覚悟
私が目を覚ましたのはどこか天井のあるところだった。敷かれている藁もなかなか感触がいい。私は体を起こして、その部屋の中を見渡した。この部屋は石造の私の部屋よりずっと明るく、目を瞑っていないと焼かれてしまうような感覚に襲われた。私はその急激な変化に耐えられず、敷かれた藁に顔を突っ込んだ。突然友の大きな笑い声が聞こえ、私の心持は少し落ち着いた。
だんだんと、その光に慣れるように、藁から顔を出して目を開いていった。視界はだんだんと明瞭になっていき、部屋の隅にいた友の姿が見えた。私は小さく息を吐いて、友にもにこの場所を訪ねた。
「知り合いの農民の家だ。君が倒れかけてから、ここまで運んで一夜を明かしたところさ」
「ありがとう。あの時はもうだめだと思ったよ」
「僕もびっくりしたよ。君があんな風になるなんて思わなかったからね」
そう言って友は話小さく笑った。私はそれに笑い事じゃなかったと少し強く返すと、友は悪かったよと軽く言ってから外に出ようと私を誘った。私はそれでやっと、今自分が外にいることを思い出し、なぜか体が震えだした。
それから友が扉とも言えなくもないものを開いて外へ出た。強い光がさらにそこから差し込んで、緑が私の目に強く映った。一歩ずつ場所へ歩いていく。地面からの反発は柔らかく、不思議な感覚に襲われた。
私は外へ出ると、何にも囲われていないことへの不安が心に走った。あの石切り場よりもずっと明るくて、すべてが開かれていて、あまりにも広すぎた。私は茫然とし、立ち尽くした。だんだんと、私は何かに包まれている感覚に陥った。目をこすっても、たいして、この広い世界から私を隔絶するものがないにも関わらず、温かさを感じていた。私はさらに歩き出し、緑を踏みしめた。体に擦れる草は露と共に私の足を優しくなでているようで気持ちがよかった。降り注ぐ日の光も温かく気持ちがよかった。
その時友のつぶやく声が聞こえて私は気を取り戻した。友は私のこの様子を見て楽しんでいるようだった。私は微笑んで友にもに声をかけた。
「思った以上だったよ。外というのが、こんな場所だったなんて。何もないのに、ここまで、包みあれるような優しさがあるなんて」
「それはよかったよ。僕にしてみればこの朝はなんて代わり映えのない朝なんだけどねえ。それよりこっちも見てみるといいよ」
友はそう言って私の後ろを指差した。私は振り返りあたりを見渡した。ずっと視線を上げると、それはあった。
私はそれに目を奪われどころか私の心持の全てを奪ったのだ。
それは高く、天を貫き通すかのごとく高くそびえていた。
それは、大地をえぐらんと、こん棒を握りしめた腕を振り上げていた。
私はこの石化巨人に恐れをなした。私は一歩後ずさりをしていた。
声が出ずにただ眼を見開いて呆然と私は立ち尽くした。それからやっと声が出て、友に問うた。これは一体何かと。友は平然とした様子でこれは石化巨人だと。君の家だと友は淡々と答えた。さらに私のこの様子を楽しんでもいるようだった。
私はこの衝撃があまりにも大きかったために、友の振る舞いが私の心にさらなる驚きをもたらした。
あれが私の生まれた地なのか。私の監督する石切り場がどこにあるのかもわからない。石化巨人の体には様々な木造の建造物が張り付くかのように建てられているのが見えた。恐怖とともにそれがわかってしまった。
さらに友は私にもっと周りを見渡してみるといいといった。私は、石化巨人に奪われていた視線をその周りへと向けた。すると、この巨人が、峻険な山々に囲まれた草原に立っているのだと気づかされた。
すると、石化巨人は恐ろしいものであったのが嘘のように、雄大な力強さの象徴に変わった。私はそれに尊さを感じざるを得なかった。これがなぜ、聖遺物であったのか根底から理解したような感覚に襲われた。
私はさらにその世界に圧倒された。
そんな時友は口を開いて言った。
「なあ、本当に君はあそこに戻るのか。君はそれで満足なのか。あの世界はあまりにも小さく、世界に隔絶されてしまっているじゃないか」
「確かに。私の知っている世界は、とても小さかった。私はこの広い世界を知らなかった。私は、あの世界で満足していた。それがこの世界の全てなのだと思っていた。だが、どうしてか私の世界は箱の中だった。私は世界を見ているのだと思っていた。あの世界があって、景色があるのだと思っていた。それが違っていたなんて、いまさら、どう信じればいいというのだろうか」
