欠陥品と女将

 雨が降っていた。しとしとと降る中、店の暖簾を出そうとしたところちょうど誰か……それは10歳にも満たない幼女が転びかけていて。とっさに暖簾を放り出し、腕に抱きとめた意識を失った小さな身体から。地獄の底からと言わんばかりの腹の音がなったのを聞いて、思わず。この店の女将ことカナはきょとんと瞬いたのだった。


 それからは早かった。暖簾を再びしまい、店内の電気をつけ一階奥の部屋で少女にもならない幼女のびっしょりと雨に濡れた服を脱がし。カナが幼い頃に着ていた着物を持ってきて着せ、布団の上で寝かせた。ついでに顔についていた諸々も外して、軍帽と一緒に布団の外におく。幼女は大切そうに、右肩についた片方だけのマントに何かを締め付けない程度にくるんでいた。それは翼に怪我を負ったカナリアだった。黄色の体、赤いトサカ、9本の虹色の尾は初めて見るがそういう個体もいるのだろうと特に気にしない。

 薬は人間のものでも平気でしょうか? と思いながらカナは持ってきた洗面器と綺麗なタオル、救急箱を開けて軽く手当てする。手袋越しに傷に触れるとき、ぴくりと動くからまだ生きているのだろう。最後に清潔なガーゼの包帯で翼を柔く巻いて。幼女の隣に寝かせた。


 幼女の着ていた服は軍服だった。黒っぽいワイシャツに灰色のネクタイ、右肩にはマントをつけており、大きな三日月が5重に描かれていた。腰には3本のベルトと短いズボンから覗く細い足は白い分だけ傷がよく目立っていた。おそらく何かから逃げていたのではないかと思われる。さらにいえば、口はともかく執拗なまでに顔を隠していた。面頬に、黒いレースの眼帯、最低限の顔以外を隠した黒いレースのベール。なぜそこまで顔を隠すのか、傷でもあるのかと全部取ってみたが(消毒しようと思った)何もなく。キメの細やかな白肌以外なかった。

 それはともかく、とりあえずあの腹音からするに相当空腹なのだろうと考えたカナは。自分ができることをしようと考えた。20年ぶりの、お客様なのだから。と。


 カウンターの中に入り冷蔵庫から次々と必要なものを出していく。牛バラ肉、豆腐、玉ねぎ、卵、醤油、みりん、料理酒、刻み小ねぎ。

 まず作るのは味がしみしみの肉豆腐。牛肉と豆腐を一口サイズに切って、玉ねぎをスライス。フライパンに切ったものと調味料であるみりん、料理酒、砂糖、水、醤油、だしの素を入れて弱火と中火の間くらいで蓋をして10分煮る。煮出した時からみりんや砂糖の甘い匂いが広がり、醤油のしょっぱいような香りが食欲を刺激する。

 その間に、耐熱のバットに卵、みりん、醤油、砂糖、だしの素、水を入れ混ぜて電子レンジで1〜2分加熱、電子レンジから取り出したら1分30秒加熱。最後にラップで丸めて、手で持てる熱さになるまで放置。約10分ほど置く間に肉豆腐が出来上がる。鍋のふたを開けると同時に食欲を刺激する香りが店内に広がる。味見用の小皿にちょっと汁を入れて味を見る。まろやかな旨味と玉ねぎの甘さがちょうどいいとほくそ笑む。

 そんなことをしている間に時計を見たらほんのりだし香るだし巻き卵が10分経って触れるほどの熱さになる。それを2〜3センチ大に切って上に刻み小ねぎを散らす。

 それぞれ2つずつ用意して、綺麗に盛り付けていれば。匂いにつられたのか、幼女が起きてきた。そのずれた浴衣の肩には先ほどの七色の尾を持つカナリアもいた。顔には先ほど外したはずの全てがつけられ表情は口元でしかわからなかったが、その口元も無を刻んでいた。最初に口を開いたのはカラフルなカナリアで、次に頷いたのは幼女だった。


