光が丘のリサイクルショップで買ってよお、輸送費をケチるために台車に乗せてよお、笹目通りで自転車にチリチリとベルを鳴らされて煽られながら持って帰ってきたんだよ。茶色でふわふわの可愛いソファーだよ。お前が座る場所は左かな?って思いながら右側しか座ってこなかったんだよ。俺のこの優しさ、お前、マジでわかってないやろ?それによお、後になってお前の同期から話を聞いたら、お前、俺と付き合ってる時からそいつが気になってるって相談しとったらしいな?
え?あの大阪最終日の言葉は何?あの涙はなに?マジで教えて、俺、割と理解できないわ。理解力ないんかなあ!?俺、全然理解でけへんわ!!君、大卒だったよね?だからそんなことできるんかなあ?大卒の人の頭の中みたいわ!!お前の脳みそ引きずり出して全部見たいわ!!
ほんま、これどういうことなの?全然理解できない。本当に教えてくれませんか?あのね、僕は頑張ったよ。養成所でバキバキにバトルして、社長とかにもアピールして「来年、恋人が上京するまでに仕事をやりたい」って宣言したよ。初日にそう宣言したら、周りが凄くホッコリした感じになったよ。社長なんて「後藤君、頑張らなきゃね」って言ってくれたよ。養成所で同じクラスになった人も「そういう理由あるって頑張れるよね」と言ってくれたよ?嘘?嘘でございますか?
「さっき、羨ましいって言ったの……嘘……」
あなたねえ!もっとでかい嘘ついてたんちゃいますのん!?あなたねえ!本当にちょっとそれは違いませんか?声優志望者はガンガンに恋人をとっかえひっかえする。それは認めるよ。正直、僕は専門学校で3人と付き合った。同じクラスのAに君の同期のBに君だ。でもねえ、かぶってないよね?期間、お付き合いしてる期間はかぶっていませんよね!?そりゃそうだ。俺は人間として正しく有りたい。俺はそういう男だ。あれ?もしかして……大学では習うんでっしゃろか?凄いなあ!これ、文化人類学いうやつでっしゃろ!?最終学歴が声優専門学校のわしには難しい難しい!う~ん!勉強が足りませんでした~!
そんな訳でまずはソファーを捨てた。なぜならゴミだからだ。物に罪はある。俺の心を傷つけた罰だ。同居している元クラスメイト、仮に中根君としよう。中根はダイエー成増店でステーキ肉を買ってきてくれた。彼は良い男だ。人の気持ちがわかる。同じ高卒者だし理解しあえる。君に恋すれば良かったかな?って違うか!ガハハハハ!
そのまま、二年を和光市で過ごした。二年の契約期間を終え、更新するかどうかの時、中根が神妙に口を開く。
「彼女と一緒に住みたいから引越したい」
「何回か話に聞いた声優養成所におる年下の子?」
「うん……板橋の方で……」
「素晴らしいことじゃないか。俺がこっちに引越してきた時みたいになるなよ?」
「あれは……ひどかったよね……大丈夫!うん……俺も彼女も…今回がはじめての男女交際だからぎこちないけど……多分、しばらくは大丈夫かな」
若人は良い。若人と言えど私と同じ年齢だが。さあ、引越しだ。憧れへ近づく引越しから二年が過ぎ、私は声優ではなく俳優として事務所にいた。ドラマや映画の撮影現場にちょこちょこ顔を出し、セリフは少ないが役者としての仕事をこなしていた。
次に住むのは都内にしたい。成増も便利ではあるが、もう少し都内に引っ越せば自転車で池袋などにも行けるようになり、始発で出発しても間に合わない現場も池袋始発で間に合わせることができる。
憧れのために引越した私は、現実のための引越しを考えていた。東京に出た引越しは地獄ではあったが、まあもう許そう。恋人はいないが、仲の良い友達も増えた。趣味のバンドもはじめ、ライブハウスで刺激を貰い、ただただ充実した毎日を過ごしている。憧れが日常になり、日常を豊かにするための引越しがはじまる。今度は移動距離も近く、冷蔵庫をはじめ大型家電は彼女と一緒に住む中根が引き取ってくれる。上京した時と同じくらいの少ない荷物。それを引越し屋に預け、ちょっとした手荷物を持って次の家に移る。次は練馬区だ。それも大好きな漫画「あしたのジョー」でジョーが最初に入った練馬鑑別所のすぐ近くだ。
やっと都内に住むことができる。上京とは言いつつ、成増には住みつつ、本当に住んでいたのは埼玉県和光市だ。笹目通りにある島忠のすぐ近く。川のせせらぎが聞こえる住みやすい場だった。都内はやはり凄い。歩いてすぐに駅はあるし、池袋に自転車ですぐ行ける。環七が近い。私はロックバンド、ギターウルフの大ファンだったので、ギターウルフの名曲、環七フィーバーを口ずさみながら自転車で爆走した。野方という駅はあの大槻ケンヂ氏が住んでいた街、そして高円寺は多くのライブハウスがあり、有名なミュージシャンも沢山住んでいる。
憧れていた場所はもはや憧れではなくなった。行きたい時に行くことができ、縁遠いと思っていた人とも近づくことができる。大阪では不可能だったことが東京では可能だ。前回の引越しとは意味合いが違う。眼の前にそびえ立つ現実に向かって拳を振るう。その高さも厚さも分かっている。だからこそ、戦う意味があるのだろう。
「もしもし?久しぶりって……3ヶ月も経ってないやん!うんうん、え……ああー、うん、今住んでいる部屋狭いから……ちょっといらないかな……でも、なんで別れたん?……あー……落ち着いて、泣くな。俺も同じやった。同じや。全く同じや。うん、うん。了解。じゃあ火曜に飲みに行こう。池袋に大都会って最強の居酒屋あるから。了解。変な気おこすなよ」
そう、ただただ人生は進む。覚えた煙草を燻らしながら、あの子の連絡先を消して進む。
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