第40話 産休に入りました!

 あれからひよりのマタニティーライフは順調だった。つわりが終わるとあの苦しみはなんだったのかと、夢でも見ていたのかと思うほど何ともなくなった。

 それと引き換えに食欲が襲ってきた。それを知ってか検診時に助産師から体重のコントロールをやんわりと告げられる。


「次回の検診まで増やしていいのは、500グラムですからね。おやつは控えめに。これからは赤ちゃんのための食事をしましょう。お母さんが食べたものが栄養素になります。糖分、塩分は気をつけて。妊婦は糖尿病や高血圧症になりやすいですからね」

「はい、気をつけます」

「出産まで、一緒に頑張りましょうね!」

「はい!」


 まさかグラム単位で言われるとは思わなかった。

 助産師は母体管理に厳しいが、全ては母体と胎児の健康を守るためである。しかしそれを待合室で待つ夫の八雲に報告すると渋い顔をするのだ。


「ひよりは全然太ってないんだ。むしろ痩せている方だよ。腕も足も、腰もこんなに細くて赤ちゃん産むのは大変だろうに」


 そんな夫にひよりはそっとよりかかる。大きくなったお腹を撫でながらこう言った。


「八雲さんの美味しいご飯のおかげで、私もこの子も健康でいられるの。いつも助けてくれてありがとう」

「ひより……。僕はもっと君たちの力になれるようにがんばるよ。僕の方こそいつもありがとう」


 夫を宥めるのもずいぶんと上手になったものである。



 ひよりはお腹が大きくなると、これまで何とも思っていなかったことが困難になることを知った。

 例えば階段を降りるときはお腹の出っ張りで足元が見えないので、手すりを持ってゆっくりと降りなければならないということ。また靴下や靴を履く仕草さえもうまく行かないことにショックを受けた。お腹がつっかえて屈むことができないので、ゴミを拾うことにも一苦労。歩くのだって、足をまっすぐ前に出せないなんて誰が思うだろう。

 月日が進むごとに身体は思い通りに動かなくなったのだ。だから時々イライラしてしまう。


「ひより? そろそろ出ないといけないんじゃないか」

「うん、分かってるよ」


 身重な体での通勤もそろそろ限界かもしれない。でも、みんな頑張っているんだから自分だけ甘えていられない。お腹の中では我が子が元気に動いて、時々痛みを感じるほど蹴るようになった。


「ひより? 支度、手伝おうか?」

「大丈夫。できるよ……できるのにぃ。う、うぇぇん」


 泣きたくないのに涙が溢れてくることもあった。


「ひより。すまない。急がなくていいんだ。ごめんな?」

「違うの。違うよ。八雲さんは謝らないでよ。あーん、涙が止まらない」

「ああ、ひより。いい子だ。おいで」

「うう……ごめんね、ごめんなさい」

「いいんだよ。大丈夫だから」


 そんな時、八雲はそっとひよりを抱きしめてやる。背中を優しくさすって、ひよりが落ち着くまでじっと待った。朝の時間がない時でも、八雲はそうしていた。ひよりにとっては初めての妊娠、そして間もなくやってくる出産は大きな希望と不安との攻めぎあいなのだから。


「わたし、有給休暇いっぱいあるから前倒しで産休に入ろうかな」

「そうだね。そうしたほうがいいな」

「うん。そうする。あ、時間過ぎてる。八雲さん、ごめんね遅刻しちゃう!」

「大丈夫だよ。ひよりは気にしないでいい。十分に間に合うから」

「本当?」

「ああ。駅まで車で送るから一緒に出よう」

「うん」


 八雲が勤務する駐屯地は車ならすぐだ。こういうことを見越して、八雲は車通勤に変えたのだ。許される限りは、妻に寄り添いたいと思っていた。

 なぜならばいざ、という時に一緒にいられるかわからないからだ。自衛官とはそういうものなのだ。



 ◇



 それから1週間ほどして、ひよりは無事に産休にはいった。産休が明けるとそのまま育児休暇に入るので約一年半は会社ともおさらばだ。

 みんなから頑張ってと励まされ、大きな花束を抱えて会社を後にした。


 会社を出ると、外はいつもとは違って見えた。明日からは家庭に入り出産に向けて備えるのかと思うと、今朝まで見えていた景色が、急に柔らかな色に変わっていく。全ての時間を、お腹の子どもと愛する夫のために使えるのだと思うと、心が急に凪いでいった。

 時間に追われ、思うように動けない自分への苛立ちは、この瞬間からなくなった。

 もらった花束の色は鮮やかで優しい匂いがした。ひよりは穏やかな表情と、清々しい気持ちで駅の改札を通り抜けた。



「ひよりさん」


 自宅近くの駅で降りると、前方から手を振りながら安達夫人の若菜さんが駆け寄ってきた。


「若菜さん。お出かけですか?」

「これから帰るところよ。あら、綺麗なお花ね」

「はい。明日から産休なんです」

「まあ! いよいよね」

「はい。なんだか緊張しちゃいます」

「大丈夫よ。うちのマンションは医官に看護官に通信の得意なすばしっこい子たちがいるから。いざという時はみんなで助けるわよ」

「あはは。とても心強いです」


 若菜さんに大丈夫だと言われると、なんだか本当に大丈夫のような気がするから不思議だ。


「ほら、あそこ見て。早上がりの若手自衛官がいるわよ」

「あ、久我さんたちだ」


 自衛官の勤務体制は様々だ。駐屯地は24時間稼働しており、部隊ごとに特別勤務が定められている。日勤を終えた後、そのまま当直勤務に入り翌朝ようやく帰宅する。駐屯地内の見回りをして侵入者を未然に防いだり、火災予防をしたりと忙しいそうだ。

