ビルの谷間の小さなコテージ
ノリコY
第1話
東京。 秋風が通り抜ける時期が今年もやって来た。
「そろそろ手袋が必要か…。」
日暮れが早くなることも手伝って、秋は寂しさを感じさせる。 秋を好きだと言う人は少数派かもしれない。
「ああ、この仕事を始めて、約半年になるのね。」
自転車便の仕事は天候に大きく左右される。 家族や友人は、この仕事をするにあたって、「大変だよ。」の一点張りだったが、田中菜々美はこの仕事が嫌ではなかった。 いや、いざやってみると、中々楽しい仕事ではないか。
菜々美は大手運送会社に勤務していた。 駐車スペースの限られた東京では自転車便は重宝される。 菜々美がこの仕事に就いたのは五月で、爽やかな天候が続いていた。
「なんてすがすがしい!」
そう思ったのもつかの間、梅雨に入り、やがて猛暑となり、周囲の人は「いつまで続くんだろうねぇ。」と冷ややかな視線を注いでいたが、菜々美はそれらを乗り切り、この仕事に定着したと言えた。 今までの菜々美にはなかったことだった。
配達する範囲は決まっていた。 菜々美の担当は、〇〇の一丁目と二丁目だ。 頻繁に配達がある企業とは顔見知りになり、会話も増える。 しかし、お互い仕事中なので、あいさつ程度に話をするだけ。 深い関係にはならない。 気疲れしない関係だ。 担当地区の地図はすっかり把握し、どこに何があるのか、地図を見なくてもほぼ言い当てられた。
高層ビルが多い地区だったが、一つ気になる建物があった。
高いビルに挟まれて、小さなコテージ風の一軒家が立っているのである。 おとぎ話の山小屋を思わせるような白壁で、屋根は赤茶、いや、ほとんど赤、と言っても良い。 ドアはそれと同じ色で、ドアノブは昔風の丸い鉄製だ。 その左側に白い木枠の窓があり、レースのカーテンでよく見えないが、内側には花柄らしい、可愛いカーテンがタッセルで結わいてあった。
「ここに配達する用事があったらいいのに!」
または、ここに住んでいる人が、集荷を頼んでもいいのだ。 そう思うと、菜々美はつい、この家の郵便受けに〇〇運輸と書かれたチラシを投函してしまうのだった。 そのせいもあってか、この家にはより親しみを感じていた。 いや、通っている、と言ってもいいのかもしれない。
その日も仕事を終え、菜々美は帰路についていた。 確かそんな時間だったはずだ、少なくとも昼間ではない、夕方に近かったことは間違いない。 配達の仕事は、配達と集荷が終われば帰宅して良いから、終業の時間はまちまちだ。 早く帰れる日もあれば、遅くなる日もある。
いったい、何がどうしてこうなったのだろうか。 今まで憧れていたあの、ビルの谷間の小さなコテージ風の家の中に、菜々美は立っていた。 そして、ようやく我に返ったかのように、あたりを見回した。
その家は、菜々美が想像した通りの家だった。 ドアから数歩の場所に菜々美は立ち、そこから視界に入ってくる物は、アルプスの山小屋を思わせる物ばかりだ。 こじんまりした造りで、床もテーブルも、何年も使い古したような、それでいて明るい色の、木で出来ていた。 テーブルは円形で、やや不格好なのが味が出ている。 四脚ある椅子も、同じ木で作られていた。 そのすぐ奥には、東京だと言うのに暖炉があり、火がパチパチと燃えていた。 何とも不思議な光景だ! そのせいもあってか、部屋は心地よいほどに暖かい。 その暖炉の左側には、菜々美に背を向けた女性が静かに立っていて、何かをくるくるとかき回していた。
ようやく菜々美に気が付いたのか、ふり返ると、女性は手に お玉を持っていて、どうやらスープをかき回しているようだった。 暖炉の左には、別の調理台かオーブンがあるらしい。 いや、暖炉の横に、囲炉裏のように、鍋がかかっているのだろうか? 目に飛び込んできている景色があまりにも非現実的過ぎて、消化しきれない自分がいた。 女性は、花柄のシャツを着て、その上に白いエプロンをかけていた。 優しそうな、五十代くらいの女性だった。 女性は何か話しかけ、そして、
「さあ、スープをどうぞ。」
(そうか、やっぱりスープを作っていたのか。)
菜々美は素直に、丸い木のテーブルに着いた。 とろみのある黄色いスープは木のボウルに入れられ、木のスプーンと一緒に出された。 チーズのような、カボチャのような。 濃厚で、芯から温まる味だった。 そう言えば、もうすぐハロウインだ。 この家は、ハロウインの飾りつけがよく似あいそうだ。
スープを口に運びながら、テーブルの左側を見ると、あの木枠の窓があった。 外から見たように、白いレースのカーテンがかかっていて、その手前にあったカーテンはやはり花柄だった。 菜々美が入ってきたドアは、内側も赤く塗られていた。
とろみのスープは菜々美のお腹を満たし、心も温まったようだった。 しかし、スープが出てきたと言うことは、ここは喫茶店か何かなのだろうか? テーブルは一台しかないし、メニューらしいものもないが、いわゆる、今はやりの隠れ家的喫茶店、と言ったところだろうか。 菜々美ははっきりと聞いてみた。
「あのう、ここは何なんですか? 喫茶店ですか?」
「ここは…。」
その時、窓にペイントされた文字がふと目に入ってきた。 B&B。
B&B? ああ、ベッド アンド ブレックファーストのこと! つまり、朝食付き民宿ってところね! なんで今まで気が付かなかったんだろう。 なるほど、だとしたら、このスープはウェルカムドリンクみたいなものに違いない。 でもちょっと待って。 菜々美はここに予約を入れた覚えはない。
「突然お邪魔してすみません。 でもいつか、入ってみたいと思っていたんです、なんだかおとぎ話の家みたいで。 あのう、今日泊まってもいいでしょうか。」
「ええ、いいですよ。」
「ほんとですか? わぁ、なんだかうれしいな。」
「じゃあ、早速部屋へ案内しましょう。」
暖炉の右側には、青いペンキの塗られた木製のドアがあった。 玄関の赤いドアと同じ鉄製のドアノブがついていた。
カチャ キー…
古めかしいドアノブの向こうには、まっすぐに続く一本の廊下があった。 少し薄暗い。 廊下の右側は壁で、窓が全くない。 左側には部屋が3つか4つあるようだ。 廊下の突き当りにはガラス戸があって、そこからかすかに夕暮れ時の光が入ってきていた。 その光が、廊下の長さを強調しているように感じさせた。 女性が廊下の明かりをつけた。
「さあ、いちばん手前があなたのお部屋ですよ。」
暖炉のある部屋と同じデザインだった。 木製のドアには「1」と書いてある。 床は木、ベッドも木製で、カーテンはやはり花柄だった。 ベッドカバーも花柄で、枕も掛け布団もフワフワとボリュームがあった。 窓はやはり白い木枠だったが、隣の高層ビルが邪魔をしているようで、光をあまり取り込めない、寂しい雰囲気のする木枠の窓だった。 ビル風が通り抜け、窓はカタカタ揺れた。 それが建物の古さを感じさせる。
洗濯物があったら籠へ入れておくように、朝までには出来ますよ。 と女性が声をかけ、ドアが閉まった。 ベッドの上には、バスローブも置いてある。 全く期待していなかった異次元の空間に、菜々美は少し上ずっていた。 だがそれは悪い意味ではない。
(ああ、なんだかワクワク、うれしい気持ち。 それに、なんだかとっても落ち着くわ。)
フワフワのベッドに腰かけてみたが、その見た目と違って、手触りは冷たい木綿の感じがした。 バスローブも、見た目より、ツルツルした感じがした。
「そうだ、お母さんに連絡しよう。」
菜々美は一人暮らしをしていたが、今とても素敵なB&Bにいるのだと、誰かに伝えたくなった。
「ええ、電波圏外? うそ、ネットもないの?」
東京で? 菜々美はすぐに女性の元へ行った。 暖炉は赤々と燃え続けてる。
「あのう、携帯の電波も、Wifiの電波もないみたいなんですけど。」
「ええ、ごめんなさいね。 ここはね、両方を高いビルに囲まれていて、携帯は圏外になってしまうのよ。 それと、ネットも入れたいんだけど、やっぱりビルと土地の関係で、まだインターネット回線が引けないの。 ポケットWifiだと、やっぱり電波が届かないの。」
え? だって今、2018年でしょ?
