第42話 状況終了!

「ハッ……クショイ! うー、なんだか鼻のムズムズが止まらん」


 野営訓練最後の夜、八雲は衛生科のテントの中で仕事をしていた。今のところ、離脱するほどの怪我をした隊員はいない。このまま無事に朝を迎えてくれればと思っていた。


「最後の夜ってアレだろう? 奇襲があるんだよなぁ。新人には知らされてない寝起きドッキリだとか言う者もいるが、あれは軽いトラウマだぞ」

「隊長、もろもろ準備は完了です」

「ご苦労さん。さて、最後の夜だ気を引き締めてな」

「はい!」


 山の夜は冷える。戦闘服の下には暖かインナーを着込んでいるのでそれほどもない。今は本当にいいものがある。薄くて暖かいなんて昔はなかった。


「自分、新人の時に手袋を水溜りに落としてしまいまして、その後の模擬戦闘で指が死んだかと思いましたよ」

「そりゃ災難だったな。濡れた手袋でやったんだろ? 想像しただけで色々とヤバいな」

「はい。手袋してないとめちゃくちゃドヤされるじゃないですか。拳銃も触らせてもらえないし、これで不合格なって、もう一回山に篭れってなる方が嫌だったんで」

「凍傷にならなかったのか?」

「幸いにも。でと終わった時に感覚がなくって、指失くしたって本気で思いましたよ」

「よかったな。全部揃ってて」

「マジでよかったです」


 手袋の予備を持って行けばよかった。しかし、新人にそんな気の利いた考えはない。毎日が精一杯で、与えられた数少ない官品の手入れさえもままならないのだから。


「あとから知ったんですよ。予備持ってくとか、内ポケットに食料隠し持っておくとか、靴下だけは金かけろとか? 訓練なのにけっこうお金とんでいきますよね」

「そうだよな。給料の低い若い時はしんどいだろうな。レンジャー訓練の時なんてほんと、バカにならなかったぞ」

「あー、聞いたことあります。合格するための備品てやつですね。支給されたやつはすぐにダメになるから、みんないいやつ買うんですよね」

「まあ、それだけじゃないんだよなぁ……」


 基本的に揃えなければならない物品が十数万円、消耗品に数万円は必要とされている。そして、激しい訓練に耐え抜くために身体が食を欲するのである。3食だけで足りるはずもなく、訓練後や就寝前に売店に行き獣のように貪り食べるのである。これが訓練期間中続くのだから、個人差はあるとはいえ数十万もの札が消えていく。


