待ってます

賢者テラ

短編

「……えっとね、今日の延長の子はいつもの四人。春菜ちゃんのお母さんがきたらね、お昼休みに園庭で転んじゃったから、膝の傷は消毒して絆創膏貼ってます、ってことは伝えといてね」



 夕方の五時半。

 ここ 『くすのき保育園』での通常保育が終わり、ほとんどの子どもは親に迎えられてすでに帰途についていた。まだ残っているのは、親の仕事の都合などで、もっと遅くならないとお迎えが来ない子どもたちである。

 そういう子たちに対応するためのシステムが、『延長保育』と呼ばれるものである。

 アルバイト保育士の溝口明日香は、30歳のベテラン保母、滝沢香苗から引継ぎを受け、大きく深呼吸して自分に気合を入れた。



 ……今日も、あの子がいるのかぁ。



「そんなしけた顔しないの。楽しくいきましょう、楽しく! じゃああとお願いね」

 保育の道に入りたての人間の悩みなどお見通しであるかのように、滝沢は軽く明日香の肩を叩く。

「何かあったら、いつでも相談しといで」

 コートを羽織りバッグを抱えなおした滝沢は、そう行って保育室を出て行った。

 常勤の保育士は、皆帰ってしまった。

 これで、たった四人とはいえ、明日香ひとりで責任をもって面倒見なければいけない状況となった。



 溝口明日香は、K社会福祉専門学校の保育科の一年生である。

 二年間の学習過程や実習を経て、保育士の資格と幼稚園教諭の二種免許がもらえることになっている。

 明日香は中高一貫教育の女子校に通っていたのだが、その通学途中に保育園があった。外から毎日、園庭で遊ぶ先生と園児たちを眺めているうち、「自分も保育士になってみたいなぁ」と思いだしたのだ。

 短大の保育科を狙う手もあったが、明日香は大学、と呼ばれるものにあまりいいイメージを持っていなかった。何だか勉強よりも 『遊んでる』 イメージのほうが強かった。

 同じやるからには、意欲の湧く環境で真剣にやりたい——

 その点、専門学校ならばやる気のある者たちが集まっているはず。そう思ってあえて専門学校を選んだ。実際、カリキュラムは短大よりも授業時間がはるかに多く、内容も厳しかった。



 クラスの担任は、やる気旺盛な明日香にこの延長保育のアルバイトをしてみないか、と持ちかけてきた。明日香は、もちろん二つ返事で承諾した。

 時給千円というのも魅力だったし、何より現場をよく知ることができるというアドバンテージは大きかった。

 こうして明日香は、学校の授業がひけたその足で、学校近くのこの保育園で5時から最後の子どもが帰る7時半くらいまで、延長保育を担当することになったのである。



 延長保育、と言っても何か特別な事をしたりさせたりするわけではない。

 ただ、子どもを親の迎えが来るまで好きに遊ばせていればいいのである。

 要求されれば絵本を読んであげたり、一緒に遊びに参加してあげたりはするが、ぶっちゃければ 最低限 『時間まで、子供たちの安全を守って』 さえいればそれでよいのである。

 明日香は、現在残っている子どもたちを集め、水分補給で温かいお茶を与えた。



 面子は、だいたい決まっている。

 飛び入り以外は、だいたいはこの四人である。

 幸治君、海斗君・春菜ちゃん、知美ちゃんー。

「……明日香センセイ、ご本読んで~」

 皆で固まってお茶を飲んでいると、本好きの春菜ちゃんが、リクエストしてきた。

「オッケー」

 保育室の後ろの棚に、絵本が沢山つまっている。

 絵本を選ぶため、明日香は子どもサイズの小さな椅子を離れ、そちらに向かった。



「むか~しむかし。あるところに優しいお爺さんと意地悪なお婆さんがいました」

 明日香が選んだ絵本は、有名な日本の昔話『舌きりすずめ』だった。

「なんで優しい男が意地悪な女と結婚するんだよ。何か変じゃん」



 ……やっぱりか~。



 明日香の苦手な子というのは、この森岡海斗君である。

 彼の母はシングルマザー。つまりは、母子家庭である。

 新進IT企業のやり手女課長らしいが、勝気な性格が災いして離婚に至った、と噂されている。女手ひとつで息子を支えるために遅くまで頑張らざるを得ないため、この延長保育をいつも利用している。