思わず言葉を失った。 暖炉からの木のはじける音だけが空間を満たしていた。 改めて暖炉の部屋を見渡す。 そう言えばここはテレビもないようだ。 まさか。 テレビの電波も…?
そう思うと、なんだかおかしくなってきた。 それに、ここにずっと住むわけではないんだから、ネットやテレビが一日ないくらい、別にどうでもいい事ではないだろうか。 いや、むしろ貴重な環境と言っても良い。 カーテンはすでにしまっていたが、東京のストリートの音が窓を通して、心地よいボリュームとなり、部屋に鳴り響く。
「火の燃える音って落ち着きますね。」
「そうでしょう?」
菜々美はしばらく暖炉に当たって、それから部屋に戻った。 心が満たされた感じがした、 ネットや電話をするよりもずっと。
隣の部屋がバスルームになっていた。 シャワーを浴び、「1」と書かれた籠に洗濯物を入れバスローブに着替えた。 ベッドに入った時、いつもの癖でスマホを手に取ると、電源切れで、スイッチが入らなくなっていた。
「あはは、まあ、いいか。」
菜々美はその夜、久しぶりにゆっくりと眠った。
昨夜はスープを飲んですぐ寝てしまった。 おかげで今朝は、早くに目が覚めた。 木枠の窓は相変わらずカタカタ揺れている。 窓は薄く、ここは昭和の時代からリフォームしていないのだろう。 カチカチ… スマホが使えないのだからと気を使ってか、枕元には目覚まし時計が置いてあった。 朝六時半である。
「良く寝た! 今までの疲れがだいぶ取れた感じよ!」
廊下では、誰かの声がした。 そうだ、ここはB&Bだから、他にも宿泊客がいるのだろう。 チェックアウトするらしく、朝食を食べたり、スーツケースを転がすような音が聞こえてくる。 それらが落ち着いたころ部屋のドアを開けると、昨日籠に入れた洗濯物が仕上がっていて、きんちゃく袋に入ってドアにかかっていた。 着替えを済ませ、昨日の暖炉の部屋に行ってみた。
「朝食ですよ。」
暖炉は昨日と同じように燃えていた。 木のお皿には、スライスされたブラウンブレッドと目玉焼きが乗っていた。 パンは自家製だろうか。 フライパンで焼いたような、目の粗いパンだ。
「コーヒーで良かったかしら?」
(あら、どうして私の好みを知っているの? いや、偶然ね。 朝、コーヒー飲む人多いしね。)
「はい、ミルクたっぷりでお願いします。」
大きなマグカップにコーヒーがなみなみと注がれ、菜々美の前に静かに置かれた。 女性は暖炉のそばで何か作業をしていたが、おそらく、片づけなり、次の食事の準備だろう。 窓の外には、東京人が忙しそうに歩いているのが見えた。 今日は土曜日だ。 お休みだ。 ゆっくりできる。 菜々美はあえてゆっくり朝食を楽しんだ。 パンはまだ暖かく、バターがとろけて吸い込まれてゆく。
(ゆっくりと味あうって、久しぶり!)
古めかしい柱時計がこちこちと言っていた。 暖炉の火の音と重なって、心地よい空間を作っていた。 菜々美はすっかりこの場所が気に入ってしまった。
(東京にいながらにして、まるでアルプスの山小屋に来ているみたい!)
「すみません、今日も泊まっていいですか? 月曜日は仕事だから、月曜の朝、チェックアウトしたいです。」
「ええ、いいですよ。」
(やったぁ!)
思わず叫びそうになった。
「それじゃあ、裏庭に出てみる? 気分転換になるわよ。」
「廊下の突き当りのドアを開ければいいんですね?」
「寒いから、上着を着ていきなさい。」
この家同様、想像つかない、意外な庭のような気がして菜々美は思わずはしゃいだ。 上着をサッと掴むと、一目散にドアを目指した。 赤や青のドアと違い、普通のアルミ製の窓付きドアだった。 窓は曇りガラスで、外が見えない。
「ええっ!?」
それは、全く菜々美の想像を超えていた。 家の中の廊下のように、まっすぐな小道がずうっと奥まで続いている! 右側はブロック塀、左側には高い木々が生えていて、森を形成していた – どこまでもどこまでも続いている。 その森に圧倒され、右側のブロック塀はほどんど印象にない。 いや、すでに視界には全く入らなくなっていた。 うっそうと生い茂った木のおかげで、晴れているのに薄暗い。 少し霧もかかっているようだった。 木の匂いと湿った空気が混ざり合う。 森は静かで、時々鳥の声が「キィー」と響き渡った。
「…OK。 これは…夢ってことね? それ以外に考えられないよね?」
都会の真ん中にこんな森があるなんて。 それにこれはどこまで続いているのだろう? 小道はまっすぐに、“ずうーっと”続いている、その先が見えないほどに。 平らで雑草は生えていない。 と言うことは、人通りがある、と言うことだ。 誰も通らなければ、やがて道は草に覆われてしまうはずだから。
「じゃあ、ここは人が歩いていい場所なのよ。」
菜々美は好奇心から進むことに決めた。 が、進めど進めど、森はずっと続いている。
「はっ! こういう不思議な世界に迷い込むと… ドアが開かなくなっている、っていうのがお決まりのパターン…!」
菜々美は急に不安になり、急いでドアまで戻った。 急いだせいだろうか。 思ったより早くドアに着いた。 そしてドアノブを回してみた。
カチャ
ドアは普通に開いた。 廊下に入ってみた。 部屋に戻ってみた。 もう一度外に出た。 そしてもう一度廊下に入ってみた。
「…大丈夫そうね。」
再び好奇心がよみがえり、菜々美はまた森の小道を歩き出した。 どこまでもどこまでも歩いた。 木を横切るように差し込んでくる日の光が、自然かつ斬新なデザインに見える。 美しい!
