第39話 ミッション、コンプリート!

 時間と経過と共にひよりのつわりも落ち着いて、仕事を休む日も減ってきた。また有難いことに、総務部長からの提案でフレックス勤務に切り替えた。

 とはいえ、以前と同じようにとはいかない。

 疲れやすかったり、足が異常にむくんだり、なんとなく気分がすぐれない日もある。

 そしてなによりも、情緒コントロールが難しい。

 自分一人だけの身体ではない、大事な命を宿しているという責任の重さがひよりを追い詰めることもあった。


「ひよりは相変わらず朝がしんどそうだね。血圧、測ってみようか」

「低血圧になってるのかな」

「どれ……うーん、これだと朝がしんどいな。少し低いよ。それにもしかしたら貧血なんじゃないか」

「貧血?」

「うん。少し、食事内容を考える時期かもしれないね。最近はダメな料理減ってきたよね」

「ほとんど大丈夫になったかも」

「薬には頼りたくないが、数値が低いなら処方してもらった方がいいだろうな。次の検診はいつだっけ?」

「2週間後のこの日。えっと、10時から」

「なるほど。その日は休みもらうかな」

「大丈夫なの?」

「うん。有給休暇はたくさん残っているからね」

「ありがとう」


 八雲といる時は安心感からくるものなのだろうか、身体が正直に症状を訴えてくる。八雲の落ち着いた声を聞くと、心も体も甘えてしまっていけない。


「あっ、洗濯終わるころだ。干さないと」


 洗濯は出勤前に終わるようにタイマーをセットしている。最近の洗濯機ときたら、音は静かだし洗剤は自動で投入してくれる。節電節水に優れた今や欠かせない優秀な家電である。


「いいよ、僕がやるから。時間までゆっくりしていなさい」

「でも、いつもやってもらってばかり」

「できる人がやったらいいんだよ」

「できるのに……ううん。やらなきゃいけないの」

「そんな風に考えてはいけないよ。さ、もう少し横になっておいで」


 八雲はひよりの頭をぽんぽんと優しく撫でると、寝室を出て行ってしまった。妊娠が分かってから家のことはほとんど八雲がやっている。

 駐屯地の朝は早いのに、今までよりも早く起きて洗濯をして、朝食を作ってくれる。

 ひよりが仕事に復帰すると、お弁当まで準備してくれるようになった。これでは八雲の負担が増すばかりである。


(フレックスのわたしの方が、時間いっぱいあるのに……こんなんじゃ、いいお母さんになれないよ)


 ひよりはまだまだ膨らみの少ないお腹を撫でながら、ため息をついた。


「はぁ……これくらいで情けない」


 つわりが落ち着くと、今度は落ち込む時間が増えてきた。


「ひより、今日は少し遅くなりそうなんだ。夕飯だけどね、冷蔵庫に作ったものがあるから温め直して先に食べておいてくれないか」

「何時になるの?」

「9時くらいには帰れると思うなな」

「待ってるよ」

「いや、先に食べていいよ。遅い夕飯は体によろしくない」

「うん……分かりました」

「じゃあ、先に行くよ」

「いってらっしゃい」


 7時半、八雲は家を出た。ひよりは朝のラッシュが落ち着いた頃、9時過ぎに家を出る。帰りも帰宅ラッシュを避けて1時間早く退社する。帰宅後に1時間程度テレワークをすればよいことになっていた。


(八雲さんたら甘やかし過ぎ……違う。わたしが甘え過ぎてるんだ)


 妊婦検診ではいろいろな事情を抱えた人がやってくる。夫が単身赴任中の人、頼れる人が近くにおらず小さな子どもを抱えてやってくる人、入院をすすめられてもギリギリまで頑張る人。ひよりはそういう人たちを見ていると、自分が置かれている環境に感謝しつつも、これではダメだという気持ちになるのである。



 ◇



 ―― 駐屯地では


「橋本二曹、東隊長出張になってるじゃないですか」

「それがどうした河本三曹」

「どう考えても帰宅は夜9時ぐらいですよね」

「あ……やばいな」

「ですよね!」

「こうなったら、あの方に連絡をするしかないだろうな」

「ああそうですね。あの方ならば守ってくれる」

「よし、これよりアプローチを試みる」

「了解です」


 安達陸曹長でもよかったが、きっといらぬ世話をするなと叱られる。だけど部下としては放って置けない案件だ。帰宅の遅い隊長に代わって、守らなければならないものがある。それなのに彼らは自由のきかない独身営内者。