「東隊長も、苦労されたんですね」

「橋本、お前はもっと苦労しろ」

「あ、はい。すみません現代っ子で」

「まったく……」


 もう二度とごめんな思い出を振り返っている時だった。テントの外から通信科の久世が忍者の如く八雲たちの前に現れた。


「東隊長」

「どうした」


 いつもとは違う空気を纏った久世に、八雲は何かを察した様な顔で返事をした。


「今、伝えるべきか悩んだのですが」

「妻のことか」

「はい」

「かまわん。言ってくれ」

「まもなく分娩室に入られると、早川一佐からの伝言です」

「わかった。ありがとう。下がってよし」


 八雲は顔色ひとつ変えずにそういうと、またデスクに戻った。ふと、カレンダーに目をやる。

 予定日を明日に控えた日、ひよりはとうとう出産に挑む。八雲には祈ることしかできない。


 ひより、どうか無事で――


 それでも爪の色が変わるほどペンを強く握りしめた。何が起きても、明日の朝まで八雲は山を下りることはできないのだから。



 ◆



「お待たせ、四季さん。ひよりさんどう?」

「まだ間隔は30分くらいあると思う」

「そう。じゃあ今のうちに準備を進めましょう。四季さん、車はいつでも動かせるかしら」

「大丈夫だ。ガソリンも満タンだよ」

「ありがとう。ひよりさん、お手洗いとか水分補給、食事は痛みが治まっている時にすませましょう」

「はい」

「病院に電話できる? いまの状態を伝えるのよ」

「はい。今から電話します」

「オッケー。病院の指示に従って私たちも動くから、遠慮なしで教えてね」

「ありがとうございます」


 ひよりが病院に電話をしている間も、若菜さんは忙しく動いていた。バスタオル、ストローにクッション、冷蔵庫から飲み物、ゼリーや果物を取り出して手提げバッグに詰める。

 夫の安達はただそれを見て、うろうろと周囲を歩くだけだ。


「四季さん、これを車に乗せておいてください」

「了解した」


 何に使うのか分からないが、言われるがままに荷物を持って部屋を出た。


 その頃ひよりは、ようやく担当の助産師に連絡がついてこれからどうしたらよいか相談した。

 下腹の痛みは今はないが、またいつあの痛みがくるかと思うと不安でどうにかなりそうだった。

 そのことを告げると、入院の準備をして来院してよいと言われる。


「若菜さん。これから入院になります」

「そう! 分かったわ! わたしたちの準備は整ってるから、あとはひよりさんが動けるタイミングで行きましょう」

「はい」


 八雲不在で心細さと恐怖に苛まれそうになっていたひよりだが、若菜さんの母親の様な優しさに気持ちが落ち着いてきた。


「あなたー! 今から病院にゴーよ!」

「了解だ!」



 ◇



 入院手続きを済ませてから診察をした。医師の予測では生まれるまで早くともあと5、6時間はかかるだろうとのことだ。

 ひよりの陣痛の間隔は順調に短くなり、痛みが押し寄せるときは周りのことなんて考えられなくなっていた。


「いったぁ」

「ひよりさん、大丈夫か?」


 頼りにしていた若菜さんは必要なものを買ってくると売店に行ってしまった。残された安達は痛みに耐えるひよりを見てどうしたらよいのか分からないようだった。が、ひよりにもどうにもできない。


(痛い……安達さん、ごめんなさい)


 すると様子を見に来た助産師が安達に告げた。


「どんどん痛みが強くなりますから、腰のこの辺りを摩ったり、マッサージするみたいに押してあげてください」

「は、はいっ」」

「東さーん。この椅子に跨いでうつ伏せになってもいいからね。楽な態勢を探すのよ。がんばりましょう」


 ひよりは頷くだけで精一杯だ。安達は恐る恐るひよりの背中をさすりはじめた。それはもう例の額の傷が浮かび上がるほど恐ろしい顔で。


「お父さん? もう少し下がいいですよ。この辺、そうそう、そこ」

「えっ、あ、はい」

「ご主人は訓練に同行でしたね。連絡は難しいかしら。一応、早川先生に伝えておきましょう。あ、腰はここですよ、お父さん」

「お、おっ(お父さん……⁉︎)」


 父親に間違えられても否定できない安達。言われるがままにひよりの腰をひたすらにマッサージする。安達陸曹長、初めてのお産現場で大慌て。


「すみません……すみまっ、いたぁぁい」

「あああ、大丈夫かい。ここかな? こんなふうに押すのでいいのかい?」


 うんうんうん。ひよりは良くても悪くても取り敢えず頷いた。目も開けていられないが、安達が困っているからとにかく頷いておけ状態だ。背中から安達の戸惑いと不安がビシビシ伝わってくる。


「少し、おさまりました」

「そうか。ならば、今のうちに飯だ」


 安達は妻から言われていた。痛みが引いた時におにぎりを食べさせるのだと。出産は体力勝負、そうレンジャーと同じなのだ。


「ひよりさん、お待たせ。長丁場になるから色々買ってきたわよ。あら、あなたサマになってるじゃない。さすが看護官さんね」


 ようやく若菜さんが戻ってきて、待機室のひよりと安達は少しだけ気を休めることができた。



 ◇



 思っていたよりも長丁場だった。5、6時間どころではなかったのだ。日が暮れ夜もふけ、とうとう夜が明けるというころに、休む暇がないくらいの陣痛が襲ってきた。安達もひよりもグッタリである。


 ようやく担当医の早川がやってきて、もう一度ひよりを診察した。


「ひよりさん、そろそろ分娩台に移動しようか」

「は、いっ」

「ごめんね、歩いて移動なんだよ。大丈夫かな? 東から見られたらドヤされそうだけど、妊婦さん全員がそうしているんだ。すぐそこだけど、無理なら僕が抱えていくよ?」


 この医官も無駄にガタイがいい。ひよりくらい簡単に担いでいけそうだ。確かにここに東がいたら、俺が連れていくと大騒ぎだったろう。


「大丈夫です。わたし、歩けます」

「よし。じゃあ、向こうで待ってるから看護士と一緒に来てね」


 歩いて移動とは言っても、ほんの数歩の距離に分娩室がある。ひよりは次の陣痛が来る前にと体を起こした。


「なんなら自分がひよりさんをっ」

「あなた」

「すっ、すまん」


 安達も東と同じ類の人間の様だ。やんわりと若菜さんに制されて、上げかけた腰を静かに下ろした。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。ここで、待ってるから」

「はい」


 安達夫妻に見送られて、ひよりは分娩室に入った。


(八雲さん! 今から赤ちゃん、産んできます!)



