第38話 隊長のことは俺たちが、守る!


 近ごろ、つわりでダウンしているひよりは会社を休んでいる。大事な時期だからと、ひよりの上司は理解を示してくれたので一安心だ。


「ひより、行ってくるよ」

「うん。いってらっしゃい……ふぅ」

「何かあったら遠慮しないでメールをするんだよ。何も食べない飲まないはダメ。水分は必ずとること」

「はぁい」


 寝室のベッドからひよりの腕がひらひら揺れた。夜はぐっすり眠れないのか、朝起きるのが辛いようだ。

 主治医の早川からは、あまりひどいようなら点滴を打つから連れておいでと言われている。しかし今のところそこまでではないようだ。


「さて、行くか」


 八雲は後ろ髪を引かれる思いでマンションを出た。

 自衛官である以上、よほどのことがない限りは出勤しなければならないのだ。最近は車通勤の許可をもらった。一分でも早く帰宅するためだ。

 それでも駐屯地の門をくぐれば、自衛官の顔になる。

 ここでは妻のことは考えない――つもりだ。



 ◆



 遡ること数日……

 安達陸曹長は東が不在なのを確認して部下を集めた。


「みんな、ちょっといいか」

「「はい」」

「少しでいい、ほんの少しでいいからお前たち隊長を助けてあげてほしい」


 陸曹長はそう言葉を綴った。

 残業をするな。上官の承認が必要なものは午後3時までに出すこと。課業終了間際の飛び込み案件は内容問わずに、まず安達に確認すること。

 隊長の業務が滞ることなく進むよう気をつかうこと。

 隊全体で協力し、班による仕事の偏りを起こさないこと。


「災害派遣などの緊急案件を除き、普段の仕事で目詰まり起こさぬようにしてくれ。とにかく隊長に皺寄せが行かぬよう細心の注意を払え。これはいつかお前たちにも返ってくるからな」

「陸曹長、そんなにひどいんですか。隊長の奥様のつわり」

「一般的なものだとは思うが、なんせ人それぞれだからな。それに初めては心配が尽きないものだ。それにいくら我々が衛生科でも、何も助けることはできないからな」

「なるほど。自分たちがヘマをしなければ隊長の負担は確かに減ります。定時で帰ることができれば、奥様のそばに長くいられますもんね」

「そういことだ」


 承知した! 隊長夫人のつわりは、部隊全員で乗り越えてみせるぞ!