ふと気が付くと、カラスの声が聞こえてきた。
「ええ? もう夕方なの?」
そんなはずは… まだ、数時間しか散歩をしていないはずよ… しかし菜々美の指先はすっかり冷え切っていた。 ここはコテージの裏庭だと分かっていても、森の中で夜を迎えるのはさすがに怖い。 道はまっすぐだ、迷子になるはずもない。 それでも菜々美はいったんコテージに戻ることにした。 だいぶ歩いたから、戻る時間を計算すると、今戻ってちょうど暗くなるころか。 ところが、コテージには思ったよりだいぶ早く着いた気がした。
(知らない場所を歩くと、だいぶ歩いた気がするものよね。 だから戻りは早く感じるんだわ。)
「夕食ですよ。」
「本当に? もう夕方なんですか?」
「ええ、そうですよ。」
自分はお昼ご飯も食べずに、森に夢中になっていたのか。 朝ごはんをしっかり食べたからお腹がすかない、と言うのは納得できる。 そんな事より、今見てきた不思議な森の事を話したくて菜々美はうずうずしていた。 この女性は、暖炉わきで何かごそごそする癖がある。 そして振り返ると、手にはスープやらコーヒーやら、何かしらを持っているのだ。 まあいい、夕食は何だろう。 部屋には既にいい香りが立ち込めていた。 もちろん暖炉の火もこうこうと燃えている。
「今日はビーフシチューです。」
何時間も煮込んだようなビーフの塊と、マッシュルームと人参、小玉ねぎが入ったシチューだ。 サワークリームと、チャイブがトッピングしてあるのがオシャレだった。 その隣には、丸のままローストした、大きな皮付きのじゃがいもが添えてあった。 じゃがいもの割れ目にはバターが溶けている。
「わぁ、美味しそう!」
「ゆっくり食べていいんですよ。」
「はい!」
美味しそうな食べ物を目の前にすると人は素直になるものだ。 自然と元気もわいてくる。 ビーフが口の中でとろけた。
「何時間も煮込んだんですか?」
「ええ、ここでね。」
女性は暖炉を見ながら答えた。
「朝食の時、何か準備しているように見えたんですけど、もう下ごしらえしてたってことですか?」
「煮物は時間がかかりますから。 でもね、材料刻んで鍋に入れてしまえば、あとは火が調理してくれるでしょ。」
料理の話は誰としても楽しい。 それは、人はみな、食べるという共通点を持っているからだろうか。 この女性にだんだんと親しみを覚えるようになってきた。 食べ終わってもなお、菜々美は暖炉のそばを離れようとしなかった。 女性もそれを気にする様子もなく、何か用事をしていた。 その音と、柱時計の刻む音が心地よく混ざり合う。 菜々美の頬っぺたは暖炉の火で赤くなっていた。
「クッキー食べますか? ホットミルクと一緒に。」
「はい、いただきます。」
だいぶ夜が更けた気がした。 静かな夜だ。 今日は自分しか客はいないのかもしれない。 ミルクを飲むと、暖炉で温まった体がさらに温かくなり、うとうとと眠くなった。 菜々美は素直に、
「お休みなさい。」
と言った。 まるで母親にでも言うように。
女性も「お休みなさい。」と答えた。
翌朝も暖炉の部屋は暖かかった。 日曜日だと言うのに、スーツを着てせわしなく歩くビジネスマンが、レースのカーテン越しに見える。 東京とはそういう街なのだ。 今日の朝食はベーコンらしい。 まだテーブルに乗っていないが、ベーコンの焼ける音とそのにおいがする。
菜々美の目の前に出された朝食は、ベーコンと豆のトマトソース煮だった。 今日のパンは“ビスケット”だと言う。 「ビスケット?」 焼き立てで、何もつけずに食べても素朴で美味しい。 どうやら、アメリカ南部で料理の付け合わせにするパンの事らしい。
お皿の横には、ミルクコーヒーの入った大きなマグがある。 今日も時間をかけてゆっくりと朝食を味わった。
「ごはんて、ゆっくり食べるとこんなにも美味しいんだ。」
一人暮らしをしてると、朝食は簡単に済ませがちだ。 まして朝から、フライパンを使おうとは思わない。 前の日に買っておいた菓子パンか、ダイエットバーをかじって終わりだ。 コーヒーは自分で入れるのが面倒で通勤途中のスターバックスで毎日のように買っていた。
おなかが満たされると、その日もしばらく暖炉の火にあたっていた。 明日ここをチェックアウトすれば、もう暖炉なんてお目にかかることもないだろう。 そう思うと、火が揺らめく姿が貴重に思えてくる。 十分体が温まり、汗ばむくらいになってやっと菜々美は立ち上がった。 今日も森へ行ってみるつもりだ。 昨日は、遠くまで行くのをためらっていたからあまり遠くまで行けなかった。(と思う、自分ではだいぶ歩いた気がしたのだが。) 今日は、自信をもって遠くまで行ってみよう。 もちろん、ドアが再び開くかの確認は怠らない。
「よし、開いた。」
確信を得た菜々美は、そのまま森の奥へと進んでいった。
小道は、どこまで行ってもぬかるむことなく、歩きやすかった。 どこまで行っても木が生えているだけだ。 逆に言えば、どこにも行かなくていいのだ。 景色はどうせ変わらないのだから。 一カ所にとどまって、木を眺めていたって同じである。 そう思った時、突然、目の前に小川が現れた。 小川は途中で幅が広くなり、まるで池のようになっていた。
「水の音っていいね。 落ち着くなぁ。」
平地を流れる小川は穏やかだ。 それがまた心地よい。 さらさらと、せせらぎだけが聞こえるが、一カ所だけ、大きな岩が飛び出していて、そこから小さな滝の音がしていた。
「ここでしばらく、川の音を楽しもう。」
じっとしていると、体の芯から冷えてくる。 菜々美はもう一度歩くことにした。
小道をふり返ると、遠くにはあのアルミ製のドアが見えた。 迷子にはなっていない。 いや、なるはずがない。 道は、完璧にまっすぐなのだから。 それに、どこにも分かれ道はない。
「だから、安心して進んでいいのよ。」
更に進むと、花が咲きみだれるお花畑があった。
「まあ! これぞまるでメルヘンの世界じゃない!」
そこは、色とりどりのパンジーが所狭しと一面に咲き誇っていた。 突然、そこだけ周囲の木がないのだ。 気がつくと、その花畑はどこまでも見渡せるほど続いている。 菜々美はいつの間にか、ここが東京の庭であることを忘れ、自然の一部として受け入れていた。 パンジーの花の香りが、菜々美に春を思わせる。
「今は秋よ。 コスモスの方が、秋らしいのにね。 でもそう言えば、夏の終わりのころから、ホームセンターでは、パンジー、ビオラの苗を売っていたっけ。」
菜々美は、今日の冒険に大満足だった。 昨日より遠くに来て、小川が見れて、お花畑が見れて。 だいぶ遠くには、アルミのドアが「帰りはここですよ。」と言わんばかりに、小さく見えていた。
お花畑の先も、まだ小道は続いている。 ただ、時間のたつのがよっぽど早いようだ。 空が少しずつ、黄色みがかってきていた。
「こんなに素敵な体験なんですもの、時のたつのが早いのは当たり前ね。」
今日も帰り道はだいぶ早く感じた。
「昨日、森の話はしたんだっけ?」
女性と何を話したのか、菜々美は覚えていなかった。
「まあいいわ。 今日また同じ話したって。」
コテージに着くと、菜々美の体はやはり冷え切っていた。 自分の部屋に上着をほおり込むと、すぐさま暖炉に向かった。 部屋はまた、おいしそうな夕食の匂いが立ち込めている。 暖炉のそばには、昔ながらの黒いやかんが掛けてあり、そのお湯で、女性は何かのお湯割りドリンクを作ってくれた。
「ご飯が出来るまで、これを飲んで待っていてくださいな。」
ホットレモンだ。 そう言えば、菜々美はホットレモンなる物を飲んだことがない。
(レモンとお湯とお砂糖だけなのにこんなに美味しいなんて!)