 ◇



 もう何度、ヒッヒッフーを繰り返しただろうか。いい加減に息が続かない。意識が朦朧とし始めた頃だった。


「先生こちらです! このガウンを着て、消毒は」

「シャワーはダッシュで浴びたし、全身消毒かけてきた問題ない! はやかわぁぁ! 貴様がなんでその位置にいるっ。助産師の場所だろうがー」

「俺は産科医だ! 貴様に文句言われる所以はないっ。おい待て、こっちにくるんじゃないよ!」

「ちょっと先生方! いい加減にぃぃ!」


 ひよりの体力がそろそろ底をつきそうになった頃、足元が何やら騒がしい。落ちそうな瞼をなんとか開けると、大きな影が迫ってきた。


(えっ、なに⁉︎)


「ひより! 赤ん坊の頭が出てきたぞ。あと少しだ、がんばれ」

「八雲、さん?」


 現れた大きな影はなんと手術衣を着た夫であった。ひよりの手を両手で包み込む様に握っている。


「ここまでよく一人でがんばったね。あとは二人でがんばろう。さあ、息を吐いて。できるよね? フー、フー」


 ひよりはもう泣きそうだった。八雲の大きな手に包まれただけで安心して涙腺が緩んでくる。でもまだ終わってはいない。最後の大仕事が残っているから。


「ひよりさーん。赤ちゃんがんばってるよ! 大きく吐いて、フーフー」

「フゥゥー、フゥゥー」

「上手! 上手! さあ、赤ちゃん出るよー」

「早川! おまえは覗きこむんじゃい」

「煩いなっ、誰だよこいつを入れたのは!」

「縫合、痕が残らんようにやれよ!」

「俺をなんだと思ってるんだよ、脳筋医官がっ」

「脳筋産科医に言われたくないね」


 ひよりの頭の上から八雲の怒号と、足元から返ってくる早川医官の怒号は何が何だか訳がわからない。


「生まれるよー」


 ―― ンギャ……ンギャ…オギャーオギャー!


(はぁぁぁー、生まれたぁぁ)


「ひより! ひより! よくやった! よくやったぞ!」

「東! おめでとう!」

「ありがとう……う、うぅっ。デベソにならん様にキレイに切れよ」

「おまっ……最後までうぜぇ」


 丸っとふくよかな可愛い女の赤ちゃんが生まれました。



 ☆☆



 精魂尽き果てたひよりが分娩室から出てくると、思わぬ面々が廊下に並んでいた。


「ひよりさんっ、おめでとうございます」

「隊長ぅ、ひよりさん。おめでとうござ…うぉぉぉ」

「おめでとう」

「おめでとうございます」


 安達夫妻の他に、通信科の久世、衛生科の橋本二曹他数名が、ジャージ姿で出迎えてくれた。なぜ、ジャージ姿かというと……。


『状況終了!!!!!』


『隊長! ダッシュで戻りますよ! 駐屯地のシャワールーム確保してます。早く! 今からでも間に合います!』

『ぬぉぉぉぉおおおお!』


 なぜか東率いる衛生班は、通信班の久世一尉の運転するトラックに飛び乗り駐屯地に帰還。

 久世はその間、どこかと通信を継続中で『おくれ!』『おくれ!』の連呼である。


 速攻でシャワーを浴びて、与えられた連隊のジャージを着て再び駐屯地を飛び出した。今度は東の私有車にてみんなで自衛隊病院へ。勿論、法定速度を守らねばならないが、幸い夜明けで車は少なく信号も奇跡的に引っかからずに無事到着。

 医官である東は特権を振り回し、もとい! 活用して、術衣に着替えて分娩室へ。という流れである。


 みな、一睡もしていない。


「ひより、君のお父さんとお母さんは昼過ぎには来るそうだよ。それまでゆっくり眠りなさい」

「うん。八雲さん、ありがとう…zzz」

「うんうん。本当によくがんばったね。ありがとう、ありがとう。ひよ、り……zzz」


 夫婦で撃沈したのはいうまでもない。

 そして、廊下の待合室では野郎どもが散らばる様に撃沈。


「おいおいおい、ここは野戦病院じゃないんだぞっ」


 早川医官の呆れた声が廊下に響いたとか。


 たくさんの仲間たちに見守られ、この世に生を受けた可愛い女の子。

 名を、東八恵あずまやえと言う。


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ヤクザに医官はおりません 佐伯瑠璃(ユーリ) @yuri_fukucho_love

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