ヤシマ作戦 ~温泉卓球の死闘~

賢者テラ

短編

 蛍光灯の淡い光を照り返す白球は、うなりを上げて弧を描き、鋭く敵陣に突き刺さった。

「ママ、大人気な~い」

 やれやれ、とため息をついた由利子は、スリッパをパタパタいわせながら、卓球室の隅にまで飛んでいったピン球を拾いに行った。

「エヘヘ。ライオンはねずみを仕留めるのにも全力を尽くすっ。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすものなのよっ」

 ことわざの使いどころが適切かどうかは怪しかったが、由利子の戻るのを待つ間、勝代は上機嫌でシャープな素振りを繰り返した。



 ここは、四国は屋島にある、とある温泉宿。

 勝代は夫、そして娘の由利子とともに、春休みを利用して家族旅行に来ていた。

 夫と由利子は温泉目当てだったが、勝代だけは違った。

 そう。彼女の旅館での最大の楽しみは、この『温泉卓球』だったのである。



 勝代は、高校時代はインターハイで決勝まで行ったことのあるプレイヤーであった。彼女はカットマン(球に逆回転をかけ、相手のミスを誘う戦法を得意とするタイプ)だったが、決勝戦ではパワードライブ(前回転)を使う選手の前に敗れた。



 ……私は実力で負けたのではない。ドライブに負けたのよ。



 敗戦のショックを、そう思うことでカバーした勝代は、カットを捨ててドライブをがむしゃらにマスターした。

 ほどなくして現在の夫と知り合い結婚した彼女は、卓球界の表舞台からは消えた。

 しかし、主婦と化した勝代は、別に自分の生きがいを見出した。

 それが、この『温泉での卓球』であった。



 こういうところでは、ほとんどの人が別に卓球が得意でも何でもなく、『遊び』としてやる人が多い。

 ポコンポコンとラケットに球を当てるだけで、回転だのバックハンドだのスマッシュだの、気にする人はあまりいない。

 そもそも、宿で貸してもらえるラケットなどは、プロからすれば最悪のものである。手入れされておらずツルツルのラバーの表面は、どんなにピン球をこすっても回転などかからない。



 でも、勝代はそれでよかった。

 ここでは、ギスギスした闘争心などない。

 ただ、純粋に遊び心を満たしたい人だけが集っている。

 そういう中で、見知らぬ家族や宿泊客との交流も生まれたりする。

 真剣に卓球をしていたことのある勝代は、こういう所では賞賛の的であった。

 そういうわけで、勝代は家族旅行に来たら、温泉よりもまず卓球。当然、卓球場のない旅館には絶対に宿泊しなかった。



 勝代は、さっきから二台分向こうの台で打ち合っている、若い女性二人に注目していた。正確には、ほどけばかなりロングヘアであろう髪をくくった、端正な顔立ちの少女。もう一人の、ちょっとぽっちゃり系の人のよさそうな子には、全く興味がなかった。

 勝代は前者をかなりの経験者とみた。相手が返してくるゆるい返球を、退屈そうに軽々と返球している。

 それは、娘の由利子を相手にしている勝代の現状と同じだった。高2になる由利子はテニス部だったが、「勘が狂っちゃう」と言って、あまり卓球には深入りしてこなかった。

 だから、実力差のハッキリしている打ち合いに少し退屈していた勝代は、さっきからチラチラと彼女らを盗み見していた。



「すいませ~ん」

 向こうから声がした。勝代がさっきから注目していた少女だ。

「球、取っていただけますか?」

 勝代は、足元の方に転がってきた、彼女らのものらしいピン球に気付き、かがんで拾い上げた。



 ……これは、チャンスだわ。



 そう思った勝代は、球を直接渡しに行き、声をかけた。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 少女は、バッグからマイラケットを取り出すと、ラバーの両面にスプレーを吹きつけ、丁寧に拭きだした。

 相手はどうやら『シェイクハンド』という、手のひらで握るタイプを愛用しているようだ。勝代も温泉卓球と言えどマイラケットを持ち歩いていて、そちらはペンを握るようにして持つ『ペンホルダー型』。

 少女はそれまで、友人とは旅館の貸しラケットでプレイしていたようだった。つまりマイラケットを出してきたということは、娯楽モードではなくどうやら本気モードでやる、ということだろう。



