桜の花
容原静
桜の花
桜の花が空間を謳歌している。わちしは生まれてこのかたこれほどの桜を見たことがありません。此処は死後の世界か。思えば丸っこい団子の棒をがめつい寺丸屋のじい様の目を盗んでくすねていたはずなのですが、どうしてこんなところにいるのでしょうか。
不思議だ。辺りを見渡しても桜の木が一つも見えないのにどうしてこんなに桜が謳歌しているのか。桜が舞う音とわちしの吐息だけが時間を満たしています。わちしの胸の鼓動が早くなりやす。何か名状しがたく、ただでさえ細い目を細めて生きていることを確認しようと胸に手を当てます。周りを見て、走り出します。
どれほど走っても風景は変わりません。死ぬこと以上に苦しいことをわちしは長年の奉公で知っております。欠伸をしても誰にも文句を言われない時分から白髪が目立ち始める時分まで。何も変わらないこと。生きていて進化がないこと。早く此処から抜け出したい。
ずっと走り続けました。わちしは遂に風景に変化を見出しました。目の前に一本の桜の木を見つけました。その下には着物姿の女性が傘を持ち、後ろ姿を艶やかに示しています。
わちしは胸を撫で下ろしました。人がいるのです。わちし一人ではありません。此処はまだまだ普通の世界の可能性を残しております。狐に騙されていたとしても、不安な気持ちを充満させる孤独から離れられたことを幸せに感じます。
わちしは桜の木へと走っていきます。女性はわちしに気づきません。彼女は艶やかに立ち続けています。
すすり泣いている。女性はまさか泣いているのか。わちしの耳に奇妙な音が入ります。その音はわちしの脚の回転を止めるまでに至りません。しかし胸の鼓動が再び早まってきます。この女性は妖か何かでわちしを食べてしまうのではなかろうか。そんなことが浮かぶのに、どうして桜の木へと走ってゆくのか。わちしは恐れていました。妖に食われること以上に、いつまでも物事が進展しないたった一人の不安に立ち尽くすことは許されませんでした。
わちしは桜の木の下に辿り着きました。女性のすすり泣き、湿っぽい吐息、ぶるぶる震える肩。まるで彼女の全てが嘘でしかないように不確かで、触れれば壊れてしまうほどに脆く見えました。
彼女はいつまでも泣いております。涙は男の恥。辛いことも苦しいことも涙で表現しないわちしは彼女がどうしてそこまで泣くのか理解出来ません。
「なぜ、泣き続けるのですか」
彼女は振り向きました。彼女は妖ではありませんでした。彼女は艶やかな後ろ姿からは想像できないほどにあどけなさの残る少女でした。しかし赤く腫れっぽい唇と充血した目、丸く熟成した頰に垂れる涙は艶やかな後ろ姿に嘘をつかない情念をわちしに産みました。
「あなたはどちらからきましたか」
細くゆったりと呟きました。わちしは少し頰を赤く染めていることでしょう。わちしは顔をそらしました。わちしはこれでも大の大人です。こんな少女に見透かされたくない。取るに足りないプライドが直視を邪魔しました。
「あなたはどちらからきましたか」
彼女はわちしに声が届いていないと思ったのか、さきほどよりはっきりと、少しどもりながら呟きました。わちしは咳を払いました。
「えっと、はい。向こうのほうからひたすら走りました。それほどでもないです」
わちしは自分でも何を考えているのか不明な答えを露出しました。口ほどでもない。わちしはほんとうに生きることに不自由な人間なのです。
彼女は露ほどにもわちしの言葉を受け止めていない。そう感じました。傘をくるくる回し、桜の花が自然に落ちないことを楽しんでおります。
「向こうのほうからです。そんなに疲れておりません」
聞こえていないんでしょう。わちしはおなじ文言を二度繰り返しました。すると彼女は落ちていく桜の花から目を離し、わちしを不思議そうに見ました。
「それは大変でしたね。私なんてずっと此処に立ち尽くしているんですのよ」
彼女は自分の涙を人に露出させるのは恥だと申すかのように俯いて、ぼそぼそと女主人のように話そうと努力しているかのような文言を呟きましたが、やはりそれはあまりにぼそぼそとしておりどこまでいっても哀切に心を痛める十代の少女の声でしかありませんでした。
