第2回「Twitter」8000字
Twitterは声優として活動していた時から使っていた。自分の出演作品が発売される時や事務所の先輩のツイートをRTしたりする程度の使い方だった。普通に野良猫の写真をアップし、たまに良い物を食べたらそれをアップする。面白いバズったツイートが流れてきたらまたRTして「面白い!」とかのツイートをする。日常のちょっとした面白いことや気になったことをションベン感覚で放出するだけの場だった。
・寂しい子、DMおいで?
・うんこラーメン!出来上がりだィ!
・豊かな生活
・モーニングポンチャック!
私はなぜこのようなツイートをやりはじめたのか。何があったのか。何が起こってしまったのか?そして何を得たのか?何を失ったのか?
Twitter、そこは光と闇の世界。何が光りで何が闇なのかは書かなくともわかるとは思うが、多分このnoteを見ているのはダークサイドの人間だと思う。私もダークサイド側の人間だと思う。なぜなら光サイドの人間は生殖器名を連呼しないからだ。生殖器名、それが分水嶺なのである。では、なぜ私はそんなどぐされツイッタラーになったのか?
以前noteにも創作を交えて書いてきたが、今回はできる限り真実を述べたい。
キッカケは声優事務所から放出されたことだった。完全に放出された。これ以上ないというレベルの放出のされ方だった。放出と書いて「はなてん」とつい読んでしまうのは関西人だし、「中古車センッタ~」とあとに続けてしますのはまごうことなき大阪人。そんな小大阪人だった私はあろうことか芸の道で生計を立てようとしていた。
芸の道で生きるには「運・才能・実力」が兼ね揃っていないと難しい。たまに一部分だけ特化でバク売れする人はいるが、それを目指すと大抵死ぬ。気をつけよう。私は「小細工・ハッタリ・雰囲気」を使いこなすことで虚ろな器のまま10年近く芸能界の激流を漂っていた。そして石に直撃して完全に割れてしまったのだ。
中身なき器でさえも紙切れ一枚程度のプライドがあったのか、私は非常に落ち込んだ。一切の迷いもなく、続けた所で飯も食えないのに落ち込んだ。落ち込んでしまったのだ。
18歳から芸の道で生きたい、何かを表現し続けたいと考えて12年が過ぎてしまった。そして1年間はフリーとしてやってみたが何をやってもだめだった。もう表現は辞めよう。そう思った時、私は知人を介して就職をしました。もう表現することは辞めよう。ただただまじめに普通に生きていこう。今まで真面目に生きてこなかった。芸の道しかしてこなかった。だからこそ、もう表現は良いのだ。よそう。よしておこう。
自らの表現は一旦全て辞め、周りの人の表現を見ることだけをしていた。その時、上京数年目から仲良くしていたバンドがあり、そのバンド周りの人と仲良くなった。
いわゆるバンド界隈、それもヴィジュアル系界隈の人たちだった。今でも覚えている。高田馬場の木木家だ。そこで3人で飲んだ。非常に美味いやきとんをギリギリのレア加減で出してくれる名店だ。最高に美味い。
そんな店で会話も弾んでいたが、たまに私だけが理解できない話をしている。
「◎◎さんのツイート面白いよね」
「■■さんのツイートの切れ味が凄い」
「▲▲さんの漫画がヤバすぎる」
何を言っているのだろうか?ツイートが面白いのはまあ分かるとして「切れ味が凄い」とはどういうことなのだろうか。ツイートなんて日常のちょっとしたことや、多少のエスプリが効いた発言をドロップする場所ではないのか?理解の範疇を超えている。
「切れ味があるってどんなツイートやねん」
「後藤は知らないか。この人のツイートが凄いんだよ」
その時、携帯を渡され見たツイートは「全裸中年男性界隈」と言われるTwitterの極北、人間の究極、発想の流局。不条理、パワー、生殖器。全てが、全てが見たことがない世界。なんだこれは。なぜこんなことを言うのだ?なぜこんなよくわからないツイートを連発しているのだ?意味がわからない。
「この人、なんでこんなことツイートするの?」
「そういう人だからだよ」
