第6話 仮面の下
*
響くのは昨日の雨で増量した汚水の流れる、乱雑な水音のみ。立ち込める悪臭は体に纏わりつき、胃袋から食欲を奪い取っていく。
手すりも柵もないすぐ横には汚水の濁流が流れ、そこに落ちて流されれば最後、命はない。そんな薄暗い通路を、ペルソナは一人走っていた。
訓練場から脱出してのち、約五分。今のところ追手の気配はなく、敷地を出た後の逃走は至って穏やかなものだった。仮にも堂々と騎士団の施設に入り込み、皇族を暗殺しかけた直後とは思えないほどである。
事前に用意していた逃走プランは何の問題もなく機能している。にも拘らず、ペルソナの胸中はどうしようもなく屈辱に染め上げられていた。
思い出すのは言うまでもなく、先刻の失態である。
カリウス第二皇子の訓練場視察という、皇族暗殺のまたとないチャンス。その情報を偶然から手に入れたペルソナは、侵入経路から殺害、そして逃走までの流れを入念に練り上げ、今夜の暗殺劇に臨んでいた。計画は綿密に精査したものだし、全てが上手くいっていれば、まず間違いなくカリウスの命は絶たれていただろう。
しかしペルソナは、『足元の注意を疎かにした』というあまりに稚拙なミスで、その絶好のシチュエーションを台無しにしたのである。
寄宿者の屋根から跳躍した際に崩れた、古い煉瓦の欠片。それによってバルトラは襲撃者の存在に気付き、その時点で、当初用意していた最良のプランは使えなくなった。
「くそ!」
苛立ちも露わに、殺人鬼は壁に拳を叩きつける。先ほど蹴りを受けた時のダメージと重なった鈍い痛みが脳に伝わるが、かえってその痛みに諫められ、ペルソナはいくらかの冷静さを取り戻した。
そうして頭に浮かんでくるのは、なおのこと忌々しい事実。――あの失敗の原因が、決して自身の些細なミスだけではないということだった。
そもそもが素手での暗殺を前提としたプランである。バルトラを無力化したあの直後、ほとんど無防備な状態だった標的を絞め殺すことも、恐らくは出来た。最初の計画通りとはいかないまでも本来ならば、あの時、カリウス殺害だけならば成功していた可能性は決して低くなかったのだ。
しかしそれすらも、ペルソナは失敗した。恐らくは常識を凌駕した領域から構築された、あの”壁”によって。
例えば仕込みナイフが手元に残っていたとしても、それに匹敵する武器――それこそバルトラの持っていた
あれは明らかに、カリウスを守る意図により設置されたものだ。つまり襲撃そのものが、最初から警戒されていたと考えていい。
警護もなく、地理的に侵入者の可能性を排除しきれないあの状況から、ペルソナと言う殺人鬼の出現を可能性として警戒した者がいたならば――そして、その者が張った対策がペルソナを凌駕したならば、それは己がミスによる失敗ではなく、その者との知恵比べに
だとすれば、なおのこと許し難い。
自らの未熟に対する怒りであれば、それは自らの行いで払拭することも出来る。だが、『誰かに敗けた』という事実は、その相手を自ら倒さない限り永遠に払拭できない。
怒りを噛み締めたままに駆けるペルソナが正面の”何か”にぶつかり、後方へと弾き飛ばされたのはその時だった。
「ッ、これは!?」
癇癪に顔を顰めながら、ペルソナはたった今自分が衝突したモノを睨みつける。
そこには半透明の赤い膜のようなものが、通路そのものを塞ぐ形で張られていた。見たところ抜けて通れるような隙間もなく、明らかに人間の通行を阻む目的で設置されたものだ。
厚さや大きさは違っているものの、まず間違いなくカリウスを守っていた”壁”と同種のものだ。
「やはり
「――その通りだ」
後方から不意に、闇に吐き捨てた言葉に答える声が響く。同時にゆっくりとした足音がこちらに近付くのを聞き取り、ペルソナは振り返った。
今まで自分が通ってきた通路の奥から、こちらへ歩み寄る人影がある。察するに騎士団の追手だろう。逸るでも焦るでもないそのゆったりとした歩調は、まるで相手を逃がすことはあり得ないと高をくくっているようで、尖りきったペルソナの神経をいっそう逆撫でする。
「こんばんは、殺人鬼くん。皇子につけておいた自動防御にしろ、読み通りに嵌まってくれたな」
さも得意げな口調でそう言いながら姿を現したのは、蒼白の顔に歪んだ笑顔を貼りつけた男だった。その老人のように腰の折れ曲がった立ち姿や、伸びたままの前髪の陰に落ち窪んだ双眸からは、さながら死神のような印象を受ける。
「……読み通り、だと?」
清廉潔白を志とする騎士の登場を予想していたペルソナは、その不気味な容姿にやや面喰いながらも訊き返す。
「そうだ。あの訓練場に忍び込もうとする者がいるならば、侵入経路は屋根の上か
「貴様……!」
怒りに震えた声を、ペルソナは喉から絞り出す。そこには、カリウス暗殺を阻まれたことに加え、作戦を読まれていたことに対する恥辱が満ち満ちていた。
「ふん、図星のようだな」
その動揺を、男は耳障りなほど甲高い声で嘲笑う。
「帝都の下水設備は基本的に、過去の地下道を流用して作られている。地上と繋がる排水溝は至る所にあるから、汚水と悪臭にさえ目を瞑れば、目立たずどこにでも移動できるわけだ。案の定、寄宿舎の裏にもちょうど人が通れるサイズの排水溝があった。もっとも高潔な帝都騎士サマには、人間が屋根の上や下水道を移動するなんて発想自体が無理なようだが」