 また、有事は時間を問わずやってくるのでそれの対応もしなければならない。駐屯地は国民のために夜も眠らずに稼働しているのである。


「安達さん、東さん。お疲れ様ですぅ」

「あら、眠そうね。もうお昼過ぎてるけど、今お帰り?」

「当直明けなのにじっとしていられなくて、ひとっ走りしてしまいました」

「え、すごい」

「あ、もし買い物とかあるなら付き合いますよ。荷物待ちに使ってください」

「頼もしいわね。じゃあひよりさん、甘えましょう?」

「えっ、でも」

「大丈夫ですよ。むしろ暇なんで使ってください」

「じゃあ、お願いします」

「了解でーすっ」


 本当は今朝、安達陸曹長に声をかけられたのだ。もしかしたら、東夫人が早く帰宅するかもしれないと。そのあたりの連携は今も継続中であった。

 若菜がタイミングよく現れたのもきっと、そういうことなのだ。一人で頑張ろうとするひよりだからこそ、助けてやりたいと思うのだろう。



 ◇



「ただいま」

「お帰りなさい。ご飯できてるよ」

「いい匂いだなぁ。急に腹の虫が鳴ったよ。おや? 綺麗な花だね」

「今日ね、会社の皆さんがくれたの。元気な赤ちゃん産むんだよって」

「よかったね、ひより。みんなから応援してもらって」

「はい。とても感謝しています」

「さて、僕も今日まで大きなお腹で頑張ったひよりを褒めないとね。なのに帰宅が遅くなってひよりに夕飯を一人で作らせてしまった」

「そんなこと言わないで、八雲さんはいつも褒めてくれてるじゃない」

「いいや。ぜんぜん足りてないよ」

「さあさあ、とりあえず着替えてご飯を食べましょう。お着替え手伝いましょうか」

「うむ。それも悪くないか。ではお願いしようか、ひよりさん」

「はいっ……えっ」


 久しぶりに色気のある八雲の声に、ひよりははっとした。忘れかけていたが、我が夫はとんでもない色気の持ち主なのである。


 クローゼットに背を向けて、なぜか八雲は満面の笑みを浮かべながら両手を広げている。ジャケットはすでに脱いでいた。

 そんな八雲にひよりは恐る恐ると近づいた。すると八雲は軽く腰をかがめてネクタイの結び目をひよりに突き出した。八雲の目が解いてくれと言っている。


「じゃあ、ネクタイ外しますね」

「うん」


 ひよりがちらりと上目遣いで八雲の顔を確かめた。きっとそれが不味かったのだ。目尻を下げた八雲の顔を認めた直後、ひよりの視界は暗転した。


「んっ……ふ、んん」


 何とひよりはネクタイの結び目に指をかけたまま、八雲に抱きすくめられていた。それだけではない。ひよりの小さな唇は塞がれて、甘い吐息が寝室一帯に広がる始末。


「八雲さっ……ぁ」

「ごめんごめん。苦しかったかい? ひよりがいけないんだよ。あんなかわいい顔して」

「わたし、そんな顔してないです」

「お腹、大丈夫? おや?」

「あっ」


 ぽこんとお腹の内側から反応があった。私は大丈夫よ! 元気だよ! と返事をする様に。


「今、蹴ったのかな?」

「珍しいかも。この時間はいつも大人しいのに」

「なるほど。もう少し試してみようか」

「何を試してっ……あ、んっ」


 ぽこぽこ……ポコっ!


「ひより、いま連打したよ!」

「う、うん」

「ひよりを可愛がると、お腹の子も喜ぶんだよ」

「そうなの?」

「いいかい?」

「やっ、待って。」


 八雲は身重なひよりをベッドに座らせた、そして自分も隣に座る。何をされるのかとドキドキするひよりをよそに、八雲は手のひらをひよりのお腹に当てた。


「僕たちの可愛い子ちゃん。ママによしよししてもいいかな?」

「八雲さんてばなに言ってるの?」


 すゆと、さっきとは違った力強い返事がお腹から返ってきた。


「おお! すごいよひより。僕の言葉を理解している。ひよりに似た賢い子が生まれるぞ」

「八雲さんてばー。恥ずかしいこと言わないで」

「ママにたくさんキスをしてもいいかな?」


 またもや力強い蹴り? が返って来た。


「きゃっ」

「ほうら。いいよと言っている」

「ねえ、八雲さんがキスしたいだけなんじゃないんですか」

「うん? バレたか」

「ほらぁ」

「ひよりは嫌だった?」

「むぅ……嫌じゃないって、知ってるくせに」

「ひより、素直になりなさい」


 ひよりは恥ずかしさのあまりに俯いた。こんな自分でも夫はキスをしたいと言ってくれる。それが嬉しくてたまらなかった。

 夜の生活は体を気遣ってか、妊娠が分かってからは控えていた。だから体調が良い時はひよりだって八雲を求めてしまうのだ。


「……キス、して欲しいです。たくさんください」

「喜んで」


 今日までご苦労様。明日からもよろしくと八雲の優しくて甘く蕩けるようなキスが降ってくる。

 鼻先に、頬に、首筋に、耳に……本当にたくさんの好きを八雲はひよりにくれる。


「ねえ、八雲さん」

「うん?」

「今度は、わたしから」

「なんということだ……」


 医官さん、忍耐を試される。

 夕御飯はまだまだ後回しになりそうだ。

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