 ……あの子、ただ者じゃないわね。



 勝代の交渉で、その少女と練習試合を行うことになった。

 少女は、真奈美と名乗った。そして勝代に質問を投げかけてきた。

「あなた、かなりの経験者ですよね?」

「ええ、まぁ」

 勝代がそう返事をすると……何と彼女はマイラケットを出してきたばかりか、ピン球まで日本卓球協会指定の、バタフライ社製の公式球を出してきた。

「それでは、胸をお借りします」

 こうして、卓球台をはさんで、不気味な実力を秘めた二人は、ここ 『卓球温泉』で火花を散らすことになったのである。



「え~、ルールですが、5セットマッチ。11点先取で3セットを取れば勝ちとします。デュースは適用します」

 審判は、由利子がつとめることになった。じゃんけんをして、勝った真奈美はサーブを選んだ。勝代は、窓側のコートを選んだ。

「はじめ!」

 由利子の声に、ラケットを構え腰を低く落とす二人。

 みな浴衣姿であったが、その二人に関してだけは、公式な卓球のユニフォームを着ていてもおかしくないオーラが漂いまくっていた。



 勝代は、相手を甘く見ていたことを後悔した。

 真奈美は、キッとこちらに一瞥をくれると、おもむろに手のひらの白球を天井高く真っ直ぐに放り投げた。

 そして、落下点ギリギリでラケットを鋭くひるがえし、横回転をかけてきた。

 世に言う、『王子サーブ』である。

 絶妙な回転により恐ろしい推進力を与えられた球は、不規則な加速力で勝代の目を幻惑した。

 瞬間、覚悟のなかった勝代は回転を読み違えた。

 軽いドライブで返球するつもりで繰り出したフォアハンドは、無情にも勝代の返球を高く上昇させた。

 鷹のような目をした真奈美が、その絶好球を見逃すはずもなかった。

 腰のひねりを最大限に効かせた、渾身のスマッシュを勝代に見舞ってきた。

 深々とコートに突き刺さる球。全く反応できなかった勝代。



「1-0!」



 由利子のコールが室内に響く。

 真奈美の友人も、固唾を呑んで試合を見守っている。

 もはや、それはなごやかな温泉卓球などではなかった。

 斬るか斬られるか——。双方のプライドを賭けた真剣勝負であった。

「サー!」

 真奈美はまるで福原愛選手のような掛け声とともに、軽いガッツポーズを作る。



 ……きぃ~つ、憎たらしい!



 負けるもんですか! 勝代は、集中力を最大限にまで研ぎ澄ました。



「なんだなんだ」

「見に来いよ! なんかスゲーことになってるぜ」

 旅館の宿泊客たちが真奈美と勝代の試合に気付き、そのすごさはまたたく間に噂となって広まった。

 彼女らの台を30人ほどが取り囲み、その滅多に見られないプロ級同士のラリーを食い入るように見つめていた。

 誰も、「頑張れ~」などとにぎやかに応援する者はなかった。

 ただ、二人が球を打つ音、由利子のコールの声だけが室内に響いた。



「8-5」



 勝代は、押され気味であった。

 時代の古いプレイヤーであった勝代は、王子サーブなるものを受けたことも、対策を考えたこともなかった。

 返球することはできたが、どうしても甘い球が返ってしまう。

 そこをすかさず、真奈美に決定打を決められてしまうのだ。



 試合はフルセットにもつれ込んだ。

 最初、真奈美が勢いに乗って2セットを連取した。

 しかし、負けながらも強い選手と打ち合っているうちに、勝代にも往年の選手としての『カン』が戻ってきていたのだ。

 相手の球筋やスピードに慣れた勝代は、何とか相手の球に食らいついていった。

『シェイクの泣き所』 と言われる、フォアハンドで返すかバックハンドで返すか選手が最も悩む場所があるのだが、相手のそこへ勝代は球を集中させた。

 明らかに、真奈美の方に振り遅れやネットに球の引っかかることが増えてきた。

 勝代はその後2セットを取り、タイとした。



 真奈美との打ち合いを振り返って、勝代は一つ気付いたことがあった。

 そこに、賭けてみることに腹を決めた。



 ……以後、同時刻をもって本作戦は『ヤシマ作戦』と呼称され、ネルフの全戦力をもってこれと当たることとする!



 旅館が屋島なだけに? エヴァファンにしか分からないような独り言を言いながら、勝代はサーブフォームに入った。



 いよいよ、ラストセットを迎えた。

 バックハンドから左回転気味にこすった勝代のラケットは、周囲の観客の目にはついていけないほどのスピードで球を射出した。

 首の位置は変えずにラケットを斜め45度に傾け、上体を逸らしてそれを受けた真奈美は、スピードを殺したボールを、ネットぎりぎりのバウンドで送り返してきた。

 勝代は思わず前のめりになって、何とか球をラケットに当てて返球。



 ……これは決める!



 その決意を顔中にみなぎらせた真奈美は、勝代側のコートギリギリの所まで進み出てきて、かぶせるように白球を叩きつけてきた。



「8-5!」



 三点差を付けられた勝代は、額の汗を拭って、自分の頬をペシペシと叩いた。

 よし。今こそ、勝負の時——



 真奈美の王子サーブは、えぐるように勝代の緑の陣を襲う。

 勝代は、コートにひっつくようにして立った。

 この時、勝代はドライブ戦法をあえて捨てた。

 前陣速攻型の選手のように、相手の球がバウンドしたその瞬間を捉えて、躊躇することなく腕を振りぬいた。

 普通なら、そんな返球をすれば球が高く跳ね、敵の絶好球となるのだが——

 意外にも、勝代の渾身の速攻は、真奈美のコートの端ギリギリにへと見事に突き刺さった。

 驚愕の表情を浮かべる真奈美。



 ……王子サーブ、敗れたり!