 とにかくこの海斗君は、可愛気がない。

 ませている、というのとはちょっと違う。

 自分も子どものくせに、やたら子どもっぽいものをバカにする。

 絵本を読んでも、屁理屈ばかりこねて、素直に聞かない——

「海斗くん、センセイがせっかく読んでくれてるんだから、静かに聞こうよ」

 素直で優しい春菜ちゃんが、たしなめる。これも、すっかり定番の構図だ。

「海斗くん。みんな邪魔されずにお話が聞きたいのよ。納得がいかなかったら、あとでセンセイに言ってくれれば一緒に考えてあげるからさぁ。今は静かに聞こうね」



 明日香は、確かに子どもが好きで保育士を目指した。

 しかし、誰もが最初はそうであるように、彼女はこの仕事の『光』の部分だけを見て憧れた。

 かわいい子どもとはいえ、相手は人間だ。

 当然、言うこと聞かない子・乱暴な子——つまり 『保育士泣かせ』の子だっているのだ。

 明日香はここで初めて、美しいばかりでない保育という場での試練を味わっていた。

「もしかしたらさ、優しいお爺さんだったから、意地悪でもらい手のないお婆さんと結婚してあげたのかもよ?」

 とっさに思いついた飛躍した論理だったが、とりあえず海斗君を納得させるために明日香は付け加えた。

「……なんだかなぁ」

 海斗君は納得いかなそうにケッ、と小生意気にそっぽを向く。



 ……お、お前は阿藤快かっ?



 心の中でつぶやく明日香。

 気を取り直して、ページをめくる。

「お爺さんは山で助けた雀を家に連れ帰り、たいそうかわいがりました。しかし、雀はお婆さんが洗濯に使う糊を食べてしまったのです。怒ったお婆さんは、雀の舌を切ってしまいました——」

「ハイ、お話終わり」

 突然、海斗君が大声を上げた。

 びっくりして彼を見つめる三人の子ども。

 落ち着け、落ち着け…と自分に暗示をかけた明日香は、「何で?」 と、落ち着いた声で聞いた。

「だってさぁ」

 やってられねぇや、という感じで海斗君は両手を頭の後ろで組んだ。

「舌切られて、そのあとも何の『しょち』もしなかったら、普通死ぬよ? だから、その時点で話は終わり。続くわけないじゃん」



 ……ああっもうウルサイ! 黙れこの屁理屈坊主!



 心の中で思った明日香だったが、口には出さなかった。

 ちょっとは「まぁ、そりゃそうだ」と思わないでもないが、それでは子どもたちに示しがつかない。

 ちゃんと大きなつづらと小さいつづらの教訓的なくだりまで話さないと、絵本の『ねらい』というものが達成されない。

「海斗君、春菜ね、最後まで静かにお話聞きたいの。文句言わないで」

 お話の大好きな春菜ちゃんは、我慢できなくなって声をかける。

「う・る・さいっ!」

 癇癪を破裂させた海斗君はスックと立ち上がり、その場を離れ保育室の隅へ行ってしまった。

「あああ~~ん 海斗くんのバカぁ~~」

 春菜ちゃんは、顔を真っ赤にして、びぇぇぇ~んと泣き出してしまった。

 明日香の唇はワナワナと震えた。

 絵本の読み聞かせの場を台無しにされて、明日香は頭の中が真っ白になった。



 しばらくして、春菜ちゃんと幸治君のお母さんがお迎えにやってきた。

 絵本の読み聞かせ妨害事件の余韻が冷めやらぬタイミングだったため、春菜ちゃんはまだ泣いていた。

 明日香は、母親に状況を説明して納得してもらうのに一苦労であった。

 保育室の時計は、夜の7時を指した。

 残るは二人……

 知美ちゃんと、あのオーメンのダミアン君よりも小憎たらしい海斗君。



「センセイ、私塗り絵やってもいい~?」

「うん、いいよ~」

 この知美ちゃんは、手のかからない大人しい子だ。お母さんが来るまでは、下手にかまわなくてもきっと塗り絵に集中しているだろう。

 さてさて、『嵐を呼ぶ園児』はどこだ?

 保育室を見渡した明日香は、青ざめた。



 ……海斗君が、いない。



 アルバイトとはいえ、子どもを預かる身で何かあったら、事だ。

『保育園児、延長保育中に死亡 ~保育士の監督不行き届き?』

 そんな新聞の見出しを想像してしまい、大げさに苦悩した。

「知美ちゃんっ、海斗君探してくるから、ちょっとだけここ離れるねっ」

「うん。わかった~」

 明日香は、一階の保育室を飛び出した。

 もし、まだ園内だとすれば……二階だ。



 二階には、ちょっと広い『遊戯室』という大部屋があった。

 比較的大きい遊具が置いてあり、外が雨のときは園庭代わりに使うことも多い。

 明日香が階段を駆け上がると、案の定二階に電気がついていた。

 きっと、海斗君が自力でつけたものだろう。



 ……あんガキャ。



 時々、戸惑うことがある。

 子どもが好きなはずなのに、時々思うようにいかなくてものすごくいやな感情が巻き起こることがある。イライラして、癇癪をぶつけてしまいたくなる時がある。

 そういう時、明日香は苦しんだ。



 私って、本当に子どものこと好きなのかな?