「普段、何をしている人なの?」
「ネットでヤバい漫画書いている」
その漫画を見せてもらうと、私が好きだった時代の少年ジャンプのような漫画を全力で書いている。なんだこれは。これは何なのだ。
「ヤバさで言えばこの人もヤバい。絶対に見たほうが良い」
その漫画は料理人間という存在が空気でおにぎりを作ったりするなど考えもつかないストーリーだった。
これはヤバい。表現に従事していたのならもっと的確な言葉を紡がねばいけないとは思う。しかし言葉がでてこない。「ヤバい」その言葉だけで精一杯だった。
何なのだこの世界は。この世界の表現はなんなのだ。私が今までやってきた表現と全く異質だ。いや、もしかしたらこの思いすら間違っているのかもしれない。しかし、このパワー、方向性、渇望。私はこれを知っている。私がプロになると共に捨て去った思いだ。この思いを捨てきれなくてプロを辞めざるを得なくなってしまった思いだ。
即ち「自分のために表現をしている」だ。
それが、それができるのか。やって良いのか?何かしらの表現をされている諸兄なら「ポンマスなにを言うておる」となるでしょう。しかし、その時の私にはそれができなかった。声優として、芸をしてお金を貰う。そこにはもちろん自分自身が作り上げる表現がある。しかし、商品として成り立たせるためにはディレクターや演出の指示を仰ぎ、商品として完全な状態にしなければならない。もちろん、上手な方なら自分の表現をバッチリとキメ、丁度良い部分で仕事を行う。
単純に能力がそこまで無かった私は自分自身がベストだと思う芝居をしてもOKが出なかった。いろんな指示があり、形になった物も自分の表現とは言えなくもないが、自分のための表現か?と考えると違う。私の表現は常に他人が前提となっていたのである。
自分のための表現、それは人に届くのだろうか?常々そう考えて生きてきた。表現の対象が自分自身であることが無意味だと考えて生きてきた。考えてみて欲しい。表現を行う時、それを冷静に判断する人材がいなければどうなる?それは表現か?表現の一つ手前の表出であると私は考えていた。表出を他人に見せるのであればそれはもう表出方法を競う表現となりうる。ここまで書いてきてなんだが、この文章、表現や自分、他者などの観点は全て私独自の物だ。「舐めとるんけこいつ」ではなく「まあそういう考えの人もおるんやね」程度のポップ感覚、スナック感覚で考えていただきたい。
Twitterという場所で他人の評価を気にせず思い切りやる。そこで私は私を超えて、他人になって自己を出す。本名のアカウントで色々やろうと考えてはみたがそれはやめておいた。これまでの付き合いのある人もいるし、その人達の反応を狙ってしまう。そう、私は表現を受け取る側の反応を予測し、その反応に合わせた表現をやってきた。それを解き放つとどうなるのか?多分、否定されるだろう。私が芸能事務所に所属していた時のことだ、社長の思いつきにより俳優として活動していた人間が数名集められお笑いユニットを作らされた。私が選ばれた原因は「関西弁を話せる人間が1人はいた方が良い」という理由だ。今考えるとこの狂った理由で選出されたのはマジで意味がわからないが、まあそれはさておき。
その時、私は自分だけの表現をやろうと固執していた。台本を書ける人間が1人いたが、クオリティはあるが筆が遅い人間だった。そして事務所社長の戯れでデビューイベントをやることになっていた。そのためには台本の出来不出来はおいといてある程度の数が必要だったのだ。私は台本を書くなんて思ってもいなかったが「関西人だし何かできるでしょう?」との謎の一言により台本作成に取り掛かることになった。
私は怒り狂っていた。選んでくれたが良い悪いなどではなく、関西の生まれというだけで選ばれた。私が今まで吐いてきた演劇や表現から生まれる血反吐の存在を無視して選んだ。ある種の運だ。なので私は「能力とか知るか。他人に認められるとか知るか。なんとなく選びやがって。俺を選んだことを後悔させてやる」の思いで台本を書いた。自分が面白いと思える、自分が正解と思える表現だけをやってこましてやる。その思いで書いた台本は1ヶ月で60本にもなった。