それがペルソナと言う犯罪者が、この帝都で五件もの殺人を成功させられた大きな理由でもあった。
男が言ったように、ペルソナは基本的に移動には下水道を使う。そこには帝都のどこにでも繋がっている利便性もさることながら、追手に見つかる危険がほぼないという、他に代えがたい利点があるからだ。
帝都騎士は、この国を守る騎士団のまさしく頂点に立つ組織だ。構成員の八割は帝都に住まう名門貴族の出身で、その職務は、他国との戦争における主戦力や暴徒の鎮圧など、まさしく武勲華々しい”騎士”としてのものとなる。
しかしその反面、犯罪捜査などには極端に不慣れなのが帝都騎士団と言う組織だった。
そもそも帝都は、帝国の中でも最富裕層の住む都市である。窃盗や暴行などの軽犯罪率はゼロに近く、騎士はそういった地道な経験を積みづらい。単に捜査力で比べるならば、帝都から離れた貧民街などを担当する地方騎士の足元にも及ばないのが現実だ。
事実、地下下水道を移動に使うというペルソナの考えも、帝都の外では使えたものではなかっただろう。家を持たない浮浪者などにとって、下水道や使われていない地下道などは集合居住地でしかない。そしてそこは、同時に日常的な犯罪の温床でもある。それらを取り締まる地方騎士相手ならば、下水道などハナから逃走経路の選択肢として警戒されていたはずだ。
――つまり、最初からその発想に行き届いていたというこの男は。
「お前、騎士じゃないな」
「ああ、雇われ傭兵と言うやつだ。……しかしそれはお前も同じだろう?貴族殺しのペルソナ。お前はこの町の満ち足りた連中とは違う」
言いながら男は、骸骨のように細く角ばった人差し指をこちらに向ける。
「ろくな生まれではないだろう、お前。だから恵まれた貴族が憎くて、殺人と言う形の攻撃を繰り返す。だがな、そんなものは子供の嫌がらせだ」
「……何だと?」
「他者に害を与えるだけの行為に何の意味がある?攻撃とは自らが優位に立つためにすることだ。だがお前は、自分に利益が返るわけでもない――ただ目の前の憎悪を実現しているに過ぎん。そんなのはな、餓鬼の悪戯と同じなんだよ。
しかし、私は違う。私はお前を捕らえた功績で爵位を得る。そのためにあのいけ好かない皇子に付き従ってきたんだからな」
そこまで言うと男は、伸ばした人差し指をまるで空中に文字を記すかのように動かす。するとそれに呼応して、ペルソナの背後を塞いでいた結界の一部が変形し、槍のような形状を作り突き出してきた。
結界魔術とは、”質量以上の硬度を持つ物体を作り出す”という能力を指す呼び方だ。一般的には『防御術』というイメージが強いが、それはあくまでこの世に存在しえないモノを作り出し維持する以上、平面の形が最も安定するためである。実際は壁などである必然性はなく、術者の腕次第では、このように『武器』にもなり得る。外見は薄いガラスでも、その殺傷能力は鉄鋼にも匹敵するだろう。
その事実が意味するのは――この敵が、決して侮れない相手であるということだ。
「くっ!」
触手のように柔軟な動きで襲い来る槍を、ペルソナは間一髪で地面を蹴って回避する。さらには流れる汚水の真上に跳躍し、対岸の壁を蹴ると、その勢いのまま男の背後へと着地する。
「流石の運動性能だな。だが後ろにも結界は張ってある。逃げ場はないぞ?」
男はそう笑いながら、振り向きざまに再度指を動かす。結界はそのサインに即座に反応し、再び槍状に変形してペルソナへと襲い掛かった。
しかしここでも、攻撃は回避された。ペルソナが咄嗟に屈みこんだことにより、狙いが逸れたのだ。空を切った槍はなおのこと執拗に狙った獲物を追うが、ペルソナは地面を転がるようにして、辛くもその切っ先から逃れていた。
「ふん、素早いな。その腕は斬り落としておこうと思っていたのだが……まあいい。先にその顔、拝んでおこう」
「……!」
そんな耳障りな声と同時に、ピシ、と何か陶器が割れるような音がペルソナの鼓膜に響く。すぐ耳元からしたそれの正体は、彼の被る仮面の留め具が破損した音だった。先の回避の直前、結界の槍が当たっていたのだ。
いかに頑丈な仮面でも、留め具が壊れれば顔を隠すことは出来ない。――かくして道化の仮面は剥がれ落ち、ここに、殺人鬼・ペルソナの素顔が露わになった。
「……!?お前は……」
その顔を最初に見た男の声は、しかし先ほどまでとは打って変わり、驚愕と動揺を孕んでいた。
彼が何に驚いたのか、そこのはいくつかの可能性がある。
仮面の下のその素顔が、少年としか言いようのな若さを保ったものだったことか。それともその顔が、思った以上に端正に整ったものだったことか。
それとも――その顔が、かつての知己のものだったことか。
「お前は――
相も変わらず耳障りな声で自らの名を呼んだ怨敵を、ゼルロス・ライヘンバッハは、よりいっそうの敵意を込めて睨むばかりだった。
大逆のペルソナ オセロット @524taro13
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。大逆のペルソナ の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます