もう一度、君に。

秋月創苑

本編

 窓の外にはどこまでも届きそうな秋空が広がっていて、それがかえって現実感を奪っているんだと、私はぼんやり思っていた。

 すぐそこの畑に遠慮して、そこらの石を集めて作った囲いを跳び越えること無く、火は煙となって空へと還った。

 まだ、薄らと立ち上る黒煙を目で追いながら、それでもなお私の心はここに留まる。


「ご主人、洗濯物は良いんですかい?」

 傍らからの声に振り向けば、相棒のクロスケが顔を撫でながら私に問い掛けていた。

 彼なりに気を遣っているのだと思うと、また瞼の筋肉がむずむずとしてしまう。

「今日の晩ご飯はチキンのソテーかと思ってましたが、それも無さそうですし…。

 あたしは散歩に行きたいんですけどねえ?」

 …前言撤回だ。

 ちくしょう。私の涙を返せよ。

 …まだ泣いてないけど。

 ぐすんと鼻を鳴らしながら睨み付ける私の視線も意に介さず、クロスケが前足を舐めながら私に尚も言う。

「天寿を全うしたモノに、そんな顔を向けちゃいかんですぜ?

 魚も花も木も魚も、みんな円環の中にいるんです。

 …笑って見送りゃあいいんです」

 何故魚を二回言ったのか問い詰めたかったが、今はそんな気分では無い。

 今はクロスケの気持ちだけ受け取っておく。

「…クロ。ありがと」

 クロスケはそれにとりあわず、サイドテーブルから音も無く飛び降りて、部屋の外へと出て行く。

 ピンと立った尻尾だけがゆらりゆらりと大きく揺れていて、なんだか自慢げだ。


 クロスケに諭されたわけでは断じてないが、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 私は重い腰をよいせと持ち上げ、片付けを始める。

 片付け…。

 私はクロスケの尻尾のように、大きく頭を振って気持ちを切り替える。

 片付け、ではない。掃除をするだけだ。

 いつものことだ。…そう、いつもの。


 そうは言っても、籠は綺麗なものだ。

 下に敷いた新聞紙も、泊まり木も、掃除など必要ないほどに清潔さを保っている。

 晩年は食欲も無くあまり餌を食べてくれなかった。金属のヘラを使って、ゴリゴリと化石のようなフンを削っていた頃を懐かしく思い、また意識が遠くに行きかける。

 もう一度頭を振って、私は事務的に籠の掃除をした。

 仕事部屋に還ると、窓から差し込む日差しが穏やかなオレンジ色に変わっていた。

 スイッチ一つでお湯を沸かしてくれる電気ポットの電源を入れ、私はココアを飲む。

 ぼんやりと窓の外を眺めながらココアを飲んでいると、まるでここ数日のことが夢の中の出来事にも思えてくる。

 今度は頭を振るわせる事無く、両手の掌をパチンと頬に当てて、気合いを入れた。

 気持ちを入れ替えて、仕事をしよう。


 私はノートパソコンを開き、真新しいマシンの顔色を覗う。

 勿論、パソコンは絶好調だ。

 タイムラグなど感じさせない速やかな起動。余計な物音も立てず、じっと命令を待つばかりの涼しい表情。

 彼、あるいは彼女かも知れないが、有能な秘書のようにじっとこちらの出方を待っている姿は、頼もしいと同時に僅かにこちらの息を苦しくさせる。

 そういえば…。

 前のパソコンが使えなくなった理由を今更ながらに思い出し、私は一人で密やかな笑い声を漏らした。

 唐突に沸き起こった笑いは、堪えようとする私の腹筋の努力を無視し、内臓を痙攣させ続ける。

 だんだんと笑い声が大きくなるのを自覚しながらも、止めることが出来ずに、一人の部屋の中でクツクツと嗚咽を漏らし続けてしまう。

 目尻に溜まった涙を拭いながら、漸く笑いを収めた私は、それでもまだ口元のにやつきをどうすることも出来なかった。

 所々キーが無くなり、歯抜けになったキーボードを懐かしく思いながら、私は目元を指で拭う。


 夜ごとパソコンに向かってここでは無いどこかの物語を、私は一心にモニターに向けて綴っていた。

 それが仕事であるからとか、そんな意識は物語の渦中にいる間には一切思わない。

 ただひたすらに、頭の中の情景を、思いを、手元にあるうちに形にして送り出す。

 ただそれだけの、シンプルで崇高な行為。

 それは私を、ここでは無いどこかに旅立たせ、夢中にさせる。

 気がついた時にはいつも、動物たちすら眠りにつく真夜中だった。

 そんな時、日の出ていない間だけ籠から出していたインコのクーが肩の上に飛んできて、まるで私を労うように頭を軽く小突いてくれた。

 時にはモニターの文字をじっと見つめたかと思うと、矢に無にキーボードの上で何度も羽ばたき、キーを爪で掴んだと思うとどこかに持ち去ってしまったが…。

 最初にLが打てなくなった。

 次にO。

 そんな風に悪戯をするクーだったが、勿論私には憎めるはずも無かった。


 また懐かしい情景に心を囚われていた私は、クロスケの無く声で現実に引き戻される。

 カーテンを閉め忘れた窓の外は、いつの間にか朝日が昇り始めていた。

 頬に伝う冷たい滴を拭い去り、キリの良いところまでともう一度画面に向かうが、茫洋とした頭では、ただの一言も言葉が浮かんでこない。

 霧が掛かったような思考に見切りを付け、私は仕事机から立ち上がった。

 思いっきり伸びをして、クロスケの食事の用意でもしようかと台所に向かう。


 食器棚の奥からキャットフードの箱を取り出し、清潔な皿の上にザラザラと適当に盛り付ける。

 食器棚へと餌を戻す途中で、そういえば一カ所掃除するのを忘れていたと思い出した。

 食器棚の上、いつも外に出している時に陣取っていた場所。

 フンでもしていないかと、私は台所の椅子を一脚運んで、棚の上を覗き込んでみた。


 見覚えのある黒いプラスチックのキー。

 L、O、V…。コロコロと転がるそれを見て、私はまた静かに笑い声を立ててしまう。

 …惜しいね。Eがあれば、完璧だったのに。

 そんな風に益体も無いことを思いながら、散らばったキーを拾い集めて、私は椅子を降りた。

 ふと気配を感じてそちらを見れば、クロスケが何かをくわえてこちらを見上げていた。

「クロスケ…。また何か捕まえてきたんじゃないでしょうね…?」

 警戒する私の前で、クロスケは口にくわえていたモノをゆっくり床に置いた。

 茶色の小さな固まり。

 …ああ。

 いつぞやの、クッキーの残骸だった。

 柄にも無く、今日はクッキーでも焼いて優雅なティータイムを送るんじゃいと、息巻いていた数日前が脳裏に過る…。

 もう流石に食べられないよ…。そんなことを思いながら、つまみ上げてみると。

 生地の上にクーの足跡がしっかと付いていた。

 それは見ようによってはEのようにも見えて。

 

「……」

 

 なんと言おうとしたのか。

 声にならない声が、声とも言えない声が。

 くぐもった嗚咽が、私の喉を繰り返し圧迫し、止めども無く熱い空気が溢れて。

 私は、ただ。

 クーにもう一度会いたかった。

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もう一度、君に。 秋月創苑 @nobueasy

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