台本をお笑いグループのメンバーに見せると割と受けた。内容は主に「人食い・差別・エロ・わさび」だった。自分が好きなことを考えると「ゾンビ・支配層への抵抗・乳房・辛いもの」だったからだ。この中で特にウケたのはわさびだった。メンバーの中にいた可愛い女に不条理にチューブわさびを飲ませる。すると全力でむせて涙を流し、たまに口からヨダレが垂れる。これだけで「台本執筆者からの圧力・苦しむ女性の顔から生まれるエロス・わさび」3つもドラが乗っている。実際練習でやってみると本当に面白かった。吐き出したわさびが稽古場の低い天井にぶつかりはりつき、美女の口からでたわさびを求めて男メンバーが餌を撒かれた鯉のようにその下で口をバクパクして落ちるのを待つ。最強に面白い。こんな最強に面白いネタを大量に作った。社会問題の差別を演劇派閥に置き換えた台本、ブサイクな女が男の陰茎を料理する中華料理屋の台本、正直無限にできた。そして私の思いをどんどん出していくとどんどんウケた。なぜならメンバーはアホだったからなのだろう。
デビューイベントも近づき、社長に稽古の成果を見せる。私が書いたコントを見た社長が完全に笑わなかった。そして一言。
「ちょっと、笑えないし、こんなことしてほしくないんだけど」
だった。
ああ、やはり伝わらない。自分自身のやりたいことなんて結局はその場にいる似た感覚の数人にしか伝わらない。それでゼニなんて稼げないだろうし、面白いと思う人間もいない。やはり表現は他人に向けて行うものなのだ。自分自身で作り上げるが、それの評価を下すのは他人なのだ。他人にわかりやすく、番人に伝わる表現をしないことにはどうにもならないのだ。
私は、台本から外され、二年ほどこのグループで活動したが、先日Twitterにも記した
「心とかじゃないの、顔」事件が起きて私は事務所をやめた。そしてその後は声優専門学校に入り直した。養成所にいたが所属になれなかった人間、所属はしたが燻っていて仕事が無かった人間が集まり、もう一度社会に認められるために再教育を行うクラスに入ったのだ。ちなみに「顔が嫌い」と言われて事務所を辞めた人間はクラス30名のうち私一人だったということはしっかりと書いておく。書いておくぞ。
再教育施設では「てめえらをもう一回意地でもデビューさせるぞ」と気合入りまくりの担任と東京でバキバキに活躍しているベテラン声優による地獄の1イヤートレーニングがはじまるのだが、これは別の作品として書くほうが美味しいのでここには記載しない。だが、端的に書くと「何ができる?何が求められている?」を常に自問自答する日々だった。
その中で私は声優としての訓練はもちろん「貴様のやりたいことはわかるが、それはゼニになるのか?」の訓練をやり続け、プロとして相手のリクエストにガッツリ答えられる状態になり、私は某事務所に再所属をキメることに成功した。しかし単純な能力不足や個性の不足などにより、皮肉なことに「君はもっと自分らしくできるのになぜやらない?」のアレコレで完全に声優活動は失敗。そして放出され、冒頭の会話に行き着いたのだ。
私はTwitterを開いていた「後藤も裏垢を作れば良い。貴様なら絶対に面白い」との言葉を真に受け、あの時できなかった「自分のために何かをやる場所」としてTwitterを再構築しようとしていた。名前を、新しいことをやるには新しい名前が必要だ。新しい名前を自分自身として新しい物語を作り出す。それが何よりも大切なのだ。自分の本名が少しもかすらないような名前を。久しぶりに音楽でも聞くか。李博士とかアホみたいな曲でも聞きながら考えるか。アホなことをしようとしているのだし。名前にポンチャックて付けたらおもしろそうやないか。ポンチャックになんの興味もないけど。名前、そうだ、バイト先で隣の席によく座る後藤君の名前を使うか。ポンチャック後藤……何か足りない……そうだどうせならハッタリをキメよう。
「ポンチャックマスター後藤」
テッテレー!爆誕!!!