 本当に私って、保育士に向いてるんだろうか?



「海斗君……ちょ、ちょっと!」

 勢いよく遊戯室のドアを開けた明日香は、生きた心地がしなかった。

 遊戯室には、三個ほども積めば子どもの背丈くらいにはなる大きなブロックが沢山あった。

 不使用時は隅に集めて置いてあるのだが、たまにその重ねられたブロックの群れに、面白がってよじ登る子がいるのだ。

 もちろん、ただ重ねて積んでいるだけだから、ちょっとした弾みでそれはガラガラと崩れてしまう。だから常日頃からここに登っちゃいけません、と口を酸っぱくして言ってある。

 海斗君は、日頃子どもっぽいことをバカにするくせに、自分も子どもっぽい無謀な行動に出ることも多かったから、要注意なのだ。

 天井に届くくらいに高く積み上げられたブロックは、階段状になっている。

 そこを海斗君は這い登っていた。

 すぐに降りなさいっ、と言おうとしたが——



「危ないっ」

 明日香は、決死のダイビングを試みた。

 目の前で、ブロックの山がスローモーションで崩れていった。

 ガラガラガラー。嫌な音が、遊戯室いっぱいに反響する。

 両手を一杯に広げて、明日香はただ海斗君のみを目で追った。駆ける足の回転すらももどかしい。



 ……お願い、間に合って!!



 床にしたたか顎を打ちつけた明日香の脳に、神経はこの上ない激痛を伝えた。

 痛さで涙が出てきた。

 明日香の手の感覚は、何とかキャッチした海斗の体の感触を捉えていた。

 


「……海斗君。あなた何をしてるの」

 やっとのことで立ち上がった明日香は、恐ろしく低い声で尋ねた。

 いつにない調子の明日香の声にちょっとたじろいでいたが、すぐにいつもの憎たらしげな口調になって言った。

「ふん。ホントに心配なのかよ。ほんとは、言うこと聞かないオレなんてどうでもいいんじゃないのか?」

 ユラリ、と海斗に近付いた明日香は、氷のような目で彼を見下ろした。

 子ども心に、海斗は大人を本気で怒らせてしまったことを感じ取り、怯えた表情で明日香を見上げた。

「ばかっ」

 明日香は、保育の道に来て、初めて子どもに手を上げた。

 激情に押し流されるようにして、海斗の頭を平手ではたいた。

 覚悟のできていなかった海斗は、体のバランスを失って地面に突っ伏した。

 我に返った明日香は、今自分が反射的にしてしまったことを心の中で反芻した。



 その場で膝を折って、明日香は声を上げて泣いた。

 海斗は、びっくりしてその様子を見つめていたが、やがてプイ、と踵を返して、遊戯室を出て行ってしまった。

 明日香は、泣き止む努力を必死でした。

 知美ちゃんに、そして迎えに来るお母さんにこんな顔は見せられない。

 力なく立ち上がった明日香は、フラフラとした足取りで、電気を消して遊戯室を後にした。



 一階へ戻ると、ちょうど知美ちゃんのお母さんが迎えに来た。

 何とか気丈にふるまった明日香は、無事に知美親子を送り出した。

 ついに、海斗と明日香の二人っきりになった。



 ……気まずいなぁ。



 海斗は、保育室の隅で、体育座りをして顔を膝にうずめている。

 彼は彼なりに、思うところがあるのであろう。

 気まずくて明日香と顔を合わせたくないのか、それとも泣いているのか——

 確かに、海斗君はしてはならない危険なことをした。怒られるに値することをした。

 しかし。明日香は、自分のしたことを正しいとは思えなかった。



 ……あの一瞬、私は確かに 『悪魔』 になった。



 今、明日香の心の中の保育を志し始めたころの燃えるような希望の火は、消えかかっていた。

 ただ、深い絶望だけがあった。



 10分ぐらいたったであろうか。

 明日香の心は、死から立ち上がった。

 このままじゃいけない。

 延長保育を預かる身として、何より保育者として、このままこの子を返すわけにはいかない。

 でも、一体どうすれば?