「だがな、君は知らないだろうが世界はもっと広い。君は一生をあの無に閉じ込もって過ごすなんて、ちっぽけものだ。君はもっと大きなものを知ろうとしたんだろう。君はこの景色で満足しているのかもしれない。だが、だがこれはどれだけ大きく見えても、世界の一部に過ぎないのさ」
「だが……私は、君と共に行くことはできない。私はあの場所で、約束を果たさねばならない。一生を費やしてね。それにあの場所はあれほど雄大なのだ。一生を生きるのにふさわしい場所などあそこ以外に……」
「だが、君は知ってしまったんだよ。この世界の広さを、素晴らしさを。君はもう戻れない。あの場所に戻ったら君は永遠に心を失うぞ。きっとそうだ。戻るべきじゃない。」
「そうなのかもしれないな。だが少し熱くなりすぎた」
この時私は何を思っていたのだろう。とにかく私は友の話をこれ以上聞き続けることはできなかった。友の話は私の深層にあった何かをえぐりだすように言葉を続けていたのだ。友はこれを聞いて、黙り込み、うつむいた悲しげな顔ととともに、己を恥じているような顔をした。
そして友が少し遠くへ行こうと言った。
私は少し冷静になって、ああとだけ小さく答え、友の後ろについて行った。友はあたりの小高い場所に立ってあたりを見渡した。ここではあの農家の家も小さく見えた。私たちはそこで座り込み、景色を眺めていた。私は静かに辺りの音に耳を澄ませていた。初めて聞く音ばかりで、友の横でこの音を聞いているこの静寂が続くことが心地よかった。
そんな時友は言った。
「君は愛というものを知っているかい」
私はそんなものは知らなかった。友にそれは何かと問うたが、友はそれには答えなかった。
「僕はね、愛を探しているんだよ。あそこには残念ながらなかったがね。だから、また場所を変え当てもなく探しに行くのさ。だが、君が知らないというのであれば、知らないままのほうがいい。そのほうがずっと君は幸せだ。あの世界で生き続けるのならね」
友がわざと知りもしないことを言っていることも、友が私に諭しているのだということも分かった。
「だが、君はもっと知るべきだ……」
友が何を言いたいのかわかっていた。私の心の深層をえぐっているのだと分かっていた。それなのに私は口を開かず、ただ友の話に耳を傾けていた。友が先程のように熱く語ることなく、静かに話していたからだろうか。あるいは、初めて友の行動原理を知ったからだろうか。なんであれ友の言葉はさっきのものより重みがあるように思った。
「君は一生世界を覗き続けるつもりかい」
友はそう言った。私にはその言葉強く響いた。私はあの閉ざされた世界で一生夢を見続けるのだろうか。それも、世界を覗くだけで満足して。
私は何を思って、ここへやってきたのだろうか。そして私の心には単純に知ることへの欲望が生まれた。そうすると、簡単にそれは抑えられるものではなかった。友の言ったその言葉の意味も、この世界の全ても。知りたいと思ってしまった。もう戻れないのだと強く感じた。
「君は、私を新しい世界へと連れって言ってくれるのかい?」
「君が望むのならば、僕が連れていこう」
私はそこですべ得て覚悟を決めた。
「だが私は、薄情者だね。約束一つ守れない。あの世界の全ては私にとって、その程度だったのだろうか」
「君は定めを見つけたんだろう。それでいいじゃないか。あの世界は君がいなくても回ってゆくさ」
友は随分とひどいことを言うようであったが、それは正しかった。
私がそこで、私として生きようとしなければ、私は認識されず、いないも同然なのだ。そうなればきっといつか、私という存在はあそこで簡単に消滅するのだろう。いつか誰の記憶からも消えるのだ。そんな場所で、名を刻むことに躍起になることはあまりにも寂しく感じられた。私にしてみればあの彼女という存在も形でしかなかった。私はこれでいいと思った。私のことをやればいいのだと。
私は友に農家の家まで戻ろうと言った。友は微笑んでああ、と頷いた。
私はあの石化巨人に住む家族や補佐官に宛てた手紙だけを書いて農家の人に託した。
私たちはそれがすんだ翌日、お世話になった農家の家を出た。
石化巨人の住人 翠翁 @Motino
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