誕生したのなら自分の表現をやらないといけない。そのためにこの世界に生まれた。私はなんとなくこの世界にお邪魔しマンモスした訳ではなくて、確固たる目的がありこの世界に誕生したのだ。ではやろう。自分の表現を。フォロワーはまだ数人、フォローは友人が教えてくれたヤバイ表現をしている人が数十人。とりあえず皆のマネして「チンポ」ってつぶやいてみるか。
「チンポ」
もの凄い開放感が頭の中を駆け巡る。母の股ぐらから顔をだした時以来の衝撃だった。私の中では常に「何かしらの暴力衝動」があった。多分、誰にでもあるのだろうけど、例えば知人の舞台を見に行った時、いきなりステージに乱入して「チンポー!」と叫んだらどうなるのだろうか?とかのアレだ。表垢では事務所や数少ないファン、先輩大御所声優(かなりのTwitterバーバリアン)が相互フォローだったのでそんなことを書くなんてできなかった。私は外面良く、「ちょっとサブカル臭いこともいうけど、基本的に良い子だよね」のポジションを確保していたのだ。普段、街中を歩いていて生殖器名や性行為名称を叫びたくなる時があると思う。しかし、やってはいけない。誰にだって外面や恥の概念がある。しかし、しかしだ。ここにいる私は私であって私でない。ハッピーサイエンスの説法のような言葉だが、それは事実だ。現に私は本名の私ではなく、ポンチャックマスター後藤としてここにいる。
自分のための表現。やるぞ。チンポって言って良いんだ。何をやっても良い。私は子役があまり好きではなかった。なぜなら芝居が上手くないからだ。子役は芝居云々よりもイメージなどで選ばれる。たまにバケモノみたいに上手い子役もいるが大抵はご存知の通りである。そこで私は子役への呪いや恨みをひたすらにつぶやき続けた。これは本心だ。子役死すべし地獄に帰れ。輪廻の果てに朽ち果てよ。
そんな感じで色々と呟いていると、フォロワーも増えてきた。そして多くの人に出会うことができた。インターネット人間関係は割と面倒なこともあるが、30歳を超えて新しい友だちができるのはインターネットのおかげだ。そしてTwitterは他のSNSに比べて妙に会いやすい気がする。Twitter自体が速報性を重視した形だからか、池袋で飲んでいると呟けば「私もいますが一緒に飲みませんか?」などと気軽に誘ったり誘われたりが発生する。長文メディアでは長文から染み出すヤバイオーラを察知することがたやすいが、Twitterにはそれが少なかった。実際出会うと「こいつ二度と会うかよファック野郎&金玉ガール」はある。しかし、それを上回る良い出会いが存在している。
多くの出会いの中で、やはり心にグっとくるのが「何かしらの表現をやっている人間」との出会いだ。その中でも私は小説を書いている人が妙に気になった。漫画も勿論好きで移動中などは「続くアップしていないかな」と更新を連打していた。しかし、じっくりと時間を潰すには漫画より小説の方が都合が良かった。元々コント台本などを書いていたり、小説を読むのが好きだったことも関係しているのかもしれない。その中で、友達から「小説でヤバイならこの人」と勧められた方の作品を読んでみた。とある部族に文明人がやってきていろんな勘違いや騒動があって文明人がバクバク食われて部族の長は……といった話だ。それを読んだ時、本当に背筋が震えた。こんな結構ひどい話でこんなに面白く刺さる作品が書けるのかと衝撃を受けた。それと同時に声優時代末期に感じた「俺にはここまでできない」の思いも芽を出してしまっていた。しかし、しかしだ、しかしだよ。それを上回る思いが虚空を牙で突き破り、再度私の前にやってきてしまったのだ。即ち「てめえのやりたいこともう一回やれよ」である。
