第11話『一杯のかけそば』
32歳のOL、八神奈津子にとってうれし恥ずかしの日がやって来た。
長い間、仕事一筋に頑張ってきた彼女にも、やっと春が巡ってきた。
男っ気もないまま、大海物産の販売企画二係の係長にまでなった奈津子は、ひょんなことから部下の二宮篤志と恋仲になり——。二人の間で婚約も交わし、ついに公にカミングアウトすることにしたのだ。
「実は、私たち二人は……この度結婚することになりましたっ。挙式は、半年後を考えています!」
……そんなことバレバレだってば。
『実は』なんて言葉を使わなくても、奈津子と二宮がデキているのは、皆にバレバレであった。知らぬは本人ばかりなり、とはよく言ったものである。
それでも、奈津子が社内で婚約を発表すると販売企画二係は大いに沸き、めでたい祝福ムード一色に包まれた。
「奈津子さん、おめでとう!」
部下のOL,美佐子と若菜は、二人に歌を捧げた。
あた~らし~い~ あ~さが来たっ♪
きぼ~うの~ あ~さ~だ~
……なにゆえにラジオ体操!?
日頃突っ込まれてばかりな奈津子は、この時は人に突っ込んだ。
二宮のほうも、男性社員から沢山の温かい(?)声をかけられていた。
「おい二宮! いつまでも係長と幸せにな! 絶対に負けるなよっ。世界の平和を守りぬけっ」
……一体、何に負けるなと?
「よっ! この色男、ネズミ男、コブラ男!」
……ネズミ男はともかく、コブラ男って?
「立て、立て立て……『勃つんだ』ジョー!」
「国が滅びたのに、王だけが残るなんて滑稽だわっ」
「いや~ルパンめは大事なものを~盗んでいきました~ あなたのココロですっ」
……だんだんハナシがそれてないかぁ?
午後から、奈津子と二宮は二人で営業回りに出かけることになった。
これは、営業課の課長・大倉の配慮である。
アツアツパワーで、きっと良いコンビネーションを見せてくれるだろう、とのしたたかな計算もあった。
実際、出先で彼ら二人はオメデタ情報に乗じて行く先々から歓迎を受け、いつもより余計に契約を取ってくることに成功。気をよくした奈津子と二宮は、意気揚々と営業先をあとにした。
「やっぱり、愛のパワーは偉大だわ。ああ、新婚生活が待ち遠しいわぁ」
帰りの道中。一人暮らしがあまりにも長かった奈津子は、新婚生活を夢想しながら、しばし夢心地になった。
「係長……じゃなかった奈津子」
顔を真っ赤にしながら、二宮は呼びかけた。
ここなら社の者が聞いている心配はないから、誰にも冷やかされない。
「新居は、どんな家がいいかなぁ?」
うっとりと空を見つめながら、奈津子はー。
「私、トンデラハウスに住みたいわぁ!」
……そんなもん知るかああああ!
奈津子とこの方面で渡り合うには、まだまだ二宮には修行が足りなかった。
そのうちに、トヨタのカーショップの前を通りかかった。
二宮は軽自動車を持っていたが、所帯を持てばもう少しいい車にしたいとも考えていた。ちなみに奈津子のほうは、免許はあれど車を持っていない。
「車も、欲しいなぁ。奈津子は、好きな車種とかある?」
言ってしまってからイヤな予感がしたが、遅かった。
「そうねぇ。やっぱり、何と言ってもマッハロッド! これに限るわぁ」
……ま、マッハロッド?
二宮は、想像してみた。
……な~んでこんなのに乗らんといかんばい?
別にドルゲ魔人とたたこうちょるわけじゃなかとよ!?