「ミセスの現着は何時だ」

「0515には最寄駅に」

「早いな……」

「厳しそうですか」

「まあ、なんとかなるだろ。そうだ! 俺の同期が駅で広報するって言っていたな。そいつと、演習帰りの二班にこの件の協力をあおごう」

「あざっす!」


 隊を超えて、隊長夫人(妊婦)の帰宅をサポートをするのだ。しかも、忍者の如く気づかれないように護衛しなければならない。自衛隊が本当に民間人を守ることができるのか⁉︎ まさに今、試されている!


「なんだか、燃えてきたな」


 この特殊作戦は密かに開始された。



 ◇



「どうぞご自由にご覧ください。ご興味のある方はあちらのブースで現役自衛官がなんでもお答えします。どうぞ。ありがとうございます」


 仕事を終えたひよりが駅の改札を通ると、制服姿の自衛官が自衛官募集のパンフレットを配っていた。

 時刻は4時半を過ぎた頃で、ちょうど授業を終えた学生たちが帰宅する時間帯でもあった。

 ひよりは自衛隊地方協力本部の旗を横目に駅の外に出た。今日はいつもより早く上がれたのだ。仕事のキリもいいところだったのもあるが、上司が出張で不在のため早い退勤を許された。


 近ごろのひよりは、ゆったりとしたチュニックに厚手のレギンスを穿いてお腹周りを冷やさないようにしている。靴もローヒールの軽い素材でできたショートブーツ。ジャケットを羽織り首にはストールを巻いていた。両手が空くようにとバッグはリュックになるタイプのものだ。

 このスタイルは何を隠そう夫である八雲の見立てだ。レギンスに関してはお腹の膨らみに合わせてウエストを自由に変えられるものである。

 会社に勤める以上は身だしなみには気を使う必要があるからだ。ひよりは八雲のアドバイスを喜んで受け入れた。


「さて、と。スーパーに寄ってみようかな。久しぶりに何か作ってみよう」


 日が暮れるまでまだ時間がある。ひよりはスーパーに向かって大きく一歩を踏み出した。


 ◆◆


『こちら駅前広報官から同期久我へ。ミセスは12時の方向へ移動おくれ』

『久我、了解』


 なにやらひよりの後方で謎の通話が始まった。爽やかな笑みを浮かべた広報官の襟に隠された通信機器に気づく者はいまい。

 連絡を受けた通信科の久我一尉は腕時計を睨んだ。予定より30分も早い。駐屯地勤務で営外者の久我もさすがに課業終了前に門を出ることは許されない。

 久我は連絡用に使うアプリを開いた。


 ―― 現在地は

 ―― 現在地、駅東に差し掛かる

 ―― ミセス、そっちに向かったらしい

 ―― 了解。確認する


 しばらくして、演習帰りの通信科二班の隊員から連絡が入った。


 ―― ミセス確認。ブラウンのジャケットにグレーのストールで、スーパー並木に入った。我々は只今より駐屯地に戻る。

 ―― 了解。


 演習に出ていた通信二班のトラックが駅を通過した。なぜかいつもは通らない東側を回りながりだ。


(5時になったら速攻で着替えて、ダッシュだな。15分で駅前てとこか……)


 ◆◆



 それにしても今日はいつもより自衛官を見かけた。駐屯地に近いので珍しいことではないが、この辺りを自衛隊のトラックが走るのは初めてだ。


(八雲さんも、トラックで移動したりするのかなぁ)


 スーパーにやってきたひよりはカゴを腕にかけた。カートに乗せても良かったが、手で持つことにしたのはつい買い込んで自分で持てなくなるのを防ぐためだ。


「大体のものはあるから……あ、牛乳。鉄分葉酸入りなんてあるんだ。しかも低脂肪。買おう」


 食欲が戻ってきたひよりが最初に気にしたことは、栄養素とカロリーだった。食べたいだけ食べなさいという時代は過去の話で、今や妊婦の体重管理は当たり前になっている。妊婦の高血圧、糖尿病が増加しておりそれだけ食が豊かすぎるのだろう。