シンプルだが、爽やかなレモンの香りにリフレッシュされた。 窓の外を見るとすっかり暗くなっている。
テーブルがセットされる音がしたので、菜々美も立ち上がり、スプーンやフォークを並べる手伝いをした。 ピッチャーには水とライムのスライスが入っている。 グラスが二つ置かれた。 そうだ、女性も一緒に食べるんだっけ。 サラダの入ったボウルも置かれた。
テーブルの中心には鍋敷きが敷かれていた。 その上に、鉄製のフライパンが置かれる。
「今日はフィッシュパイですよ。」
パイ、と言ってもじゃがいもを使ったパイだそうだ。
「本当はね、オーブン皿の“下”に魚やソースを入れて、その上にマッシュポテトを乗せ、こんがり焼くのが正統派のフィッシュパイよ。 でもオーブンがないから、逆にしたの。」
逆?
フライパンの蓋を取ると、マッシュポテトの“上”に魚とソースが乗っていた。 そこへ大皿をかぶせ、女性は「はいっ!」とフライパンをひっくり返した。 大皿の上に、こんがり焼き色のついたマッシュポテトが現れた。 湯気がたつ。 ポテトだけでなく、チーズも敷いてあったようで、焼けたチーズの香ばし香りが食欲そをそった。 魚はその下に隠れて見えない、まるで本当のパイのようだ。
女性は、その四分の一ほどを切り分けてお皿に盛り付け、菜々美に出した。 具のサーモン、タラ、白菜が、ハーブ香るホワイトソースと共にしみだしている。 サラダは自分でほしいだけ盛り付けた。
「フライパンで、パイも作れるんですね。」
「ええ。」
「私、魚って、焼き魚か、煮魚しか食べたことないかも。 あと、フライ。 こういう食べ方もあるんですね。」
「この白菜はね、植木鉢で育てた物なんですよ。 これからが食べごろです。」
「家庭菜園もやっているんですか?」
「家庭菜園てほどじゃないですよ。 でも、植木鉢だから、風が強い日とか、大雨の日は家に入れればいいんだから、管理は簡単よ。」
「へぇ~。」
「それにね、植物が育っていく様子は癒しにもなりますよ。」
「可愛いんだろうなぁ、自分が育てて大きくなってゆく姿は。 でも、最後は食べちゃうなんて、なんだか残酷ですね。」
女性は同意せず、代わりに、
「食べるって大切なんですよ。 現代人はせわしなく生きています。 美味しい物を美味しいって味わう暇もなく。 だからストレスになってしまうんです。 食事の時間は食事の時間としてちゃんととること。 そうやって楽しんでいけば、栄養のバランスだって自然に良くなるんです。」
まるで学校の先生か医師のような口調だった。 しかし彼女の言うことはもっともである。
「確かにそうだわ、 私は今、一人暮らしなんですけど、でも両親と同居していた時でさえ、仕事で忙しくて、何食べたか全然覚えていないこともよくありました。」
マッシュポテトにホワイトソースを絡ませながら、菜々美のお皿はどんどん綺麗になっていった。 水を一口飲む。 ほのかにライムの味がする。 それがまた、食事に楽しさを増しているようだ。
「今日はね、パンは焼かなかったけど、その代わり、リンゴのゼリーを作ったのよ。」
女性二人は、火の前で、ゆっくりとゼリーを味わった。 煮リンゴがごろっと入っているのがホームメイドっぽくていい。 だいぶくつろいだ後、菜々美は自分の部屋に戻った。 明日は月曜日、仕事だ。
(もう少しゆっくり出来たらいいのになぁ。)
金曜日の午後突然来た菜々美に、荷造りするものは何もなかった。 身一つで泊まったのだから。 朝九時までに出勤しなくてはならないが、ここは会社に近いのでさほど慌てる必要はない。 それでも菜々美は七時には朝食のテーブルに着いた。 甘い香りが漂っている。 今朝のメニューはパンケーキだ。
「楽しかったです。 また泊まりに来てもいいですか?」
「また?」
女性はきょとんとしている。
「はい、だってきょう月曜日だからチェックアウトしないと。」
「今日はまだ日曜日ですよ。」
え?
そんなはずは - だって、最初に来た日にスープを飲んで、その後には… ええっと、その次の日は… 食べた夕食で数えると、今日は月曜日のはずだ。 何を食べたのか思い出そうとしていると、入り口の赤い扉が目に入った。 胸が高鳴った。
(やっぱり何かがおかしい、そうだ、きっとあの赤い扉は鍵がかかっていて、私は閉じ込められたの! 庭の扉じゃなくて、入口の扉!)
菜々美の前にパンケーキがおかれた。 メープルシロップとブルーベリー、ブラックベリー、クリームとミントの葉が添えてあった。 不安ながらも、それを食べたくなる自分がいた。
「あの、外、その、外出してもいいですか?」
「ええ、もちろん。」
女性は何のためらいもなく当たり前のように言った。 そう言われると、不安がった自分が急に恥ずかしくなった。
(そうよね、 閉じ込めて何の役に立つっていうの? そうよ、私が曜日を間違えたんだ。)
パンケーキはとてもおいしかった。 今まで食べた料理はすべて美味しい。 夕食を早めに食べているせいもあって、朝はお腹が空いていた。 おかげでたっぷりと食べられる。
朝食が済んだ後、やはり曜日の事が気になり、とりあえず自分が宣言した通り、外出することにした。 人通りは少なめだ。 とすると、今日はやはり日曜日か。 しかし菜々美はその証拠が欲しかった。 そうはいっても、歩いている人に「今日は何曜日ですか?」と聞くのもなんだか恥ずかしい。
「そうだ、カフェに行こう。 そこでレシートをもらえばいいんだ。 金曜日に出勤した日が26日だから、レシートに28って書いてあったら、今日はまだ日曜日。 ああ、スマホの充電器があれば、スマホで確認できるのにねぇ。」
自分のよく知りつくした配達地区。 人通りからしてやはり月曜日には見えなかった。 カフェについても、客層にビジネスマンが圧倒的に少ない。
菜々美はカプチーノのスモールを頼んだ。 あのB&Bと同じく、一度入ってみたいと思いつつ、外から眺めているだけのカフェだった。
「レシートいただけますか?」
菜々美は頼んだカプチーノよりも、レシートを夢中で掴んだ。
2018年10月28日
「やっぱり今日は日曜日…」
店名の入ったお持ち帰り用のカップを手に、菜々美は店を出た。 コーヒーを少しずつすすりながら自分の担当地区をゆっくりと歩いてみた。 気持が落ち着いてきたらしい。 そのうちだんだんと、
「早くコテージに戻ろう。 だって、東京で暖炉の体験なんて、めったに出来る事じゃないもの。 今のうちに、存分に楽しんでおかないと。」
コテージに戻って冷えた指先を温めると、菜々美はまた森へ向かった。 廊下突き当りのドアを開ける時、毎回必ず驚いてしまう。 そのくらい、森は圧巻なのだ。 そのくらい、木が高いのだ。 そしていつも、怖い気分にさせてくる。 森の中を歩くにつれ、だんだんと心が落ち着いてゆく。 森の最初の部分は、その疑う気分を象徴するかのように、いつも少し霧がかかっていた。
