第41話 そろそろかも?

「いいかい? ひより、一人で散歩や買い物に行かないこと。僕がいない時は」

「大丈夫だよ。若菜さんと一緒に行くから。それに、もう遠くには行かない。お腹が重くてムリだもん」


 八雲さんは毎日こうしてわたしに行動確認をしてくる。担当医からも一人での外出は注意するように言われている。でも、適度に体は動かさないといけないらしい。


「それにしてもあと数日で予定日だろ? それなのになんということだ……」

「初産は予定日を過ぎる人が多いって。まだね、ぜんぜんそんな感じないの。きっと、八雲さんの帰りを待っててくれるよ」

「だが、何が起こるかわからんだろう?」

「それはそうだけど」

「まったく僕の仕事はどうしてこんな大事なときに」


 珍しく八雲さんがぐちぐち言っている。理由は、恒例の野営訓練に行かなければならないから。自分の不在時にわたしのお産が始まるんじゃないかと心配しているの。

 そりゃ、わたしだって不安だよ。いつもそばで支えてくれる、何でも受け止めてくれる八雲さんが出産予定日まで家を開けるなんて。でも、彼は自衛官だもの。どんな時も国民のために職務を全うしなければならないの。十分理解しているわ。

 なのに、その本人が……


「ダメだ……僕は身重のひよりを置いて仕事に行けそうもない。僕は今から具合が悪くなるよ」

「八雲さん?」

「うん?」


 こんな我儘を言うなんて、嬉しいけれど自衛官の妻としては許してはいけないこと。


「わたしは、どんな時も国民の命を守るために働く八雲さんが大好きなの。寂しくっても、不安でも、それ以上に医官である、あなたを誇りに思っています。だから、そんなこと言わないで」


 わたしはそう言いながら、八雲さんの手を握った。そしてその手をパンパンに膨らんだお腹に乗せる。すると、八雲さんは目尻を下げて困ったように微笑みかけてくれた。


「敵わないな。本当にひよりには負けるよ。同時に少し寂しいな」

「えっ、どうして寂しいの」

「ひよりが立派な自衛官の妻になってしまったからさ」

「うん? よく、分からない」

「感謝しているんだ。今回だけじゃない、これからもこんなふうに一人にしてしまうことがたくさんあると思うんだ。それでもひよりはこうやって、僕の背中を押してくれるんだろうね」

「これからは一人じゃないよ? この子と二人で八雲さんの帰りを待ってるから」


 わたしは八雲さんにそっと抱きついた。


「ひより」

「八雲さん」


 不安だけど楽しみの方が大きいよ。

 だから、八雲さんは胸を張って頑張ってね。


「あぁ……それでも行きたくないものは行きたくない」


 行きたくない。

 そう言いながらも、着替えのセットを圧縮袋に入れて空気を抜いてクルクル巻いて背嚢リュックにしまう。あまりにもの手際の良さに感心してしまう。言ってることと、やってる事のギャップが少し笑えてくる。


「もう、八雲さんたらっ」

「なんだい?」

「あはは」


 もうすぐわたしは母になり、八雲さんは父になる。それが目の前まで迫っているのに、まだまだふんわりとした感覚だった。


「行ってくるよ」

「いってらっしゃい。待ってるから、元気な姿で帰ってきてね」

「ああ、もちろんだよ」


 八雲さんは毎日出かける前に玄関でわたしを抱きしめてくれる。そして、お腹を撫でながら「いい子にしているんだよ」と、お腹の赤ちゃんにも囁くの。

 でも今日は離れ難いのか、いつもよりその儀式が長い。


「父さんが帰るまでママを困らせてはいけないよ? いい子だから、分かるよね。待っていてね」

「八雲さん、時間大丈夫?」

「大丈夫じゃなくても大丈夫だよ」

「うふふ。困ったお父さんになりそう」

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 そして、いつもよりも長めのキスをわたしにくれた。それに気づいたかどうかは分からないけど、お腹の子が応えるようにポコンと突き上げる。その瞬間、ズンっと重心が下に下がった気がした。


「あっ」

「ひより今、蹴ったよね」

「うん。早く会いたいって言ってるのかも」

「いつもより強かったけど、大丈夫かい?」

「うん、大丈夫だよ。いってらっしゃい」


 玄関で八雲さんを送り出して、ベランダから出て行く車を見送った。ふとお腹に目を向けて撫でると、やっぱりいつもよりも下に居る気がする。


「パパが帰ってくるまで、一緒に待っていようね」


 若菜さんが言っていた。生まれる前兆の一つとして、赤ちゃんが降りてくるって。胃を押し上げていたものが和らぐので、ご飯を食べても苦しくなくなるそうだ。


「入院セットのチェックしておこうかな。あと、赤ちゃんの産衣とおくるみも」


 もうすぐその時がくるんだと思うと、さすがのわたしも緊張してきた。

 今まで以上にゆっくりと家事をこなし、八雲さんの居ない寂しさを紛らすようにいろいろな準備をした。



 ◇



 八雲さんの不在中も特に問題はなかった。明日には帰ってくるので、少しお買い物に行きたい。夕ご飯は何がいいかなぁ。


『一人で出かけないこと』


 八雲さんと主治医の早川先生から言われていることが脳内でこだました。


「若菜さん、今日はあいてるかなぁ。なんだかいつも若菜さんに頼っちゃって申し訳ないよ。でも、何かあったら逆に迷惑かけちゃうし。あとでいっぱいお返ししたらいいよね!」