「とてもいい匂いでございます! カナリア!」

「……そうだね」

「あら、起きたのですか? おはようございます」

「おはようございます! この度は手当や衣服を貸し出していただき、誠にありがとうございます!」

「……ます」

「わたくしはお供のカメリアと申しまする、気軽にお供とお呼びください。こちらはカナリアと申します!」

「……カナリアでいい」

「これはご丁寧にありがとうございます。あたしはカナ、この小料理屋こくあんの女将ですよ」


 さあさ、こちらにどうぞ。笑顔でカウンター席を勧めてみるも、1人と1匹はどこか浮かない顔で席に近寄ろうとはしなかった。柱をぎゅっと小さな手で握るカナリアにカナは首を傾げて、再度勧めるが。お供が申し訳なさそうな声で言った。鳥にしては表情豊かで、顔も眉がなんとなく下がっている気がする。


「申し訳ございません女将どの。カナリアは持ち合わせがなく……」

「……ごめん」

「そんなの気にしなくていいんですよ。これはまかないなんです、あたし1人では寂しいのでご一緒してくれたら嬉しいのですけど」

「女将どのはお1人なのですか? 失礼ですがまだ軍部高等学校の生徒と同じくらいの歳では……?」

「……若い」

「あら、そう見えますか? 若いだなんてありがとうございます。でも……そうですね、そこらへんのお婆ちゃんよりは年を食ってますよ」

「なんと! 聞きましたかカナリア、お供はびっくりでございます!」

「……驚き」

「ふふ、ありがとうございます。ではこれからおにぎりを焼くので、少々お待ちくださいね」


 そろそろとゆっくり席に着いたカナリアは、お供をそっとカウンターの上に乗せて。前に置かれた肉豆腐とだし巻き卵を見る。カナリアにとって初めて見る料理だ。そしておにぎりとはなんだろう、少なくともカナリアは食べたことがなかった。じっとカウンターの中で何かをしているカナを見ていると、だんだん香ばしくていい匂いがしてくる。ごくりとなる喉が、それが美味しいものなのだと認識しているいうことを表しているのを。この時のカナリアはまだ知らなかった。


 まずボウルにご飯、ごま油、だしの素、醤油、みりんを入れる。それを均等に色がつくまで混ぜて、おにぎりの形に握ってから油は使わず両面を中火で焼き色がつくまで焼いて完成。

 それを笹の葉の描かれたさらに3つ盛り付けて、カナリアの前に置く。それと、1つをお供の前に置いて逢沢は問いかける。


「お供さん、お肉や玉ねぎは大丈夫ですか? あと卵も。大丈夫ならよそりたいのですけど」

「このお供、神獣であるがゆえに好き嫌いはございませぬ!」

「……お供、すごい」

「ああ、お供さんは神獣なんですね。だから会話が成り立つのでしょうか?」

「そのように聞いております! とはいえ、女将どのは驚きませんね」

「……不思議」

「あたしにとって、喋る獣は珍しいことではありませんから。それより冷めてしまうので頂きましょう。お供さん、はい、肉豆腐とだし巻き卵です」


 ことりと置かれた器は食べやすいようにだろう、細かく切られた肉と豆腐、だし巻き卵はネギを散らしてあった。

 カナは向かい合わせになるようにカウンターの中で、食べ始めようとしたところでふと気づく。カナリアが困惑していることに。そしてその目線の先には肉豆腐とだし巻き卵があって。

 ああ、と心の中で手を打った。カナリアの格好は軍服だった。しかも明らかに外国の。カナリアの容姿も銀髪に片方しか見えない目は赤、面頬はともかくレースやベールは外国の文化だ。ならば食べ方がわからないのでは? と。先においておいた箸にも手を持っていかないことから、箸の文化もないのだろう。


「失礼しました、少し食器を間違えましたね。どうぞ」

「これは申し訳ない、女将どの!」

「……ありがとう」

「いえ、あたしが間違えただけですから」


 流石に幼女に即席で箸を使えというのは難しい、ならばとカナは木の匙を渡したのだった。自分も木の匙に変える。すると、先ほどまで躊躇していたのが嘘みたいにおそるおそる肉豆腐を一口口に含むと目を見開いてがつがつと食べ始めたカナリア。