 もう、明日香は理屈で考えることを止めた。

 心の声に耳を傾けた彼女は、無言でうずくまる海斗に近付いてしゃがんだ。

 そして、優しく海斗を背中から抱きしめた。

 後から後から流れる涙が頬を伝い、それは海斗の首筋に落ちた。

 必死に声を噛み殺しながら、明日香はただただ力を込めて海斗を体で包み続けた。

 彼も、逃げたり嫌がったりもせず、じっとされるがままになっていた。

 母親がやっと姿を見せるまでの25分間、二人はずっと説明のつかない感情を共有し合った。

 その姿は保育士と園児ではなく、二人の人間であった。



「あなた、いい顔してるじゃない」

 くすのき保育園の、職員室兼事務室。

 出勤してきた明日香を見た滝沢は、そう声をかけた。

「そう…ですか?」

 すべて見抜かれてるようでドギマギした明日香は、思い出したように滝沢に尋ねた。

「滝沢先生、ひとつ聞いてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 デスクに向かっていた滝沢はクルッと椅子を回転させ、明日香に向き直った。

「先生には…保育をする上で大事にされている言葉って、ありますか? まぁ何ていうか『座右の銘』っていうんですかね?」

 アハハ、と軽く笑った滝沢はすぐに真顔になって、天井を見上げた。



「相手を許して、信じて、待つ——」



 明日香は、その言葉を心にかみしめた。

 「許して、信じて、待つ——、ですか」

 意味をつかみあぐねている明日香に、滝沢は語りだした。



「私がこの言葉を聞いたのは、まだ保育士になりたての若い頃。

 不良の吹き溜まりだったある高校を、ラグビーの全国大会で優勝するまでに立ち直らせたある監督の言葉なの。言葉で言うのは簡単なんだけどね、実際難しいわよ。

 私も、多分一生かかってできるようになるかどうか、ってところだわね。



 保育の道はね、『相手をどうこうしてやろうと思った瞬間に負け』 なのよ。

 確かに、世の中というもののルールや善悪を知るために、しつけは必要ね。

 でも怖いのはね、気付いたら 『手段が目的』になっちゃってることがあるの。

 新米保育士が、特に陥りやすい罠なんだけどね。

 私たちは先生、と呼ばれて子どもより一段高いところにいるけど、実際私らもそんなに偉くないわね、自分のいかに至らないかを思えば。だから子どもと私たちの関係はね、『甘え、という感情を抜いた友同士』 と言えるかも。



 明日香はなるほど、と思った。

 何のために保育をするのか。

 自分のため? 確かに、ある意味ではそうだ。

 でもやっぱり、子どものため。

 そこを間違うから、思い通りにならないことでイライラしてしまったりするんだ——。

 剣道でも、よく『無念無想』という言葉を使う。

 自分、ってものがあっちゃいけないんだ。

 あれば、それは隙になる。

 ただ、子どものためを思うこと、その成長を願うこと——

「ま、あんたはもう心配ないみたいね」

 滝沢は荷物をまとめて立ち上がった。

「そいじゃ、あとはよろしく! 残ってるのはいつもの四人」



「……人魚姫は、王子様が好きになってしまい、人間になる方法を魔女に尋ねました。すると、魔女は言いました。『この薬をお飲み。人間のように足が生える代わりに、お前は一歩ごとに刺すような痛みを感じるだろう。そしてもうひとつ。お前は言葉をしゃべれなくなるー』」

 今回、明日香が選んだのは『人魚姫』の絵本である。

「ナ~ンセンス」

 また、海斗君だった。

 春菜ちゃんが、またかという表情で顔をしかめた。

 まったく、『ナンセンス』なんて言葉、どこで覚えたんだか。

「どうして?」

 明日香は落ち着いて尋ねた。

「助けたのは人魚姫のほうで、王子様にとっちゃ命の恩人なんだろ? 割に合わないじゃん。いっそのこと、王子様のほうを海の住人に改造してやればいいんだよ。そしたら二人とも幸せじゃないか」



 ……なるほど。それもそうだ。



「じゃあ、王子様を改造しちゃいましょうか。水の中で息が出来るようにしなきゃね」

 明日香は、ヤケクソでそう言った。

 春菜ちゃんの顔が、何かを思いついたようにパッと明るくなった。

「じゃ、王子様にお魚さんみたくエラをつけちゃえ!」

 それを聞いた日頃大人しい知美ちゃんが、意外にも喜んで歌いだした。

「エラ人間、エラ人間~♪」

 皆が、どっと笑った。



 ……こりゃ、先輩の先生方には見せられないなぁ。



 海斗は、笑いながらも明日香にウィンクを寄こしてきた。

 明日香も、気付いて、ニカッとVサインを送った。



 あれからも、明日香と海斗の仲は決してすべてうまくいったわけではなかった。

 ちょっとは前進したものの、やはり時折トラブルも発生した。衝突もあった。

 それでも明日香は、以前の明日香と同じではなかった。

 人の心の闇を消し去るには、一朝一夕にはいかない。

 どんなに時間がかかっても、どんなに裏切られても、私は信じる——。



 「……待ってます」



 明日香は心の中でそうつぶやいて、目を閉じた。

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