わちしは、失礼なことは理解しながらも、どこまでいっても大人の了解を無視しながらも彼女がどうしてこんなところにいて泣き続けているのか聴き出したかった。彼女の顔と声を知り、数分の間に如何にも彼女の格好はあまりにも彼女自身の内奥とはかけ離れているではないか、そう思い始めておりました。
彼女はいつまでもわちしから顔をそらして俯いておりました。彼女が履いた安っぽいサンダルはうじうじと桜が積もる地面をくるくる回しています。
失礼は承知です。わちしはどうしても好奇心を抑えられません。胸の鼓動が早まります。このわけのわからない世界で意思を持ち始めて、たった一人変化のない不安に胸を震わせていたあの感情とは違う胸の震えです。わちしは何かを壊すかもしれない。破壊の可能性が頭に浮かび、脳がふらりと信号を発して背骨を揺らしました。
わちしは勇気を出して伺いました。
「あなたはどうして泣いているのですか」
わちしの声が届いたのでしょう。彼女はゆっくりと顔を上げてわちしの目を見ました。彼女は短い間合いで瞬きを繰り返します。すすり泣きは止まりません。
「どうしてそんなことを聞くの」
わちしは胸を撃たれたように身体を震わせました。目の前の彼女は涙を流しながらも毅然としています。わちしは一体何様なのでしょうか。人の聞かれたくない部分、もちろんわちしにもあります。一体どれほどの悪と偽善を重ねてきたのか。思い返しても人生として失格の部類を歩んできました。
しかしわちしは胸の中で彼女に謝りながらも、自らの恐怖はどこまでいってもぬぐいきれないと誤魔化しました。わちしにとって、変に賢く振る舞えるほど桜が謳歌する空間を生きていくのは容易いことではない。わちしは何事もなかったように彼女に会釈して離れて、これから心臓の鼓動が止まるまで桜とわちしだけの世界を歩んでいく可能性を考えるとどうしても大人らしく振舞うことは出来ませんでした。
しかしそれにしても彼女は美しい。桜の花が彼女の表情を何度も隠します。彼女はこの世界で呼吸するために生まれてきたのかもしれない。勝手に思い違いするほどにこの世界は美しかった。
「とても美しい桜が咲いているのに、泣き続けるには事情がおありなのでしょう」
野暮とは理解しながらも、わちしはどうしても彼女の前から離れることはできません。こんなってはどこまでも話し続け、この世界が展開されていくことを祈るばかりです。
彼女はわちしからゆっくりと視線を外して、俯きました。
「私は選択してしまったのです」
彼女はぽつりと呟きました。聞き取ることもやっとなほどのか細い声でした。
「選択ですか」
「はい。実はこれほどまでに桜が舞っているのは全て私のせいなのです」
わちしは彼女が訥々と呟き始めた言葉をどこまでまじめに受け止めていいものか思案しました。彼女の言葉を聞いて、再度辺りを見渡します。さくらさくら。桜の嵐。わちしにとって、生きてきた常識と照らし合わせて、此処はどこまでも奇妙でしかありません。どうして桜だけが世界を謳歌させることが可能なのでしょう。耳を疑います。目を見放します。わちしは夢を見ているのです。どこまでいっても妖に誑かせられているのです。
彼女が幻として、わちしはこの世界が及ぼす影響を考えざるを得ません。
「私はもう二度と触れたくないのです。わがままだとは理解しています。しかし、死ぬのも生きるのも耐え難いのです」
そうして彼女は周りの桜を眺める。彼女は嗚咽を止めない。どこまでいっても彼女は桜の花を愛でていました。
「私は桜に守られて幸せなはずなのに。どうしても涙が止まらないのです。どうしても」
彼女は悲しそうに俯き、そしてわちしを直視しました。わちしはその表情の趣をどのように表現すればいいのかわかりません。複雑な表情だった。
「どうしてあなたはこの世界にいるのでしょうか。私だけの世界だったはずなのに」
そんなことを神妙に語られても反応に困ります。目には目を歯には歯をとはいいますが、わちしは奇妙な技を持ち合わせておりません。わちしは場を取り繕うように咳をしました。