内心の叫びなのに、なぜか言葉遣いがヘンだ。
だいたい、そんなもの売ってるわけがない。
「お腹、空いたわね」
大通りの辺りで、急に奈津子はそう声をかけてきた。
「そ、そう言えば——」
あまりにも営業が順調だったので、二人はついつい昼食をとるのも忘れて業務に没頭していたのだ。
「ま、お昼もだいぶ過ぎたし夕食のこともあるから、どっかで簡単に済ましていきますか!」
目に前に、たまたまそば屋さんがあったので、二人はのれんをくぐった。
「へい、らっしゃい!」
二人は、数席しかないテーブル席の端に腰かけた。
カウンターの奥から、威勢のいいオヤジがお冷を持ってやってきた。
入り口からして、昔ながらの大衆食堂っぽい店のような気がしたが、内装もはたしてその通りであった。
いかにもな古い机に、背もたれのない丸イス。
地デジの時代に突入しつつあるというのに、ガチャガチャとつまみを回してチャンネルを変えるテレビ。
棚に雑然と置かれた日付の古い週刊誌や少年ジャンプ。
……すげえ。キン肉マンとかキャプテン翼が載ってるよ。
奈津子は、数冊ゲットして席についていた。
「悪・裂・ウイングマン!」
また、奈津子のマニア魂に火がついてしまった。
「……注文が決まりましたら、お呼びください」
奈津子が、あまりにもジャンプネタで遊んでいるので、注文がすぐには決まらないと踏んだオヤジは、いったん奈津子のテーブルを離れた。
「係長、とにかく先に注文決めてしまいましょう」
お品書きを広げて、二人でのぞきこむ。
「天ぷらそばかなぁ。う~ん、ミニ丼セットも魅力的ねぇ」
突然、二宮の顔から血の気が引いた。
その突然の表情の変化に気付いた奈津子は、二宮の顔をのぞきこんだ。
「ん? どうかしたの、二宮君」
思いつめた顔でテーブルに身を乗り出してきた二宮は、一言。
「あのう……係長はサイフ、持ってきました?」
「ア゛―――ッ!!!」
狭い店内に、奈津子の大絶叫が響いた。
オヤジの背中は、ビクゥと跳ね上がった。
……あの客、何かヘンだ。
奈津子は、スーツのポケットから書類入れからみなひっくり返したが……なかった。営業先はみな、定期券で電車を使って回れる範囲だったので、特に困ることもなかった二人は、今になってやっと財布を社に置いてきたことに気付いたのだった。
サイフを忘れた愉快なサザエさん、などと冗談も言えない恥ずかしい事態である。
実際、愉快でも何でもないが。
「ど、どうしよう……」
ポケットをひっくり返して、何とかかきあつめた小銭は——
二人合わせて、合計310円。
お品書きで一番安いメニューは、『かけそば』 の310円!
……よし。税込みの値段ね。
目を皿のようにして何度も確認してから、二人はオヤジを呼んだ。
…………!
二人の、あまりにもどんよりした雰囲気に、そば屋のオヤジは一歩後ずさった。
奈津子の人差し指が、ユラリと天井を向く。
「かけそば、一杯」
オヤジは次の言葉を待ったが、気まずい沈黙が続くだけだった。
………………………………
……………………
…………
……
「以上で、よろしいですか?」
「はい」
オヤジは、ダークサイドに引きずられるアナキン・スカイウォーカーの心境であった。このまま二人の雰囲気に呑まれれば、確実にダース・ベーダーになってしまう。
そば玉をひとつ、煮えたぎった湯に通すオヤジ。
背中に痛いほど、血に飢えた二人の客の視線を感じる。
どんぶりに湯切りしたそばを入れながら、オヤジは冷や汗をかいた。
……目だ、あれは野獣の目だああああ!
