the “Book”

藤光

the “Book”

 書架の一番上の棚にその本は収められている。


 平日の昼下がり、いつも人で混み合っている雑誌コーナーの棚から少し奥に歩いたところにある、文芸書コーナーの書架の前に人の影は少ない。


 ぼくは、よくその大きくて高い書架の前に立ち止まってその本を見上げる。いまでは珍しくなったはこ入りのハードカバーだ。どんな本なんだろう。なにが書かれているんだろう。


「あの……」


 ぼんやりしているところを、上品そうなおばあさんに声をかけられた。


「◯◯さんの『△△△』という本を探しているのですが」


 ああ、それなら最近売り出し中の作家によって書かれた大人の恋愛小説だ。たしか、ここではなくてもっと右手の棚に挿してあったはず。


「その本ならこちらです。ご案内します」


 先に立っておばあさんを案内する。ぼくはこの文芸書コーナーを担当するこの書店の書店員である。




 本を手にとって幸せそうにする人が好きだ。レジを済ませたおばあさんは、紙袋に入れられた本を愛おしそうに抱えて書店を出て行った。


 店を出て行くおばあさんの小さな背中を見送ると、ぼくはまた、あの書架の前に戻るのだ。その本にはぼくをひきつける不思議な力がある。


 子供の頃から本が好きだった。

 それは、絵本が好きでよく読んで聞かせてくれた母がまだ元気だった頃の記憶と結びついているからかもしれない。


 そんなぼくが働きだしたこの書店は、静かで本の匂いがする本屋さんだ。ぼくはとても気に入っている。


 書店でもっとも落ち着ける場所は、この高くて大きい書架のある文芸書コーナーだ。天井まで届く左右の書架にはぎっしりと本が並んでいて、外の喧騒をさえぎってくれている。ここは本を買い求めようとする人が本を探すことに集中することができるようになっているのだろうか。


『Book』


 ぼくがこの書店に勤めだした最初の日から気になっているその本の名前だ。どんな本なんだろう。なにが書かれているんだろう。


 書架の一番上に挿されたその本に気づく人はいない。本を買い求める人はそのずっと下に並んでいるベストセラーや話題の本から順に買って行くし、店中の本を整理せずにおれない書店員もその本を気にかけていている様子はない。


 一度、同い年の書店員にたずねたことがある。あの本のこと、知ってる?


「え、ああ。そんな本もあるんだね、気づかなかった」

「どんな本なんだろう」

「わからないよ。一番上の棚の本は、タイトルもよく見えないし、手も届かないしね」

「興味ないの?」

「まったく」


 ほんの少し、ぼくは傷ついたかもしれない。


 それから、ぼくは1日のうちの少なくない時間をその本の前で過ごすようになった。書店員の仕事をさぼるようになったわけではない。文芸書コーナーの担当になったから。


 毎日毎日、ぼくは書架と書架にはさまれた通路からその本を見上げている。


 きっと素晴らしいことが書かれているに違いない。


 本は、ぼくの手が届かない高い棚に収められている。




 その人が文芸書の書架の前に現れたのは、閉店まであとわずか――ある日の午後9時前のことだった。


 バックヤードへ整理する本を抱えて、そこを通りかかったとき、書架の前に立つ大きな人影に気づいた。ぼくは本を抱えたままその場に立ち止まる。


 ――なんだろう。


 ぼくの見ている前で、彼はおもむろに手を伸ばし棚から本を抜き取った。とても背が高く、手足の長い男だった。


「あ」


 おもわず声を上げてしまってから恥ずかしくなった。それほどびっくりしたし、それほど大きな声だった。


 なぜって、だれかがその本を買ってゆくなんて、そのときその瞬間まで思いもしなかったから。その本のことをわかっているのは、ぼくだけだと思い込んでいたから。


「やあ」


 本を手にした彼はにこにこしていた。


「……お買い上げですか」

「うん。探していたんだこの本を。ずっとね」

「ありがとう――ございます」

「こちらこそ、ありがとう」


 見上げるような大男は、ぼくの傍を通ってレジへ向かう。ぼくは見上げる。目を細めてその本を見ている彼は、本当にうれしそうだ。


「あの――」

「うん」


 彼の足が止まった。


 「その本には、なにが書かれているんですか?」


 少しの間、きょとんとした目でぼくを見た。変な書店員かもしれない。いや、きっと。


「――秘密」

「え」

「本の秘密が書かれてる本さ」


 いたずらっぽく微笑んでくるりとぼくに背を向けた彼はさっさっとレジへと歩いていった。大き背中が通路の角を曲がって見えなくなる。店内には閉店を知らせる音楽が流れはじめていた。




 取次から新しい『Book』が届いた。

 文芸書コーナーの元あった棚に、以前のとおり挿しておかなければならない。もちろん、ぼくの仕事だ。


 書架の一番上にはとても手が届かない。はしごを架けて手を伸ばす、硬い函の感触。


 ――本の秘密が書かれている


 手を引っ込めて、はしごの上から通路を見回す。だれもいない。

 ぼくは函からそおっと本を取り出した。

 立ち上る新しい本の香り。

 硬い表紙をなでる。

 さらり。

 ページを繰る。


 そんな……ばかな……。


「読めないでしょ」


 どきりとして、本を閉じる。おもわず本を取り落としそうになってあわてた。


 見るとはしごの下に、あの同い年の書店員が立ってぼくを見上げていた。いたずらっぽく笑っている。同じいたずらっぽい笑いでもこの本を買っていった大男の微笑みよりずっとわかりやすい。


 ぼくにこの本は読めなかった。

 一ページも。一行たりとも。


「巨人の言葉で書いてあるもの」


 彼女はそういって可笑しそうに笑った。ぼくもはしごの上から笑った。静かであるべき書店には似つかわしくない笑い声が響いた。


 彼女の笑顔は素敵だ。

 ぼくの笑顔が変でなければいいけど。




 いまも書架の一番上の棚には、その本が収められている。

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the “Book” 藤光 @gigan_280614

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