 安達陸曹長の思いとは若干ズレている若い隊員たちはそんなふうに思っていた。

 だって、結婚も妊婦さんのこともなんにも分からない想像の世界にいる者たちだから。



 ◇



「おはよう。今日も早いな」

「東隊長、おはようございます!」

「おはようございます!」


 いつもは八雲より後から出勤してくる若い隊員が、最近は早くからパソコンを立ち上げている。営内者はもちろんだが、今までに比べると朝の取り掛かりが早くなった。


「お達しでもあったのか。まだ課業開始まで時間があるぞ。お前たち、何かやらかしたのか」

「まさか! 自分たちはなにもしていませんよ。早めに来て準備して定時であがりたい。ただそれだけです」


 衛生科の橋本二曹はそう言った。そういう心構えは大事だと八雲は思っているので、彼らの自主性の成長に内心は喜んだ。


「そうか。それならいいんだが。あれ、安達陸曹長は」

「はい。陸曹長ほか5名は普通科連隊の長距離走の付き添いです」

「ああ、そうだったな。いかんな、忘れていた」

「隊長! コーヒーですか? お茶ですか?」


 給湯室から顔を出したのは河口三曹だ。八雲と一緒に自衛隊病院に応援に行って以来、一段と頼もしくなった一人である。


「いや、そういうのは自分でするから気にするな」

「ついでなんで! ほんと、ついでです!」

「そこまで言うならば……お茶を頼もうか」

「了解です」


 基本的に部下が上官の世話をする、という規則はない。八雲も偉そうに踏ん反り返るタイプでもないため、いくら直属の部下であってもそういうことにあまり慣れていない。

 司令や幕僚クラスになれば違うのかもしれないが。


「うん? 書類がない」

「隊長、打ち込み終わってるんで後ほど確認お願いします」

「早いな!」


 伊達三曹はパソコンが得意な隊員の一人だ。システムエンジニアになる予定が、何をどう間違えたのかレントゲン技師の資格を持って入隊してきた。


「残業したくないんです。血税の無駄になりますしね」


 自衛官と言ってもさまざまな人間がいる。全員が体力に自信があって運動神経抜群の状態ではない。見た目は誰がどう見ても立派な自衛官は、蓋を開けると驚きの連続である。


「さて、国旗掲揚だ」


 国旗掲揚と朝礼が終わると各部隊や班に分かれて本日の訓練指示があり、そのまま訓練に入る。

 医務室で一日過ごす日もあれば、終日どこかの部隊が行う訓練に付き添うこともある。医療機材の整備や応急処置の訓練及び指導、大規模な野外訓練もある。


「午前は医療機材の整備と薬剤官と在庫管理。午後は……訓練の付き添いと応急処置指導。健康診断の準備か。なかなか濃い一日になりそうだね」

「班を分けてありますので、問題はないかと思います。それから健康診断の申込書関連は昨日全部隊に配信済みですので、本日はそこまで時間を取らないかと思います」

「うむ。了解した。では始めようか」


 衛生科は各方面隊に配置されており、野外病院隊、救急車隊などがある。装備ではトラックや救急車、病院天幕、野外手術システム、小銃に拳銃などがもありそれらを日頃から管理している。普通の病院とはひと味ちがうのはすぐわかるだろう。


「あ……今日、射撃訓練が入ってたな。すまない、11時から離れます」


 医官でありレンジャー資格を持った八雲も、定期的に銃を扱う訓練を行う。自衛隊にとっての救護は危険と背中合わせなのだ。戦闘地域での救護、護送とはそういうことである。


「了解です。こちらは大丈夫です!」

「よろしく」


(なんだか急にみんな頼もしくなったもんだ。これも安達陸曹長のご指導の賜かな)


 こうして午前中の仕事は終了した。



 営内者たちが食堂に向かって静まりかえったところ、八雲はこの日初めてスマートフォンを手に取った。メッセージありの表示に、すぐにロックを解除する。


『トマトスープのお素麺、美味しかったです。今はテレビを見ながらゴロゴロしています ひより』


 食べられるものが分からないひよりに、八雲は毎日少量の食事を冷蔵庫に入れている。今回は酸味の効いたソースが功を成したようだ。

 ひよりからのメッセージに八雲は目尻を下げ、口元を綻ばせた。内心はガッツポーズしたいくらい嬉しいし、それを作った自分をめちゃくちゃ褒めてやりたかった。

 しかし、その熱苦しい気持ちを抑えて、八雲は返信をした。


『食べられたんだね。それはよかった。リクエストがあったら遠慮なく言うんだよ』


 しばらくして、オッケーという可愛らしいスタンプが送られてきた。

 八雲の心もそのスタンプのように軽くなったのを感じていた。

 そんな時、午前の訓練から安達陸曹長が戻ってきた。


「お疲れ様です」

「安達さん。訓練どうでした」

「ひとり脱水起こしかけましたが、テントで休んだら回復しました。今ごろは食堂でがっついているでしょう」

「そうですか。お疲れ様でした」

「隊長こそ、お疲れでは?」

「私ですか? いえ、大丈夫ですよ。それよりなんです? 隊員たちの動きがこれまでと違って先回りが上手くなりましたよ」

「ほう。彼らも自衛官としての立場や意識を理解してきたのでしょう。よいことです」

「ええ。お陰で時間内にもろもろの処理が終わりそうです」


 八雲と安達は持参した弁当を食べながらそんな話をした。安達は心の中で微笑んだ。部下たちの変化は東だけのためではない。必ず将来彼ら自身のためになるのだと。


 そして、食堂ではつわりについて大盛り上がり。


「なあ、ずっと二日酔い状態らしいぞ」

「飯も食えないって」

「まじか」

「見ただけで吐くらしい」

「うわ……キッツイな」

「姉貴曰く、何もかも鬱陶しいしイライラするってよ。仕事で疲れて帰ってきた旦那の顔を見ただけでイラつくって」

「えっ……旦那辛い」

「うっ、隊長かわいそうだな」

「産みの苦しみは男には分からないからなぁ。その八つ当たり、甘んじて受けるしかないんだってよ」

「隊長……」

「生まれてからも大変なんだろう?」

「なあ、俺たちが隊長を助けなくて誰が助けるんだ。奥様は絶賛つわり中だ」

「だな。隊長には俺たちがいる」

「隊長のことは、俺たちが守るんだ」

「「「おう!」」」


 妙な連帯感が生まれていた。

 その頃、八雲と安達陸曹長は……。


「はっ、くしょい!!」

「おや、隊長大丈夫ですか?」

「うん。急に鼻の奥がムズムズしてね……」

「気をつけてくださいよ。妊婦さん抱えているんですからね」

「そうだね! 鼻うがいしておこうかな」

「わたしもご一緒します」

「うむ」


 ここはここで、仲良しである。

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