 実は、真奈美の使用しているラバーの片方は『アンチラバー』と呼ばれる、回転がかからないという性質をもつものだったのだ。プロでも、愛用している人口は少ない。それが見抜けないと、対戦相手は翻弄される。

 回転がかかっていると勘違いしていた返球は、じつはナックルボールだったのだ。

 これまで解せなかったからくりを見破った勝代は、勝利を確信した。



 しかし。

 真奈美も、それほど甘くはなかった。

 弱点をつかまれたと悟った彼女は、なりふり構わず怒涛の攻めを試みてきた。

 速攻 vs 速攻。

 もはや、観客達は圧倒されるあまり誰も口を開かなかった。

 異世界の出来事を見ているかのようであった。



「11-11」



 震える声で由利子はコールした。

 あと、一点。一点をどちらが取るかで、勝負が決まる。



 その大事な場面で、真奈美が初めてカットを使ってきた。

 蝶が飛ぶようなフワリとしたそのボールを十分に間を取って待ち受けると、重心を低く落とした勝代は真下からラケットをこすり上げ、力をダイレクトに伝えた。



 ……行っけぇぇぇ!!



 ブゥゥンといううなりさえ聞こえてきそうなドライブ回転を伴った球は、挑戦状を叩きつけるかのように真奈美の目の前に落ちた。



 ……させるかぁぁぁ



 そう来ることを読んでいた真奈美は、左に一歩下がってバックハンドスマッシュができる体勢を作った。

 腕をクロスさせ、球に威力を与える真奈美。彼女の髪から、汗の球が飛び散った。

 闘神の魂を宿した球は、あざ笑うかのように勝代の体をすり抜けようとした。



「負けるわけにはいかないのおっっっ————!」



 勝代のはだけた浴衣の裾から、波打つ腿の筋肉が躍動した。

 大きく後に跳躍した勝代は、後方へ流れようとする白球を目で追った。

 彼女の瞳は、確実にその静止して見える物体を捉えた。

 それを打ち返せば、体勢を崩した勝代はもし返球されても、確実に対応できない。

 つまり……それが決まって、真奈美が返球できなければ勝代の勝利。

 返されれば、真奈美の勝利。状況は、ハッキリしていた。



 クワッと目を見開いた勝代は、腹をくくった。

 真っ直ぐに高く伸ばした腕で何とか球を捉え、崩れてはいたがなんとかフォアハンドの振りへと持っていった。自分のコートから1メートル半は離れての返球。

 一か八かの、ロビングであった。



 果たして、勝利への願いを込めた勝代の返球は真奈美に届いた。

 その一打に勝負がかかっていることを自覚していた真奈美は、必死の形相で球を追った。

 高く浮いたボールに強打を決めようと画策していた真奈美は、裏をかかれた。何と、勝代の返球は意外にも伸びがあり、コートぎりぎりの縁に当たって、とんでもないところへ跳ねたからだ。



「…………!!」



 軸足がブレて体勢を崩した真奈美だったが、すんでのところでラケットにその勝負球を捉えた。

 勝代は、覚悟を決めた。

 ああ、私は負けるのか——



 一同は、ハッと息を呑んだ。

 真奈美の球は、ネットに引っかかった。

 そして……

 ポトリ、と音を立てて落ちた。

 それは、真奈美側のコートにだった。



「お母さんの勝ちいぃぃぃ!!」



 由利子が飛び上がった。

 それまで静まり返っていた室内は、大歓声と惜しみない拍手で満ちた。

「いや~、温泉でこんな白熱したプロの試合が見られるとは、思いませんでしたなぁ!」

 死闘を終えた真奈美と勝代は、握手を交わした。

 浴衣がはだけ、汗まみれになっていた二人は無言で語り合った。

 そのような高みを味わったものにしかできない方法で、心を通わせ合った。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「ねぇねぇママ、これってあの子じゃん?」

 こたつでミカンをほおばっていた由利子が、台所で夕食の後片付けをしている勝代に叫んだ。

「どれどれ」

 タオルで手の水気を拭いた勝代は、リビングへ向かう。

 ハイビジョンのテレビ画面では、卓球の世界選手権の模様が中継されていた。

 中国の選手と今打ち合っているあの子は……まぎれもなく真奈美だ。



「正月も、休みなんかないんですよ」真奈美はそう言っていた。

 ……若いのに、冬休みにまでホントご苦労様。

 勝代は、うれしかった。

 早くに家庭生活に入り、由利子を必死で育ててきた、平凡な主婦生活。

 それだって、捨てたものではない。由利子をここまで育ててきたことには誇りを持っているし、女性として一番の幸福だとも思う。

 でも、そんな私にちょっと違った世界を思い出させてくれた。

 過去に抱いた夢を、もう一度見させてくれた。



 最大限の感謝を込めて、勝代は叫んだ。



「頑張れ~、真奈美ちゃん!」



 夕食の片付けの続きも忘れて、勝代は食い入るようにモニター上の真奈美の姿を目に焼き付けた。

 彼女の瞳には、真奈美の横でダブルスのペアとしてラケットを振るう、勝代自身の姿があった。


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