「ふぅ。」
菜々美はベンチに腰を下ろした。 ここにベンチなんてあったっけ? そう思ったのもつかの間、森が繰り広げる、枝の揺れる音、葉のこすりあうささやきを楽しんだ。 歩く時の、靴と地面が作り出す音が妙に優しく聞こえる。 土だからだろうか。 都会のアスファルトの地面が出す音はコツコツし過ぎていた。
ここのコテージは、その外観も不思議だったが、その中身はもっと不思議だ。 ただ、そのすべてが調和している。 外観がコテージ風で、中が普通のオフィスだったら、それはアンバランスである。 山小屋風なんだから、庭は森でぴったりだ。 隣のビルが迫ってきている狭い庭では何とも味がない。 そう思うと、この不思議な森が、自然さにすら感じてくる。
また夕暮れが近づいてきた。 菜々美はもう何度も同じような体験をした気がする。 金曜日からいるのだから、一回以上なのは間違いない。 ただ…
暖炉の部屋に戻ると、コチコチと柱時計が鳴る中、ぐつぐつと鍋から煮物の音も聞こえてきた。 女性がまたこちらに背を向けて何か準備している。 菜々美はテーブルに向って歩いた。 木の床が出すコトコトと言う足音。 これもめったに聞かない音だ。 そういう、何気ない音がこの家には沢山ある。
「今日はカブのスープですよ。」
茎がついた、丸のままのカブが入っていた。 よく煮えていて、今にもとろけそうだ。 透明なスープはとろみがついていて、豚肉など他の具材ともよく絡んでいる。 女性がスープ皿に盛り付け、
「粉チーズとパセリもかける?」
と聞いてきたので、
「はい、お願いします!」
と元気に答えた。
「ここのB&Bでは、私の好物ばかり出るからうれしいわ!」
「まあ、そうですか?」
その日もゆっくりと食事を楽しみ、ゆっくりと火に当たり、菜々美は床に就いた。 夜中、別の部屋から大きな声が聞こえた気がしたが、他にもゲストがいればそれは仕方ないことだろう。 ぐっすり眠りにつき、他の宿泊客の事はほとんど気にならなかった。
「お世話になりました、おいくらですか?」
翌朝、朝食を食べ終え、菜々美は女性に尋ねた。 バターとミルクが入ったスクランブルエッグをぺろりと平らげ、そのお皿はまだテーブルに乗ったままだ。 手に持っているマグカップには、ミルクコーヒーが半分残っていて、これを全部飲みおわったらB&Bを出るつもりでいた。
「今日はまだ日曜日ですよ?」
「…。」
いよいよおかしい。 どう考えてもおかしい。 だって、昨夜はカブのスープを飲んで、その前は…
同じ日が繰り返される… そう言えば、九十年代にそんな映画があったっけ。 「恋はデジャ・ブ」と言う、恋愛の映画だったが、今の菜々美には彼氏も好きな人もいない。 本当に彼氏でもいれば、彼氏が探しに来てくれたかもしれないのに! いや、一人で泊まらず、彼氏と一緒に日を改めて泊まりに来た!
しかしである。 これは得なのではないだろうか。 だって、いつまでも日曜日と言うことは、毎日お休みと言うことになるからだ! そう言えば菜々美は、ここ数年休みらしい休みを取ったことがない。 週末はお休みだったが、社会人大学院に通ったり、英検の試験対策など、常に忙しくしていた。 前にいた会社では残業も多かった。 ここ数日、ぐっすり眠ったとはいえ、まだまだいくらでも眠れる気がした。 森の中の新鮮な空気だっていくらでも吸えそうだ。
休めるのは嬉しい。 ただ、どう考えても非現実的だった。
「もう一度頭を整理しなきゃ。」
夕食後、いつものように暖炉で温まり、部屋に戻った菜々美はベッドに座って考えていた。 枕元には、ボールペンとメモ用紙がある。
「最初に来た日はスープを飲んだでしょ、それが金曜日。 土曜日は… 日曜日は… あれ、そしてもう一度日曜日は… 今朝はスクランブルエッグを食べて、今日の夕食はレモンチキンにほくほくのさつまいも…」
菜々美は、食べたものをすべて書き出そうとしたが、上手く思い出せないでいた。 ただ、もう4、5食は食べたという感覚だけはある。 朝食も食べているからその倍の数…。 食事のメニューは意外と忘れやすい物だ。 母と、「昨日何食べたっけ?」と、思い出せずに笑うこともあるではないか。
「とりあえず、今日の分は書いたわ。 それにしても。 明日はチェックアウトできるのかしら。」
翌朝、テーブルに並んだメニューは、大きくスライスしたバゲットに、たっぷりのチーズがとろけていた。 そのチーズが、アルプスの少女ハイジを連想させた。
「バゲットもここで焼いているんですか?」
「いいえ、パン類は、発酵が面倒だから買っています。 スコーンとか、ソーダブレッドとか発酵なしのパンは、うちのフライパンで焼くこともありますけどね。 ここからちょっと遠い四丁目のパン屋さんは日曜日もやっていて、配達してくれるんですよ。」
「ええっ、じゃあ今日は日曜日なんですか?」
「そうですよ。 ああそれから、ストーブだと火力が強いから、下に網を敷いたりしますよ。」
火力の部分は菜々美には聞こえていなかった。 日曜日…! 本当に恋はデ・ジャブ状態だ。
(じゃあ、せめて恋でもあればいいのに! 私の場合は一人じゃない。 話が展開しないわ!)
外へ日付を確認しに行こうと思ったが、どうせまた、28日何だろう、と思えてきた。 でも確認しないと今日一日落ち着かないだろうと思い、結局外へ出た。 よく知りつくした担当地区を歩く。 あれ? 昨日ここへ来たっけ? 来たような気がする。 菜々美はとあるカフェの前で立ちすくんでいた。 しばらく眺めていると、中の店員がじろりとこちらを見ていることに気が付き、菜々美は別の喫茶店へ行ってみることにした。 店内には、私服の客が多い。 それだけでもやはり、今日は日曜日なのだと分かる。 コーヒーを頼み、レシートをお願いすると、やはり28日と刻まれていた。
「デジャブ… 日本語では既視感っていうのよね。 どうして私は同じ日曜日を何度も体験しているように感じるんだろう。」
その謎を解こうとしても、簡単には解けなかった。 結局、今日が日曜日なら休みでいいじゃない、と自分で結論付けるにとどまった。
(そうよ、良かったのよ。 これが毎日月曜日だったらうんざりだわ。 そう言えば、あの映画の最後はどうなるんだっけ。 元に戻るのよね? じゃあ、それでいい。 このまま日曜日を満喫しよう。 いつかきっと終わりが来る。)
そう決めると、ふっと心が楽になった。 それでも朝が来ると、月曜日かもしれない、女性が曜日を間違っているかもしれないと思い、外出するのが習慣になった。
(いつも時間に追われて配達していた街だけど… こうしてみると、東京もいい街ね。 綺麗に整備されているし、それに街路樹もある。 あ、これはつつじだったな。 五月になったらまた花が咲くんだろうな。)
イチョウの木はまだ色づきがかっていない。 (でもこのまま10月28日だったら、黄色いイチョウが見られないなんて!)
