第5話 ペルソナ
訓練場から南に二分も歩けば、そこには候補生たちが送る日々の泥臭さとは全く無縁な光景が広がっている。
繁栄を誇示するかのように立ち並ぶ、煌びやかな建物の群。昼夜の区別なく人々が享楽を貪る、帝都東南の娯楽商業区域である。そこに漂う”悦”の匂いは、まさしく帝国が誇る豊かな国力の象徴だった。
そんな街を見下ろし、鮮やかなまでの身のこなしで落下を恐れず次々に建物を飛び移っていく一つの影があった。
五〇〇年の時を経て再発展した
例えば、かつてこの地にも林立したという高層ビルなどは、現在の技術力ではとても再現できない。そのため繁華街の建物の上は完全に死角と化しており、不審者が人知れず移動するには絶好の道と言えた。
そして、その不審者の容貌は、最近新聞の紙面を賑わせる犯罪者のそれと酷使していた。
風を受け翻る黒衣は、ヴェルンロード学園指定の男用制服。顔は道化をかたどった仮面に隠され、その隙間から覗く銀髪は、夜の街が放つ光を受けて淡く橙に染まっている。
紛れもなく—―『ペルソナ』。世間からそう呼ばれ、恐れられる闇夜の殺人鬼である。
仮面の犯罪者はいま颯爽と、帝都の宵闇を背に疾駆していた。繁華街の上をそこで悦に浸る人間の誰にも気付かれることなく跳躍し、ペルソナは標的の許へと歩を進めていく。そうして足蹴にした屋根の数が十に届こうというとき、彼は目的地に降り立っていた。――すなわち、騎士訓練場の敷地内に。
ところで、帝都には一つ、かねてより問題とされていることがあった。悦楽蔓延る繁華街のすぐ近くに騎士団候補生の訓練場が位置するという事実である。。
この地理形態には、候補生の育成に少なからぬ悪影響を与えかねないという意見も多い。しかしその反面、現実には訓練場の移設などには予算が掛かりすぎるという難点が存在している。そのためこの問題は、結局のところは今まで放置されていた。
そしてそこには、もう一つの知られざる”隙”が存在する。
それが、繁華街側の建物の一つと訓練場の敷地が一部完全に密接しているという、警備上の問題点である。――つまりはペルソナのように建物の上を移動すれば、塀にも壁にも阻まれることなく簡単に敷地内へ侵入できてしまうのだ。
騎士訓練場の敷地内にひっそりと建つ、古びた建物。ペルソナが降り立ったそこは、日々訓練に明け暮れる候補生たちの寝食の場である寄宿舎の屋根だった。
この建物は野外訓練場に面しており、救護室や休憩室もそこにある。加えて入り口付近からは訓練場のほぼ全域が見渡せるため、訓練を監督する立場にある教官長などは、この建物の傍に立っていることが多い。
そして、今夜。
皇族かつ騎士団統括の視察と言う状況に際し、異例ながら午後十時を回ったこの時間にも野外訓練が行われている。監督者たるバルトラ教官長は寄宿舎の入り口前に陣取り――彼が応対すべき要人は、その隣に立っている。
帝国第二皇子にして、騎士団統括の任を負うカリウス・アトラクス。帝都騎士団の事実上のトップであり、数々の武勇と皇族という記号的なカリスマから、羨望を
その彼が今、ろくな護衛もなくペルソナの眼下に立っている。
”――すべて計画通りだ”
心の中でほくそ笑み、ペルソナは屋根の上から跳躍した。重力のままに、地上五階階、約十メートルの高さから一直線に標的へと落下していく。
それと同時に、踏み台にされた古い煉瓦の一部が鈍い音を立てて崩れ落ちる。破片はペルソナに先んじて地面に到達し、結果、奇襲の直前で二人に異変を知らせることとなった。
「なっ、何だ!?」
バルトラの、仮にも帝都騎士の卵たちを統率する立場にある人間とは思えないような素っ頓狂な声が響き渡る。
襲撃に気付いたことによって、二人の視線はペルソナの方へと向いていた。さらにはその狼狽によって、立ち位置すらも微妙にズレている。
仮面の下で小さく舌打ちをすると、ペルソナは空中で身を捩り落下地点を僅かに変更する。
人工芝を踏みつけ着地したその位置取りは、カリウスの眼前二メートル。膝を曲げ衝撃を和らげると同時にペルソナは、流れるような動作で制服の袖から仕込みナイフを取り出し、その切っ先をカリウスへと向ける。
「まさかっ、ペルソナ!?」
引退し後進の育成に従事したとはいえ、そこはもともと武人だった男である。驚嘆の声とは裏腹に、バルトラは素早く腰元の
かつての感覚が導くままに殺人鬼へと切りかかるバルトラ。――しかしこの場において誰より状況を正確に見取っていたのは、ただ一人の犯罪者の方だった。
ペルソナは自らに向けられた剣先を微塵も恐れることなく、逆に相手の懐へと潜り込み、細剣の柄を握る右手の甲に、仕込みナイフを突き立てる。その鋭い痛みにバルトラは、反射的に武器を手放してしまった。
宙を舞う細剣を、ペルソナはそのまま後方へと蹴り飛ばす。かくしてバルトラは、自らの手の届く範囲から唯一の武器を失うこととなった。
「ぐぅ!」
武器もなく殺人鬼と対峙し、しかも後ろには皇族が立っているというこれ以上ない窮地。その憔悴と、手の甲からの痛みに思わず尻餅をつくバルトラを見下ろしながら、しかし狼狽したいのはむしろペルソナの方だった。