あれを、あれをもう一度やるのか?表現をやるのか?地獄だ。表現は地獄だ。見てもらわなければ存在できない、認められなければ意味がない、衝動は激細ポッキーよりも脆く砕け散る。また投げ出してしまうのではないか?いや、よそう。よそう。表現で自分自身のアイデンティティを勝ち取るなんて地獄の輪廻は終わらせたはずだ。私は声優として活動してきた13年間で何を失った?もう数え切れない。過ぎ去った時間は取り戻せない。人生の約半分を賭けて戦って残ったのは燃えカスだ。燃焼もできず消え去ることもできない、質の悪い下痢に似た燃えカスなのだ。薪をくべるとその風圧で消し飛ぶ燃えカスなのだ。それを、もう一度やるのか?また他人に認められることを目指し、それで形をつくることを目指し、今後生きていく約50年の内どのくらいを賭けて何を得るのだ?賭けに勝ったところでリターンは見えない。もしかしたらトータルで赤字かもしれない。賭けに負ければもう本当に戻れない。もう俺は辞めるのだ。本当に辞めると決めたのだ。
そんな中、とある会があり、所謂狂人アルファツイッタラーが集まる会に参加することになった。会いたいと思っていた人が参加するし、前述した小説を書いた人も参加する。話す内容は表現のことがほとんどだった。色んな人が自分のやろうとしている表現のことなどを話す。私はただ、その内容に驚き、笑うだけだった。
会の帰り道「何かやらないの?」といわれた言葉に返す言葉としてつい口から言葉が出てしまった「僕も小説を書いてみたいと思っているのです」その人は「良いんじゃないですか」と言った。
覚悟は決まっていない。その場で「何もする気はない」と言えずに答えてしまった部分もある。しかし、言ってしまった。薪をくべてしまった。消えると思っていた。終わると思っていた。しかし、しかしだ、しかしながらだ、頼りない炎はもう一度、この世界に現れてしまったのだ。
後日、某いじられまくりのツイッタラーと映画狂人4巨根の一人であるツイッタラーと出会い、その時も小説を書こうと思っていると言ってみた。2人は凄く楽しみにしてくれて、どこでアップすれば良いかの情報も教えてくれた。ここで逃げる策はない。もう一度、とりあえずちょっとだけ書いてみよう。不思議な物語を書こうか?それとも皆が喜ぶ楽しい話?多分、どちらも嘘になる。
なぜ自分はこのアカウントを作ったのか?それは自分がやりたいことをやるためなのだ。だったら自分が、自分がどんな人間なのかを出せば良い。それをやるために作ったのだからそれをその通りにやれば良い。そして私はnoteのアカウントを作り、文章の書き方も何も知らない状態で一度書いてみることにした。
何を書こう、そうだ、声優時代のことを書くか。いや、駄目だ。書きたくはあるが、それは今じゃない。あれは絶対に面白いし俺しか書けない。だったら多少注目が集まってから書けば良い。そう考えて笑ってしまった。一度書いてみるかと考えていただけなのに、もう次のことを考えてしまっている。何を書こうかを考える速度が上がり続ける。まだ、1文字も打ち込んでいないのに書きたいこと、伝えたいことが頭の中を飛び回っている。
これは間に合ったのか?それとも手遅れなのか?それともこれからなのか?多分、その全てなのだ。ただ自分の思ったことをつぶやくだけのSNSでここまで突き動かされるとは。そして思い切り舵をきってしまうとは。一般的に考えたら私はどこまでも愚かなのだと思う。それをやることの辛さも一度経験済みだ。こっちは13年を使って立証している。とりあえずやる。それで良い。それで私が好きな人に少しでも近づける。自分自身が本当にやりたいことは何なのだ?自分自身がやりたいことはなんなのだ?自分にしかできないことをやる?自分の世界を表現する?私はどこまでも寂しがりで弱い。私が手にとったのは、これだ。これしかない。
スポットライト輝くステージ、マイクが立ち並ぶ静寂のスタジオ、カメラ数台が姿を射抜くロケ先、そこで私はその他大勢だった。私じゃなくても良いことばかりやってきた。だから、だから、叶えた夢の叶えられなかった部分を、Twitterをやることで思い出した部分を、これを表現するしかない。そのために私はTwitterをはじめたのだ。
即ち、「私の存在を知ってください」それは脆弱で情けない一つの祈り。
誰もが持つ小さな願い、それを激烈にやるために私は今日もTwitterを続け、文章を打ち込み、生活を耐えしのぐ。存在を認めてくれたあなたのために。
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