東京の街を散策して、それから今度はコテージの森へと向かった。 ここもそう言えば、落葉樹の葉はまだ落ちていない。 だが、早朝のピリッとした空気に触れる時、今日にでも冬支度を始めます、と森が語りかけてくるようだった。 そこへ太陽の光が差し込み、その支度を遅らせるのだ。
「ええと、今日食べたのは朝がバゲットでしょ、で、夕食がミートボールパスタでしょ…」
ミートボールパスタには、生のバジルの葉が乗っていた。 今まで、乾燥したバジルしか食べたことがなかった。
(たった数枚のバジルの葉。 これだけでお料理って、ずいぶん変わるのね!)
部屋に戻って、食べた物をメモしようとしてハッとした。 金曜日のスープしか書いてないのである。
「そんなはずは…。」
そう言えば、なぜ、食べた物をメモしようと思ったのだろうか。 菜々美はコトリとペンを置いた。 だいぶ前から、頭を整理しようとしているのは分かる。 しかし、整理したくても出来事を思い出せないのだから整理が出来ない。
「ダメだわ。 全部がぼんやりしていて、文字にできない。 でも、何かが沢山起こった、それだけは確かなのに!」
金曜日にここに来たことは覚えていた。 ここは携帯電波が届かないことや、スマホの電源が切れたこと、だからゆっくりしようと決めたこと、等は覚えている。 でも…
朝目が覚めると、月曜日だ、と感じた、何回も。 そして、日曜日だ、と訂正され続けた。 その謎を探りたくて、何かしようとしているのも分かる。 でも探ろうとすると、「あれ? 何でこれをやろうとしているんだっけ。」
と、元々の理由がぼんやりしてしまった。
その日、朝目覚めると、部屋はいつもより寒い気がした。 木枠の窓はカタカタいい、その隙間から湿った空気を感じる。 あれ? いつもと何かが違う。 何だろう。
一つだけはっきりしているのは、疲れがすっかり取れた、と言うことだ。 それもそうだろう、だって、もうだいぶここに泊まっているのだから。 (と思う。)
暖炉の部屋は、いつもより暖かく感じた。 あれ? やっぱり何かが違う。 窓の外は曇り空の様だった。 いや、雨だ。 だから自分の部屋が寒く湿って感じたのだろう。
(雨! 確実に何かが違う!)
雨の湿気が混ざり合い、部屋が蒸している。 だからいつもと違う空気を感じたのだ。
「おはようございます。 今日はあいにくの雨ですね。 チェックアウトするとき、うちの傘を持っていってくださいな。 都合のいい時に返してくれればいいですよ。」
「チェックアウト? じゃあ、今日は月曜日ですか?」
「そうですよ。」
嬉しいような、寂しいような感じがした。 もう少し長くいても良かったのに、と思えてきた。 まあいい。 また泊まりに来ればいいじゃない。
今日の朝食はオートミールだ。 バナナとクランベリーとブルーベリーがトッピングしてあった。 最後の食事だと思い、菜々美はお代わりまでしてしまった。 女性はそれをむしろ喜んでいた。
「だって、美味しいから。」
コーヒーを飲みながら、菜々美はお財布をポケットから取り出した。
「おいくらですか?」
女性は、またこちらに背を向け、何やら書類をプリントアウトし、金額を見せた。 B&Bの明細書だと言うのに、やけに細かく書かれていて、表になっている。 しかし菜々美は金額だけが気になっていたので、詳細は見なかった。 金額は思ったより高かった。 しかし、こんな異次元の体験をしたのだから、高くても仕方ないだろう。
明細書を折りたたみポケットに押し込むと、菜々美は「お世話になりました。」とぺこりと頭を下げた。 女性が「傘持っていってね。」ともう一度リマインドし、最後、「ありがとうございました。」ではなく、別の事を言われた気がした。 「いってらっしゃい。」かな? まあいい、今日は仕事だ。 借りた傘をさして、菜々美は仕事場に向かった。
「田中さん、もう大丈夫なんですか? でも、すっかり顔色が良くなったね。」
職場に着くと、皆が菜々美を見ている。 ええ? いったい何があったんだっけ?
「やだあ、田中さん覚えていないんですか? 金曜日、配達終って帰ってくるなり倒れちゃって。 救急車呼ぼうとしたら、大丈夫だって言い張って。 持病のストレス病が出ただけだから、昔かかりつけた、心療内科に行きますって。 私とマネージャーが送っていったじゃないですか。」
「…。」
…そうだった。 そうだったんだ! しばらく立ちすくんだ後、ポケットに入れたB&Bの明細書を取り出した。
「馬場診療所 - 入院明細」
ああ! そんな!
「田中さん? 大丈夫? 今日仕事出来る?」
「あっ、すみません、はい、大丈夫です。 出来ます。」
「雨も上がったし、無理しない程度に配達いってきて。 電話するのよ、具合悪くなったら。」
「でも、スマホが充電切れで…」
「まだ8時30分だから、今ここで少しでも充電していって。」
その日の配達と集荷を確認すると、馬場診療所付近の配達は一切なかった。 菜々美はがっかりしたのと同時に、少し安心した。 配達中、診療所に近寄ったら、気分が高まってしまいそうだったからだ。
入院していたんだ - だから体がリフレッシュしたのか。 その日は疲れを感じることもなく配達できた。
- そうだ。 金曜日の午後。 その日は、いつもより配達が多く、しかも夕方から通っている大学院の課題の宿題もあり、いつもより早く帰りたいと思ってテンパっていた。 菜々美は、有名大学を優秀な成績で卒業している。 今更大学院に通う必要はないのかもしれない。 しかし、菜々美自身の中で、常に自分を磨きたいという、闘志のような物があった。
(ああ、どうして世の中は公平でないの? 私より、ずっと悪い成績で卒業した人が、悠々と、管理職についているの?)
- そうだ、そして頑張り過ぎた結果、病気を引き起こしてしまったんだ。 悔しくて、その気持ちを説明すればするほど、「固執している。」と、変人扱いされてしまう。
- 大学卒業後、せっかくいい会社に就職できたものの、会社の体制に飲み込まれて、ついていけなくなったんだ。 その後も、良い学歴が功を奏して、いい会社に再就職が決まったものの、結局空回りしてしまう自分がいたんだ。
「どうして? 私は一生懸命やりたかっただけなのに。 一生懸命とは、人間関係と、会社のしきたりに従うためにあるの?」
- 悔しくてたまらなくなる。 心の行き場を探すために、さらに頑張る。 気が付くと、食事をするのも忘れていた。 そんな時、体重計に乗ったら体重が減っていた。 今までどんなにダイエットしても減らなかったのに。
(そうだ、これを機会にあと2キロ減らしてみよう。)
目標がずれてしまっているのは分かっていた。 ただ、自分だってやれば達成できる、と言う事実が欲しくて、気がついたらダイエットにはまっていた。 めまいを起こすこともあった。 それすら、頑張っている証拠だからと、プラスにとらえていた。
同居している実家の両親は、菜々美の気持ちを分かってくれなかった。
「せっかく雇ってもらったんだから、会社に感謝しないとね。」
その言い分も分かる。 しかし、両親はそれ以外の価値観で全く物を見れないのだ。 実家にいるのが苦痛となった。 だから、ためた貯金をはたいて一人暮らしを始めたんだ。 今こうして、配達の仕事をしているのは、貯金が底をつかないために、パートとして始めたんだ。 大学院を終了するころには、もっとビッグになってやる。 今まで、私を認めてくれなかった会社の人達全員をぎゃふんと言わせてやるんだ!!
