生命力

ロジィ

生命力


「夏ってウザくね?」


 浩介こうすけ――こうちゃんはそう呟いた。窓から入ってくる風は、日に日に熱を帯びていく。乾いた風は


「えー? 浩ちゃん、夏キライなの?」

「だって暑いし、超ダルいじゃん」

「でも、夏って楽しいこといっぱいあるじゃん。夏休みでしょー。あと海水浴とか、花火大会も!」


 私は、これからやってくるイベントをひとつずつ指を折って数えた。

 夏休みまであと少し。間近に迫った期末テストが憂鬱ではあるけれど、それさえ乗り越えたら、そのイベントに全力投球できる。


「だいたいさ、その夏だからー! って騒いでるヤツがキライ」

「それ、私も入ってる?」

美咲みさきも、夏楽しみなの?」

「そりゃそうだよ」


 私がそう答えると、浩ちゃんは少し口を尖らせた。


「夏ってさ、みんな浮かれてるじゃん。海だー、花火だー、恋愛だーって。でもさ、俺に言わせれば海水浴なんて、水族館の水槽に入るのと同じ。あんなのに入りたいなんてどうかしてるわ」

「水槽に入るのはイヤだけどさぁ。それは海水浴とは全っ然違うじゃん。やっぱり夏って特別だよ! それにほら、うちの高校の夏服って可愛いし」


 私は立ち上がってくるりと回ってみせる。白いセーラー服と青いリボン、それにチェックのスカートはこの県でも人気の制服だ。かくいう私の、この夏服目当てにこの高校を選んだ一人だ。


「暑いし」

「そういうもんでしょ」

「どこもかしこも人でいっぱいだし」

「それも楽しいじゃん」


 浩ちゃんの口の尖りが大きくなる。まるでタコみたいで思わず笑ってしまう。


「なんだよ」

「もう、浩ちゃんってば、今年の夏はどこへも行けないからって拗ねてるんでしょ。来年になったら、今年の分もいーっぱい遊ぼ」


 そう言うと、浩ちゃんはベッドの上で私に背を向けた。

 ほんの数日前より確実に痩せたその体。病院の入院着もぶかぶかになっている。その隙間から夏の風が入り込んでしまうから、浩ちゃんの体は乾いてどんどん小さくなってしまうのかも。


「それに、夏休みになったらずーっと浩ちゃんの側にいられるし。私はやっぱり夏、楽しみだよ」


 ベッドの反対側に回り込んで、浩ちゃんの顔をのぞき込んだ。

 浩ちゃんの額には、暑さのせいか、うっすらと汗がにじんでいる。

 それはまるで、浩ちゃんの生命力が外へ滲み出ていってしまっているような気がして、私はそれを拭ってあげられなかった。


 その夏、浩ちゃんはいなくなった。その日から、私も夏がキライになった。


****


 終業式を終えて、私は坂道を自転車で登っていた。

 明日からはいよいよ夏休み。

 明日は、里香と沙織と一緒に海に行くんだ。この前、三人で一緒に水着を買いに行ったけど、正直私の水着が一番可愛いって思ってる。

 でも、里香はスタイルがいいし、沙織は胸が大きいからな。せめて、きょうの夕飯は抜いて少しはお腹をへこませておかなくちゃ。

 ぐっぐっと力を込めてペダルを漕ぐ。私の体と自転車が一体になって、ゆっくりと坂道を登っていく。

 暑さで私の額と背中に汗が滲む。それでも私の生命力は揺るがない。

 浩ちゃんは「夏が俺の命日になるなんて耐えられないわ」って言っていたのに、彼はものすごく暑い日に目を閉じた。

 きっとすごく悔しかっただろうな。きっとまたタコみたいに唇を尖らせてたんじゃないかな。

 坂道を登る。

 ハンドルがふらつくけれど、私は止まらない。

 もう少し、もう少し登れば坂道は終わる。

 ぐっぐっと足に力を込める。

 「夏の葬式って大変だろうなー。暑いのに黒い服着なくちゃいけないんだろ?」って言ってたけど、私は白い夏服だったよ。

 みんなが黒い服を着ている中で一人だけ白い私は、なんだかちっとも悲しんでいないようで、あんなにお気に入りだったこの可愛い制服がキライになった。

 それなのに、今年初めて袖を通した日、私の心はわずかに浮き立っていた。

 坂道のてっぺんまで登って、私は地面に足をつける。

 激しく呼吸をして、心臓はバクバク音を立てて、全身が脈打っている。

 白い夏服が背中にぺったりと貼り付くくらいたくさん汗をかいても、私の生命力はちっとも揺るがない。

 浩ちゃんがいなくなって、秋が来て、冬が来て、春になって、そしてもうすぐ一年。

 あの日、私の胸に空いたはずの穴は、確かに今もここにあるのだけれど、それでもわずかに小さくなっていて。

 これから、きっともっと小さくなっていく。この季節がくる度に、私の酷薄さを突きつけられてしまう。でも、きっとどうしようもない。

 明日、私は海に行くよ。浩ちゃんがキライだった海水浴。誰より可愛い水着を着て。水族館の水槽に入るつもりで。

 そしたら、私ももっと夏がキライになれるかもしれない。

 じゃないと、この季節に浮き立ってしまう気持ちが、いつかきっとこの胸の穴をふさいでしまう。

 突然、視界が波打つように、ぶわりと歪んだ。汗とは違うスピードで、何かが私の頬を伝っていく。

 そのとき、大きなトラックが砂埃と熱風を巻き上げて、止まったままの私を追い越していった。その勢いに思わず目を閉じる。

 ゆっくりと目を開けて、手で額の汗を拭う。さっきの砂埃のせいか、ほんの少し顔がザラついていた。

 後ろを振り返ると、アスファルトから立ち上る熱気が空気を揺らめかせていた。

 同じく終業式を終えたのだろう小学生たちが、たくさんの荷物を持ってじゃれ合いながら歩いている。

 ミンミンと蝉の声があちこちから響いてくる。

 どこまでも突き抜けていくような真っ青な空に、誰かが白い絵の具で描いたような輪郭線のはっきりした雲が大きくそびえ立つ。

 照りつける太陽は、私の頬を伝った涙をあっという間に乾かしていく。

 

 夏が、来た。


 私はまた自転車を漕ぎ始める。

 そうだ。日焼け止めも買わなくちゃいけないんだった。

 ふと、心地よい風がすり抜けて、私の汗を撫でていく。

 私の胸の穴がほんの少し疼く。

 それでも私は止まらない。私の生命力も揺るがない。

 私は、ぐっと足に力を込めて、スピードを上げた。

 そうやって、乾いた風を追い越していく。



【 完 】

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