 その横で、お供が。


「美味で、美味でございます女将どの! この肉の柔らかさ! 豆腐にしみた汁の味! おにぎり? もまた焼き目がカリカリとして美味しゅうございます! このお供、感服いたしました!」

「……」


 食レポをしていた。それに対して、全くの同意とばかりに首をぶんぶん縦に振るカナリアにカナが、制止をかけながら空っぽになってしまった皿を見て。


「そうですか? ありがとうございます、ああカナリアさんそんなに首を振らなくても。わかりましたから! ところで、お代わり入ります?」

「いる」

「とカナリアは申しておりますが、お供はお腹いっぱいです」


 想像以上の即答で返ってきた。ちなみにお供はお腹いっぱいらしかった。

 驚くことに、それから焼きおにぎりを8つ食べ。肉豆腐を3杯お代わりし、だし巻き卵2本を平らげたカナリアはお腹いっぱいというように膨らんだお腹を撫でる。

 ご飯が間に合ってよかった、とにこにこしている内面で慄いていたカナは皿を下げ、洗っていた最中、ずっとカナリアが自分を見ていることに気づいていた。

 皿が洗い終わり。お供が腹を出して寝ているのをじっと見ながらカナリアは口を開いた。


「……カナリアは、お供を連れて軍から逃げてきた」

「そうですか、軍服、着てましたもんね」

「……お供は神獣、珍しいどころじゃない。実験台にしようとしてたから、一緒に逃げてきた。でもわからない、これが本当に正しかったのか。軍には従兄弟たちがいる」

「不遇な目にあってないか心配なんですね」

「……でも、お供も大事」


 ぽつりぽつりと話すカナリアはより幼く見えて、どうすればよかったのか、これでよかったのか。わからなくて、苦しくてそれをなんとか口に出すことで吐き出しているようにも見えた。


「他者を助けようとする心を、お供さんを助けた行動をあたしは『勇気』と呼ぶのだと思いますよ。だから勇気ある軍人さん、あなたは自分を誇るべきです」

「……自分を、誇る?」

「そう。あなたがいたから、お供さんは助かった。その事実を、勇気ある行動を、責められる謂れは断じてありません」

「……女将も、そう思う?」

「はい。どんな理由があれど、実験台にするなど断じてなりません。あなたは、お供さんを救ったんです。それだけが、事実で真実です。そして勇気あるひと、あなたは前に進むべきです」

「前……に」

「はい」


 ぱたぱたと、いつのまにかカナリアは泣いていた。従兄弟が心配でたまらない、軍に戻ったら折檻を受けるだろう、お供が無事でよかった、カナリアは「勇気」があるのか、何事にも価値を見出せないこの欠陥品と呼ばれたカナリアに、意味はあったのか。お供、お供だけが無感情な心に寄り添ってくれた。だから助けたかった。それだけでも、カナリアに意味はあったのだ。

 浴衣の袖で必死に涙を拭う幼い少女の頭を撫でながら、ただカナは。困ったように微笑んでいた。



 雨はあがった。

 洗濯してもらった軍服を着て、カナリアは店の外に立っていた。お供はカナの肩にいる。

 晴れた空を一度見上げてから、くるりと逢沢の方を振り返って。


「……お供、よろしく」

「はい、またいらっしゃるまで。お預かりいたしますね」

「カナリアご安心を! カナリアが来るまで女将どのはこのお供がお守りしますぞ!」

「……うん。女将、カナリアは、女将に会うために生まれてきた。……のだと思う。だから、また会いたい」

「ありがとうございます、いつでもいらしてください。あたしも、また会えたら嬉しいです」

「……絶対、また来る」


 カナが微笑みかけると、ゆっくりと綻んだカナリア面頬から見えた小さな口。足から順に、だんだん透けてくる。空気に解けるように光の粒子と変わる自身の身体に、カナリアは何も言わなかった。だからカナも何も言わずに、優しい目で見守っていることしかしなかった。


 そうしてカナリアがいたところは、まるで最初から何もなかったかのように。ただぬかるんだ地面があるだけだった。



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