- そうだ、過去を振り返っていたら、OL時代に発症したあの病気が、配達中に戻ってきてしまったんだ、突然に。 涙すら出ないほど悔しく、茫然としてしまったんだ。 体力も出ないほどに、急にふらふらとしてしまったんだ。
週末ゆっくり休んだからだろうか。 今日は、悔しさがこみあげてきても、それでめまいが起きると言うことはなかった。 仕事を終え、傘を持って事務所を後にした。
「さあ、この傘返さなきゃ。」
菜々美は少しドキドキしていた。 傘を借りてよかった、こうしてまたすぐ、馬場診療所を訪れる口実が出来たのだから。 それにしてもあの不思議な光景。 OL時代に馬場診療所に通った時は、あんな風には見えなかったのに。 どうしてここ最近、あんなふうに映っていたんだろう。 今行っても、山の中のコテージ風に見えるのだろうか?
コテージ風ではなかった。 その建物に見覚えはある。 だいぶ古く、屋根は赤茶けている。 右にドア、左には窓、コテージの時と同じ造りだ。 ただ、窓には、BaBa Clinic と英語の文字がペイントされていた。 なぜ2回大文字が使われているのかは、よく分からなかった。 その奥には、レースのカーテンと、花柄らしいカーテンがある。 ドアは赤ではなく茶色だったが、ドアノブは丸かった。
「OL時代によく通ったのに… 何でここがコテージに見えたんだろう…。」
ドアを開けると、女性が背中を向けて立っていた。 ああ、何度も見たあの光景だ! そして、何かをくるくると回しているようだった。 女性が菜々美に気づいてふり返ると、彼女はマグカップを手に持っていた。 紅茶を入れていたらしい。 女性は、花柄のブラウスを着ていたが、白いエプロンではなく、白衣を着ていた。
「先生!」
菜々美は、目の前にあった丸い木のテーブル… いや、これは会議室用テーブルだ。 そこへへなへなと倒れ込んだ。
しばらくテーブルにうずくまっていたが、顔をあげて部屋を見渡すと、そこは山小屋風ではなかった。 暖炉があると思った位置にあったのは、石油ストーブだった。 コチコチ… 柱時計の音は、あの時聞いたままだ。 ストーブに乗ったやかんから、静かに蒸気が出ていた。 そうだ、この音だ、この空気だ。 あの時感じた空気は、確実にここにある。
暖炉の左側にあったのは、茶だんすで、その上に、電気ポットと電子レンジが乗っていた。 その更に左側には、先生が診察時に使うのだろうか、手を洗うための、小さなシンクがあった。 そして別の棚があり、その上に、プリンターとラップトップが置いてあった。
OL時代に見たその光景が改めて菜々美の前に再現されていた。 自分はどうして、アルプスのような山小屋を想像したのだろう。 どこから始めてよいのか分からず、菜々美は黙っていた。 先生がマグカップになみなみとコーヒーを注いでくれた。 それを手に持つ。
(ああ、ここに泊まっている間、何度もこのカップを持ったのを覚えているわ!)
「先生。」
「はい?」
「どうしてここの部屋に会議用のテーブルがあるんですか?」
菜々美にとっては重要な質問だ。 このテーブルで、何度も食事をしたんだから。 丸い、木で出来た、スイス風のテーブルだと思い込んで食事を楽しんだあのテーブルが、ただの会議用テーブルだなんて!
「ここの診療所は、父が開業して以来、一切手を加えていないんです。 あ、プリンターとラップトップは入れましたけどね。 父の時代は、すべて紙のカルテだったから、父は時々、患者さんの記録全部を広げて確認する癖があったんですよ。 その名残です。 昔の患者さんの記録は、まだ紙のまま残っているから、私もたまに、この大きなテーブルが役に立つんです。」
「そうですか…。 でもそれに、食事するのにも役立ちますよね?」
「ええ、そうですね。」
石油ストーブが菜々美の右側を温める。 ここに入院した時に何度も味わった、まさにあの感覚だ。 菜々美は落ち着きを取り戻した。
「先生、傘をありがとうございました。」
コーヒーを口にした。 ああ、この味だ!
「私はここに週末、入院していたんですよね?」
「はい。 田中さん、私はあなたに何度も入院を勧めたんですけど、中々うん、と言ってくれなくてね。 そのうち、ぱったりと診察にも来なくなって。 でも金曜日、自分から入院しますと来た時は、少し驚きました。 こういった場所は、無理に入院させてもダメなんです。 本人が、休みが必要だ、休んで改善したい、と言う意思がなければ。 だから嬉しかったですよ。」
菜々美は今までの自分をふり返った。 そうだった。 自分はストレスから、病気を発症していたのだ。 今まで気力で何とか頑張りぬいてきてしまった。
暖炉、いや、石油ストーブの右側には、廊下に続くあのドアがあった。
「私、ここでとても楽しい体験した気がするんです。 休んだだけでなく。 でも、時間とともに少しずつ、その記憶があいまいになってきていて。 先生、あのドアの向こうを見てもいいですか? 部屋と、裏庭があるんですよね?」
菜々美がドアを開ける時、医師も後ろについてきた。
「ここ、私の部屋…。」
「はい、そうでしたね。」
ベッドはそこにあった。 あの窓もそこにある。 ただ - ベッドは鉄パイプ製で、白いシーツに包まれた布団と掛け布団だった。 次の患者用だろうか、バスローブではなくて、入院着があった。 触ってみると、あのツルツルとした木綿の感覚だった。
「ああ…」
あの目覚まし時計はあった。 その針が刻む音や、窓の木枠が揺れる音はそのままだった。
廊下の突き当りのドアは、あの時のままだ。 アルミ製で曇りガラス。 外の様子は見えない。 ここを開けると、あの雄大な木、森に、圧倒されてしまうはず…だ。
…違った。
森はそこへはなかった。 小さな裏庭は、高い高いビルに四方を囲まれていた。 そのビルの隙間から、もうすぐ夕焼けの太陽がさあっと射してきている。 そこに、空気のチリが当たって、まるで霧がかっているかのように見えた。
コト、コト、と庭を踏みしめてみた。 そう、この感触、この足音。 森の小道ではなく、庭に作られた小道だった。 だから、ぬかるみもなく、どこまで行っても平地だったのか。 庭のどの位置からも、あのアルミの扉を見ることが出来た。 庭には、一本の大きな木があるだけだ。 それ以外は小さな低木が少し植わっているだけである。 庭の真ん中には人口の池があって、小さな滝が流れ、水を巡回させていた。 庭の端には花壇があり、少しばかりのパンジーが植わっていて、その横に、白菜などが植わった鉢があった。
「田中さんは、そこの椅子に座ったり、小道を歩いたり、庭で長い時間を過ごされていましたね。 お天気も良かったし、お昼頃は大体うつろうつろされていました。」
椅子… 古ぼけた、白いプラスチック製の椅子が無造作にそこにあった。 固定してないので、座る人が自由に移動させることが出来る。 風が吹き、葉がそよそよとなった。 そう、この音! 庭に唯一あるこの大きな木が奏でていたのだ。
「さあ、寒いから戻りましょう。」
木製の床。 この古い家は、どこか和洋折衷な感じだった。 小さな診療所だが、靴を脱いでスリッパに履き替える必要もない。 だから歩くと、足音がはっきり聞こえる。 耳慣れたあの音だ。
ストーブの前に座る。 手をかざす。 もう何度もやった体勢だ。 そう、この匂い。 この暖かさ。 間違いない、菜々美はここにいたんだ。 さっきのコーヒーがぬるくなっていたが、かまわずもう一口飲んだ。