「果物って、よかったっけ。糖分取り過ぎかなぁ……うーん」


 考えれば考えるほど、何がよくて何が悪いのか分からなくなる。食べたい、でも太ってはいけない。食べたい、でも栄養素が偏ってはならない。


「一人でスーパーに来るの危険だわ。誘惑が多すぎる」


 とにかく必要最低限に抑えることに努めた。それでも気づけばエコバッグいっぱいになってしまった。

 原因は隣のドラッグストアに入ってしまったことだ。ボディクリームや化粧水に衛生用品、まだ残っているのに買ってしまった。

 女性が使うものを八雲に頼むのが忍びないという理由もあった。夫の八雲は言えばきっと生理用品ですら買ってくる人なのだ。


「でも重いものはあまりないから、よかった。これならぜんぜん持てる」


 ひよりはエコバッグを肩にかけて、家路についた。

 お店から出るころには外は薄暗くなり始めていた。こんな時は大通りを歩きなさいと八雲から言われている。

 まだ結婚する前の話だが、コンビニからの帰り道に若い男性に揶揄われたことがあった。


(ちょうど帰宅ラッシュだから駅前通りを帰ればいいのよ)


 ひよりは街灯もあり、人通りも車の通りも多い駅前の通りを歩いた。家に向かうサラリーマンもちらほら見え始める。

 するとその時、後ろから駆け足のような音が耳に届いた。それはどんどん近づいて、とうとうひよりの後方で止まり徒歩に変わった。

 ひよりは背中に神経を集中させた。この気配は八雲ではないし、安達でもない。軽快な足音はひよりが望む人のそれではなかったのだ。いったい誰だろうか。

 しだいに心拍が上がりはじめる。

 肩にかけたバックをぎゅっと握りしめたその時!


「東さんっ」

「きゃっ」


 耳ともで若い男の声がした。


「うわー! すみません。僕です。同じマンションの久我です」

「久我、さん? もう、びっくりしたじゃないですかー」

「ごめんなさい! お腹の赤ちゃんびっくりしてません? 軽率でした。本当にごめんなさい」

「あはは。大丈夫ですよ」

「よかったー。あ、お詫びに荷物持ちますよ」

「えっ。そんな、ありがとうございます」


 突然現れたのは八雲と同じ駐屯地で働く通信科の久我だ。驚かせたお詫びだと言ってひよりから荷物を取り上げてしまった。そういえば以前、若者に揶揄われた時に助けてくれたのも彼である。


「同じマンションですし。それに、安達さんに見つかったらどやされるでしょ。貴様がなんで荷物を持たんのだーって」

「やだ久我さん。モノマネしないで笑っちゃいます」

「俺のモノマネは内緒ですよ」

「はい」


 実は久我は課業終了するや否や国旗降納を見届けてから、猛ダッシュで着替えて駐屯地の門を飛び出した。それはもう警衛隊が驚くほどの身のこなしであった。

 駅を過ぎてすぐ、ひよりの姿を見つけた久我は思わずよっしゃ! と、呟いた。


「今日は隊長遅いんですよね」

「あ、知ってました? 9時ぐらいになるんですって。自衛官も残業ってするんですね」

「まあ、その辺は民間企業と変わらないんじゃないですかね」

「そうなんですね」


 職種柄、誰がどこに出向いて何をしているなど言えないのである。


「あ、カギはわたしが開けます」

「助かります」


 マンションのエントランスに着いたので、ひよりが玄関を解錠した。いつものようにボタンを押してエレベーターを呼んだ。二人で乗り込んで、まもなく自分の部屋の階に着くころ、ひよりは思わず叫んだ。


「あ! 久我さん、ごめんなさい。久我さんのお部屋、通り過ぎちゃってる!」

「ああ、いいんですよ。はい、どうぞ。美味しいご飯作ってくださいね」

「久我さんと帰りが一緒になってよかったです。ありがとうございました」

「では、失礼します」


 久我の部屋はひよりたちより階が下になる。それなのに降りずに、黙ってひよりの部屋がある階まで荷物を持って来てくれたのだ。

 ひよりはこうして彼らの温かな気遣いに守られて、出産まで過ごすのだろう。



 ◆◆


 任務完了!!


 ◆◆


 営内で、営外で、男たちは小さくガッツポーズをした。

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