「へい、お待ち……」
コトン、とテーブルにかけそばを置いたオヤジは、恐ろしさのあまり足早にカウンターに逃げた。
案の上、奈津子のテーブルでは、世界タイトルマッチのゴングが鳴り響いていた。
「いい? 一口ずつよっ。葱とのりと天カスはきっかり半分ずつよ……」
二宮は、悲壮な覚悟を固め、ごくりと唾を飲み込む。
「最初はグー! ジャンケンホイ!」
奈津子はグーで二宮がチョキ。
「……正義は勝つ」
まずは、奈津子が最初の一口をつけた。
つゆはれんげに五分目、そばは5本と取り決められていた。
食べた奈津子は、神妙な顔つきで、二宮の前にドンブリを置く。
そして次に、二宮が同じ量だけ食べる。
そのやり取りが、儀式のように何度も続くのだった。
「ああっ」
奈津子がとがめるような大声を出した。
「かまぼこを半分以上かじったなああああ!」
かけそばについていた、一切れの半月型のかまぼこ——。
確かに、ジッと目を凝らせば、ちょびっとだけ半分を超えてかじっていると見えなくもない。
「い、一休さんそんな殺生なあああ! これくらいいいじゃないですかああ」
二宮は、あまりに意地汚い奈津子の言い分に、キレた。
「てっ、天かすだってあんたさっき余計にすくってたじゃない! 人が黙っていれば調子に乗りさらしてえええええ!」
エイッ、とばかりに奈津子は七味唐辛子をドバッとそばの中に入れた。
こうすれば、二宮が食えなくなることを知っていてわざとそうしたのだ。
奈津子は激辛が大好きで、二宮は逆に辛いものが苦手だったからだ。
「やったなああっ、ショッカー!」
二宮は顔を赤くして、奈津子の側にあるどんぶりを引っつかむと、口をつけてズルズルと中身を吸い出した。
この辛さを我慢してまでの暴挙に、奈津子は爆発した。
「ライダー・キック!」
テーブル越しに、奈津子のハイヒールが向かいの二宮の向うずねを蹴り上げた。
苦悶の表情を浮かべた二ノ宮も、負けていなかった。
革靴を脱いで、営業で歩き回ってむれた足を、奈津子の膝あたりまで突き上げた。靴下からは、そこはかとな~く鼻をつまみたくなるようなニオイが、かぐわしく漂い奈津子を襲う。
「見たか、拡散波動砲!」
「やっ、ヤマトめ……やりおったな!」
もともと青い顔をさらに青ざめたようなデスラー総統は、割り箸を二本繋げて、何だか怪しげな武器にした。
ダブル・ハーケン!
もう、目も当てられなかった。
二人を見て、誰も彼らが挙式を控えた幸せなカップルだなどとは思うまい。
ただただ意地汚く醜いバトルが、繰り広げられていた。
オヤジは、涙を流した。
昔、『一杯のかけそば』という感動的なお話があった。
一杯のかけそばを仲睦まじく食べる、親子連れの話。
状況は似ているが、あの話と違うのは、ただ一点。
この二人は、ゼンゼン相手をいたわっとらん——
……醜い。
哀れに思った親父は、二人分の天ぷらそばを作り始めるのだった。
「断空光牙剣! やああってやるぜっ!」
「うりゃ! フィンファンネルっ!」
二人の時空を超越したスパロボ大戦は、まだ続いていた。
オヤジは黙って二人のテーブルに近付くと、目の前に天ぷらそばを置いた。
「……食いな。御代はいらねぇ」
ケンカしていたのがうそのように、奈津子と二宮はピタッと静かになった。
あっ気にとられていた二人だったが、すぐに目に涙をにじませ、ウルウルした目でオヤジを見上げてしきりにお礼を言い始めた。
「ありがとうございますっ。サンキュー・ダンケ・メルシィ! あなたにもチュルシー、あげたい! あなたは命の恩人・北京恩人ですぅ! 海の神様、カムサハムニダああああ!」
意味不明なお礼の言葉を残し、彼らは恐ろしい勢いで天ぷらそばを食べ始めた。
「さっきはごめんよ、アントワネット。愛してるよ」
「私こそ悪かったわ。ああ、あなたはなぜオスカルなのおおお」
……知るか。
洗い物をしながら、オヤジは深くため息をついた。
あの二人は仲が悪いんでも、醜いのでもない。ただ、マニアックなだけだ。
ようやく、それを悟ったオヤジであった。
それからというもの、奈津子と二宮はこの店の常連となった。
後に、このそば屋は経営上のピンチにより、閉店の危機に追い込まれた。
しかし、その時に立ち上がったのは、奈津子と二宮であった。
大海物産の社員に声をかけて、ランチタイムには是非利用してやってほしい、とお願いして回ったからだ。
そこは、社のアイドル的存在(面白いという意味で)だった奈津子の言葉だから、みな喜んで従った。
何とか、経営難を乗り切ったそば屋は——
それから後もずっと大海物産の社員たちに愛され、繁盛したということだ。
親切というものは、決して無駄に終わることはない。
ひとつの親切が、さらにまたもうひとつの親切を生むー。
そう信じたい。
災難に巻き込まれる女・八神奈津子 賢者テラ @eyeofgod
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