現状は、事前に立てていた計画とは大きくズレている。
予定では、標的たるカリウスは音もなく死ぬはずだった。誰にも気取られることなく訓練場の敷地内に侵入する算段が付いた以上、いたずらに目立つ必要は皆無だ。
一足に標的の背後へ降り立ち、当人が気付くより早く首をへし折り、誰に見られることもなく逃走する――それが本来の計画だったのだ。そういう意味では、瓦礫の音に二人が振り返った時点でペルソナの計算はほとんど瓦解していた。
「こ、候補生!侵入者だ!侵入者を捕らえよ!」
ナイフを持った殺人鬼を相手に、自分は完全に丸腰。そんな趨勢を正しくを理解したのだろう、カリウスはその顔から余裕ある笑みをすっかり消し去り、喚きたてるように叫んだ。それによって野外訓練場にいたすべての人間の視線はペルソナの許へと集まり、必然、この場は騒然とした混乱に包まれる。
百を超える人間の注目を一身に浴びながら、ペルソナは頭の中で冷静に以後の行動をシュミレートする。
候補生やほかの教官は訓練中だったこともあり、皆ここからは離れた位置にいる。流石にこの数を相手にはできないが、包囲されるまでは十秒程度の猶予があると見ていいだろう。
ならばその十秒が勝負。――そう断じると、ペルソナは標的たるカリウスに向けて再びその足を踏み出した。
そもそもが刃物を使う予定のない暗殺計画だったために、持っていた武器は仕込みナイフの一本のみ。しかもそれは今、バルトラの手に突き刺さったままで、回収している時間はない。つまりカリウスは当初の予定通り、素手で殺すしかない。
ここで問題となるのが、相手が他の誰でもないカリウス・アトラクスであることだった。
ただでさえ素手での殺害となると、一瞬で終わるナイフとは違い時間がかかる。その上、他の皇族ならいざ知らず、このカリウスは帝都の騎士団を統括する立場にある人間だ。本人も騎士として武道を齧っているらしく、いくら隙だらけとはいっても、多少の抵抗は覚悟しなければならない。手間取っている間に候補生らに包囲されれば、それで殺人鬼・ペルソナの人生は終わる。
初撃の正確さが肝になる。その結論を弁えて、ペルソナは右腕を真っ直ぐにカリウスの首元へ伸ばし――、
「――!?」
次の瞬間、圧倒的な力によってその場から弾き飛ばされていた。
咄嗟に受け身をとって体勢を立て直したペルソナは、仮面越しに自らを弾いた”不条理”を視認する。
――壁、である。
形は、一辺およそ三十センチほどの正六角形。色合いは燃えるような
「は……は、ははっ。役に立つじゃないか、あのゴロツキ!わざわざ貧民街から拾ってやった甲斐があった!
――おい候補生たち!この痴れ者をさっさと殺せ!」
その壁の向こう、呆け面を勝ち誇ったような笑みに変えたカリウスが、高らかにそう命じる。
その声に応えるように、候補生のうち一人がペルソナに跳びかかった。
艶のある漆黒の髪に、華奢な体に見合わぬほど鮮烈な動き。今期の候補生では随一の実力を兼ね備えると目される、ギルバード・ライヘンバッハその人である。
五メートル以上も跳躍したその候補生は空中で身を捻り、遠心力の加わった強烈な足蹴りを叩き込む。
ペルソナはその攻撃を交差した両腕で辛うじて防ぐが、衝撃を完全には殺しきれず、骨にまで鈍い痛みが伝わる。
「ぐっ!」
腕からくる痺れに顔を顰めながらも、ペルソナは後方へ飛び退き、辺りに視線を走らせた。
ギルバードを筆頭に、包囲網が出来始めている。もはや一刻の猶予もなく、これ以上の長居は危険と判断せざるを得なかった。当初の目的であるカリウスの殺害も、あの”壁”がある以上は不可能と判断するべきだ。――つまり今宵の暗殺劇は、これ以上なく失敗したのだ。
そう判じるや否や、ペルソナは身を翻して駆け出した。候補生らに背を向け、カリウスの横を素通りし、寄宿舎の建物の向こうへと姿を消す。
「待て!」
ギルバードはそう叫び、即座に逃げ出したペルソナを追って走り出す。
敵の向かった先は寄宿舎の向こう。しかしそちらは高い壁に阻まれた行き止まりである。失敗を案じることなく冷静に足を運び、――しかしギルバードはその先で、驚愕に目を見開く。
「誰も、いない……!?」
寄宿舎の裏にあったのは、ただ人工芝が敷かれただけの何もない空間と、その奥に高々とそびえる繁華街の壁のみ。隠れる場所など皆無のこの場所において、仮面を被った殺人鬼はおろか、猫一匹も存在しない。
他の可能性を模索するギルバードだが、少し考えても、別の逃げ道などあり得ないという結論に至ってしまう。
ペルソナが逃げたのはまず間違いなくこの方向であり、野外訓練場からここまでは距離にして二十メートルも離れていない。横道などもなく、隠れる場所もまず存在しない一本道だ。
しかし——ならば、ペルソナはどこに行ったというのだろうか。
「馬鹿な……消えただと?」
ありえないはずの現実をそのままに呟いた声は、夜空に空しく消えていった。
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