しかし、なにか一つ彼女のこれからを示唆させる言葉を与えたいという気持ちにはなっております。果たしてどこまでいっても至らないわちしではございますから適切な言葉ははけないでしょう。少なくとも生きることには苦労してきた彼女。白髪が似合い始める時分になっても自分自身の岐路をうまく描け出せない男が道を示唆なんて不可能です。しかし、どうしても、いい言葉をかけてあげたい。ああ、やきもきします。
どれだけ考えてもどうしようもありません。わちしは胸の中に浮かぶよくわからない言葉を吐こうと頑張ります。
「私はどうしようもないほど何もできない人間でございまして、もしこれがあなたにとって本当に大切な空間だとしたら、そのような私がどうして迷い込んでしまったのか。運命とは残酷ですね。これも美しく素晴らしい事実だけを示すのでしょうか。運命って本当に私にとっては美しい美しいって呟いているかのように錯覚してしまうんですけれども、劇的だと思いがちなんですけれども。そういう世界であって欲しいとは私たちの勝手な思い過ごしで。たった一度の人生。この言葉だけが生きていく全て何一つ平凡であってはならないと思いがちで。そんな私がしたことが一体なんだといいますと結局その言葉以上にまったく何事にも精通しない私であるわけで。一体私も分からないのですよ。聞かれて、例えばあなたの人生になんらかの潤いを与えるべく生まれてきたとか思い込みたいですけれども、今までの人生を振り返れば会う人来る人離れる人全ての人間に対してこれっぽちも正しいかけらを分け与えることは出来ませんでした。人生の奥地へと辿り着けないでどうしてこれからを生きていけることでしょうか。私は自分をどこまでも信用できない。信じられない。だから人生はどこまでも美しく深く素晴らしく派手で劇的であるべきだと思い込んで、毎日を怠惰に過ごしてきました。だって人生あまりにも退屈すぎる薄い人間ですから」
わちしは自分が一体何を話したのか分かりませんでした。しかしわちしにとって目の前の世界全てがそういう有様です。世界はあまりにも分からなさすぎる。不確定な物事に溢れて、生きていくにはしんどい。わちしに物事をなんらかの良い方向へ運んでいくなど想像出来ません。
目の前の彼女はぽつんとした、まるでこの世界に於ける彼女自身の大きさを確かめるように目をぱちくりとしています。嗚咽は止んでいます。
もうわちしはいいでしょう。これ以上彼女の前に立ち続けることを誰が許してくれるのでしょうか。わちしはもう恥ずかしくて早く立ち去りたかった。わちしはもう一生一人で居続けても仕方がないと思いました。わちしは痛すぎる彼女から視線を外して、俯き加減で桜の花舞う世界を去っていきます。
わちしは桜の木の下から去りました。
彼女はいつまでもわちしを見続けて居ました。
わちしがいなくなっても見続けていました。
いつまでも彼女は桜の木の下に立ち尽くしていました。
そうして、いつしか傘を手放しました。
着物を脱ぎ始めました。
そして
「私は一人なのだ」
そう呟き倒れました。
謳歌する桜の花が一度に彼女の元へ集結した。そして一瞬にして全て散りました。
「はっ」
彼女は起き上がりました。そこは彼女がよく知っている彼女自身のベットの上でした。
「直子。ご飯よ」
母親の声が聞こえます。彼女はあたりを見渡した。どこをみても、彼女が何十年もいたかのようなあの世界の証は一つもありません。身体中汗だらけで布団までまるでびしょ濡れであるのに。
「あっ」
彼女はしかし気づきました。右手の手のひらを開くと一枚の桜の花が握られていました。
彼女はその葉を、カーテンを開き窓を開いて少し暑い日がさす空へと離しました。
そして彼女は机の上に置いてあった遺書も窓からバラバラに破って捨てました。
そして彼女は自室から見える小さな桜の木を見つめて呟きました。
「ありがとうね」
桜の花 容原静 @katachi0
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