「うまく言えないんですけど、でもやっぱり、ここで楽しい体験をした感覚があるんです。 何日も何日も滞在した気がするんです。 そして、美味しい物をたくさん食べたような…。 先生、私、病気が治ったら、もうここに来てはいけないんですよね? だったら、もう一度悪くなりたい! もう一度あの楽しかった時を体験したい! …って、ダメですよね。 こんな考え方じゃ。 また病気になりたいだなんて。」
だが、医師は、
「ええ、いいですよ。 そうすればうちが儲かりますから。」
意外な返答に菜々美は目をきょとんとさせた。 そして笑い出した。
「やだ、先生。 正直すぎるじゃないですか! そういう時は、悪くならないようにしましょうねって言う物じゃないんですか?」
「でも、田中さんは白黒したストレートな答えが好きな性格でしょう? それに。 いいじゃない、悪くなったらまた休んで、またやり直せばいいの。 だいたい、頑張りましょう、なんて言ったら、また頑張りすぎて空回りしちゃうでしょ?」
そうだ。 菜々美はこの医師の、はっきり喋るところが好きだったんだ。 OL時代、他の心療内科にも行ってみたが、モヤモヤ感が増すだけで、イマイチスッキリしなかった。
「私、ここでスープを飲んだことは覚えています。」
「あれね。 飲む? インスタントスープだけど、お湯の代わりに牛乳を使ったのよ。」
医師はそう言うと、小鍋に牛乳を注いでストーブの上に乗せた。 それをくるくるとかき回す。 ストーブの端にスライスしたバゲットも置いて、トーストする。 それをスープと一緒に出してくれた。 ボウルはやはり木製だった。 ああ、美味しい。
「長居してしまってすみません。 他にも入院患者さんがいて先生もお忙しいのではないですか?」
医師はそれには答えず、
「田中さん、あまりお小言とか、アレしなさいこれしなさいって言いたくはないけど、でも、ここで楽しんだように、食べることは基本だから、それをしっかり実行してください。 今だって、こんなシンプルなスープだって、美味しく感じるでしょう? 田中さんは、摂食障害も併発しています。 食べる、と言うことは、体の中から気持をリセットすると言うことなんですよ。 食べるために準備をし、そしてテーブルに着く。 その時間をきちんと作ることで、生活のリズムが戻ってくるんです。 ビタミン剤等の栄養剤で栄養は採れますが、体はリセットされません。」
「はい、先生。 先生の言うことはよく分かります。 でも。 私、頑張っても頑張っても、何にも達成できなくて。 そんな自分が悔しくて。 でも、体重減少は、頑張った分だけ、きちんと自分に帰ってくるじゃないですか。 体重計はロジカルに結果を伝えてくれます。 頑張った結果が見えるんです。 私は結果が見たい。 それにダイエットは自分との戦い。 仕事のように、誰かが邪魔したり、言い訳も通用しない。 100%自分の頑張りは反映される… それが魅力でつい…。」
医師は菜々美の言葉をしっかりと消化してから答えた。
「確かに、自分の頑張りが反映されますね、ダイエットは。 しかし、それは田中さんの本来の目標ではないでしょう? まあ、いいわ。 それも分かっているんだろうし。 体重を減らすな、と言っても、そう簡単に考えが変わるとも思わないから。 いいわよ、減らして。 ただ。 ちゃんと、テーブルに着くこと。 お皿に盛り付けること。 ゆっくりと食事を楽しむこと。 気分をリセットすること。」
「先生は、そのために毎日おいしそうなご飯を出してくれたんですか?」
「そんな大したものは出していませんよ。 でも、ここのストーブを使って作れる、簡単なものは出しますよ。 目の前で作った物を食べるって、なんだか楽しいでしょ?」
あのフライパンは茶箪笥にしまってあった。
「今日は患者さんがいないんですよ。 だから特に何も焼いていないんです。 私もね、もっと手広く商売しようと思えばできるのよ、でもそうすると一人の患者さんに集中できないし、自分も疲れちゃうから、ペースを保っているの。 おかげで貧乏、この家もまだリフォームできないでいるけど。 でも、古さが逆にいいって言ってくれる患者さんも増えているから、このままにしようかな、と思うの。」
「でも先生、リフォームしないで、ここ売ったらいいお金になりそうですね。」
「ほんとね。 それに、今時東京で携帯の電波が届かない場所も貴重だし、変な付加価値が付きそうね。」
「ここは、テレビの電波も来ないんですか?」
「さあ。 試したことがないのよ、テレビは。 父の時代もここはテレビがなかったし。 それに、テレビで放送される内容って、ポジティブ過ぎてプレッシャーになることもあるから。 そういうものは置きたくないの。」
医師とお喋りできたのが嬉しかった。 病気の事、菜々美の事を一番理解してくれているのは彼女だ。
理解された - 菜々美にとっての特効薬だ。
「ごちそうさまでした。 また悪くなったら来ますね。」
「はい、待っているわ。」
「先生は、お大事に、って言わないんですか?」
菜々美が真面目に質問する。
「そういうお声がけをする患者さんもいます。 でも、お大事にって言ったってねぇ。 みんな大事にしてるつもりなのに、病気になっちゃうんだもんね。」
こんなこと言う先生は他にいるんだろうか。 先生との会話が名残惜しく、ドアのそばで、
「先生は花柄が好きなんですか?」
「ええ、汚れもしわも目立たないですからね。」
…それって!
「先生、私は自分をロジカルだと思ってましたけど、先生は私以上じゃないですか?」
先生は私に似ているのかもしれない。 そしてはっとした。
「ロジカル、と言うことは、高いオファーが来た時、ここをあっさり売っちゃうなんてことも? ああ、それか、先生が定年するとか?」
ある日突然、この診療所がなくなっていそうで、不安になったのだ。
「定年? いやあねぇ、私はまだ42歳ですよ。 私はアレルギーで白髪染め出来ないんで年上に見られがちです。 まあ、おかげで貫録だけは出てますけど。」
菜々美はしまった、と思った。 でもよかった。 先生は菜々美より17歳年上なだけだ。 彼女にずっと近づいた感じがした。
「週末、大学院の講義、さぼっちゃったな。」
でもいい。 今週はもっとエネルギッシュに参加できそうだ。
振り返る。 馬場診療所が、楽しかったあの場所がそこにある。
(言葉にしようとすると思い出せなくなる。 でもこうして、心の中にしまっておく分には消えないみたいだ。)
もうやめよう、あそこに何があったのか表現しようとするのは。 素敵なコテージがあったんだ。 それで十分だ。
入院と言うステップを踏んでよかった。 食べる、肌で感じる、耳で聞く。 すべて心に余裕があって堪能出来る事だ。 余裕がなければ、その余裕を自分で作りださなくてはならない。
「そういう頑張り方か。 なるほど。」
自分らしく頑張るコツがわかった気がする。 それは、病気改善に向けての一歩だが、あの楽しかった場所とはさらに縁遠くなったことでもある。
帰り道、菜々美は馬場診療所にあったような、蓋つきの鉄のフライパンを買った。
「でも、牛乳は低脂肪にしようっと。」
菜々美なりの、新しい生活が始まる。
ビルの谷間の小さなコテージ ノリコY @NorikoY
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