 若菜さんに連絡をしたらお昼も一緒に食べましょうと誘ってもらったので、甘えることにした。今日はスイーツ大好きなご主人もいらっしゃるらしい。安達家はいつ行っても居心地がいいの。若菜さんとご主人の空気感がとても柔らかくて、つい長居してしまう。

 わたしも八雲さんと、そんな家庭を作って行きたいな。


 わたしは出掛ける準備をして、若菜さんの家に向かった。と言っても、一階下に降りるだけなんだけどね。



 ◇



「おじゃまします」

「いらっしゃい。さあ、入って。今日は四季さんがスーパー付き合ってくれるって。車だから重たい物もオッケーよ」

「いいんですか? 助かります」


 リビングにお邪魔するとソファーに座っていた安達さんがわざわざ立ち上がり、わたしを迎えてくれた。


「いらっしゃい。お腹、ずいぶんと大きくなりましたね」

「はい。明日が予定日なんです」

「こんな時に隊長を出動させて申し訳ない。今回は医官も同行でね、わたしには代わる資格がなくて」

「そんな、気にしないでください。これが彼の仕事ですから。それに、こういう時にわたし自衛官の妻だなって思えて誇らしいんです」

「そうですか。なんとも逞しくなりましたな」

「皆さんのおかげです。わたし、たくさん助けてもらいました。少しずつお返しできたらいいなって、いつも思っています」

「ひよりさんが楽しく過ごすことが、我々へのお返しなんですよ。さあ、座って」

「ありがとうございます」


 そう、本当にわたしはたくさんの人に助けられている。八雲さんと結婚して、このマンションで暮らすことになってからは特に。それは安達夫妻だけではない。八雲さんとは職種の違う通信の方や、普通科の方、気象の方、本当に信じられないくらいわたしは自衛官の力に守られている。

 きっとそれは、八雲さんや安達さんのおかげなのだ。彼らの人望がそうさせている。八雲さんはわたしが気づいていないと思っているけれど、わたしは知っています。さりげなくわたしの側で彼らが見守っていてくれていることを。でも気づかないふりをしている。

 わたしはいつか、彼らの優しさや強さを多くの人に知って欲しいと思っている。

 わたしだけじゃない。ほとんどの国民が気づかない、知らないところで自衛隊は機能し、この国を守ってくれているってこと。事故や不祥事を大きく取り上げてしまいがちだけれど、いつも大変な時に助けてくれる人たちに、ありがとうの感謝の気持ちを常に持って欲しいから。

 八雲さんに出会って、家族になって初めて分かったことがある。自分や家族を犠牲にして国を守る自衛隊を守るのは、わたしたち国民なんだって。

 片想いでは成立しない。いつも私たちは公平な両想いでいたい。


 わたしはお腹を撫でながら、心の中でこう言った。


 日本も含め、世界には理不尽な争いや考えられない不平等がたくさんあるの。あなたのパパはね、日本人だけじゃなく、世界の平和のためにも働く人なのよ。

 早く会いたいでしょう? とても素敵な人なの。

 今度はわたしとあなたで、パパを守ろうね。


「うん? ……痛っ」


 突然、今まで感じたことのないお腹の締め付けと痛みが始まった。


(待って! もしかして、生まれる⁉︎)


「ひよりさん。お昼ご飯、炊き込みご飯でいいかしら。ひよりさん?」

「若菜さん、ちょっと痛くなってきました」

「あら、もしかして陣痛⁉︎ あなた、生まれるかも」

「生まれる? なんだって!」

「すみません。これ生まれる痛みなのか、わらなっ……いたたた」

「横になりましょう。あなた、時間見てて。ひよりさんの痛みの間隔を計るの」

「あ、ああ分かった」

「ひよりさん、お部屋の鍵を借りるわね。念のため入院バック持ってきておきましょう。東さん帰ってくるまで我が家に待機ね」

「若菜さん、でも」

「返事はハイ、でしょう?」

「はい」

「あなた宜しくね」

「うむ」


 どうしよう。

 これって、本物の陣痛なのかな⁉︎



 部屋に鬼の形相をした安達と、初めて痛みの波を迎えるひより。頼りの若菜はひよりの荷物をとりに部屋を出た。


「ひよりさん、大丈夫だからね」

「は、い。いっ……たぁ」

「痛い、痛いか? どこが……いや、腹か。み、水をっ……飲むか?」


 屈強な自衛官の看護官を務める安達だが、お産が迫る人を看護したことはない。実は最愛の妻の出産も出動中で状況を知らないのである。

 強面の顔が心配と不安でガチガチに固まる。


(若菜はまだか!)


 何度玄関の方を振り返ったことか。


「あの、治りました」

「へっ、ああ。治った。それは、よかった。いや、よかったなのか、分からん……」


 それでも言われたことは忘れていない。

 ここから次の痛みが始まるまでの時間を計らねばならぬということを。


「すみません。驚かせて」

「いや、気にしなくていい。隊長が戻るまで、私たちがついていますから」

「心強いです」

「うむ」


 東が戻るのは早くとも明日の昼頃。

 安達陸曹長、それまでひよりを守れるのか‼︎

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