非童貞は大切な人を守る

 大切な人を失う悲しみや痛みを、知っている人はどれほどいるのだろうか。


 知らない方がきっと良い。悲しみや痛みなんて、ない方が良いに決まっている。


 しかし僕は、それを知っている。知ってしまった。


 妹が自殺をしたのは、僕が教師として駆け出しの頃だった。


 大切な妹は虐められていた。僕は仕事の都合で別の場所に住んでいたから、妹が苦しんでいることに気がつけなかった。


 自分の不甲斐なさを、あれほど悔いたことはない。


 だから僕は、橋の鉄柵をよじ登って身を投げようとしている女子学生を見たとき、咄嗟に走り出した。


 もう二度と、僕の目の前で自殺などさせるものか。


 そんな思いで、僕は彼女を必死で救った。


「轟け、我ら、恋の、叫びぃいいいいいい!」


 その自殺を図った女子高生が、奇声を挙げて僕の大切なものを殺そうとした。


 そしてそれを庇ったのが、木村君だった。


 僕はぞっとした。僕は動けなかった。木村君が庇わなかったら、恭子さんは刺されていた。


 大切なものを、また失うところだった。


「し、静香……」


 木村君はがっくりと膝を折って、そのまま大里君に寄り掛かった。


 すぐに大里君は木村君を抱きしめる。


「ど、どうして……」


 絶望に満ちた表情で、大里君は言う。


「静香、俺たちは、好きな人を不幸にさせたかった訳じゃないだろ」


 ぽつりぽつりと、木村君は言った。


「そりゃあ、二人が憎いよ。俺たちを放っておいて、自分たちだけ幸せになろうとした二人は許せない。でもさあ」


 そして木村君は、残り僅かな涙を流した。


「それでも大好きな人の幸せを、願わずにはいられないんだ」


 木村君は両目を腕で覆い、しくしくと泣いた。


 彼には、こうするしか選択肢がなかったのだろう。もう彼はずっと前から、死を覚悟していた。だから迷わず恭子さんを庇ったのだ。


「大里君、早く救急車を!」


 僕は叫ぶ。


「来るなっ!」


 しかし大里君は、手に持った包丁で威嚇してきた。


「来ないでください。先生」


 そして大里君は、ぎゅっと木村君を抱きしめた。


 もし出会う順番が違っていれば。二人が心から愛し合える運命もありえたのだろうか。


「速水先生。中山先生。これはテロです」


 おもむろに大里君が言った。


「あなた達二人の記憶に、私たちの存在を刻み込むための、テロです」


 そして、大里君は爆弾のスイッチを掲げる。


「やめろ! 大里君!」


 僕がそう叫んだ後、恭子さんが僕の前に立った。


「忘れないわ。あなた達のこと」


 恭子さんの言葉をしかと受け止めた大里君。彼女はそしてゆっくりと目を瞑り、そして唱える。


「轟け我ら恋の叫び」


 きっと僕らの所為で傷つく度に、唱えられたワード。それが静かに響く。


 僕はすかさず恭子さんの前に立った。


 その直後、激しい破裂音とフラッシュが館内をつんざく。


 爆弾が破裂し、その破片が四方八方に飛び散った。僕はぎゅっと恭子さんを抱きしめる。


 ざくりざくりと、身体に突き刺さる破片。全身に強烈な痛みが駆け巡る。しかし構うものか。今度こそ、僕は大切な人を守る。


 絶対に、守り切ってやる。



*



「男遊びを止めろですって? 嫌ですよ、そんなの」


 懐かしい台詞が、ぼんやりと聞こえてくる。


「あなたも私を抱いてみますか? もしかしたら私、あなたに恋するかも知れませんよ」

「死にたいと思ったこと? ありませんよ。本気で好きだと思える人に出会えるまで、絶対に死んでやるものですか」


 ああそうだ。だから僕は、恭子さんが好きになったのだ。彼女は恋に執着していた。それはつまり、生に執着しているということだから。


「誠さん!」


 目を覚ますと、すぐに最愛の人が僕に抱きついてきた。途端に全身が痛み、僕は苦悶の表情を浮かべる。


「その痛みは生の喜びです。甘んじて受け入れてください」


 そんな僕を見て、にっこりと笑いながら恭子さんは言った。


 僕は周囲を見た。病院のベッドだ。そうだ。爆発に巻き込まれて、僕は恭子さんを庇ったのだ。


「恭子さん。無事そうだね。良かった」


 大切な人を守り切った。そんな実感が湧き上がって、僕は嬉しくなった。


「好きな人と結婚して、子供を産んで、その孫を見るまで絶対に死にませんよ」


 そして恭子さんは無邪気に笑った。前に聞いた時から、目標が更新されていた。それもまた、喜ばしいことだ。


「それで、あの二人は」


 僕はテロ実行犯の二人の容態を聞く。


「亡くなったわ」

「そうか」


 しばしの沈黙。あの二人は、どうするべきだったのだろう。もっと他に幸せになれる方法は無かったのだろうか。


 選択肢がないと、二人は言っていた。もし恭子さんが僕に惚れず、他の男に恋をしたと仮定して、僕は果たしてどのような行動を取っただろうか。


「あの二人は、どうしたかったのかな」


 大里君の最後の言葉を反芻しながら、僕は言う。


「脇役に、なりたくなかったのよ」

「脇役に? なんの」

「私とあなたのラブストーリーよ」


 それはきっと間違いじゃない。恋は盲目と言うし、どうしたって好きな人以外は霞んで見えてしまう。僕と恭子さんが恋仲となってイチャイチャしている間、彼らは蚊帳の外のような感じを常々実感していたのかも知れない。


 だから僕らに、恋の叫びを届けたかった。


「ねえ、屋上に行きましょう」


 恭子さんが言うので、僕は試しに立ち上がってみる。痛みはあるけれど、歩けそうだ。気分転換もかねて、僕は恭子さんと屋上に出ることにした。





 屋上に出ると、爽やかな一陣の風が過ぎていった。僕と彼女の髪がそっと揺れる。


 あんな事件があったというのに、空は青かった。空は青いし、雲は白い。


「見て、あれ」


 恭子さんが指さした方を見る。そこには大きな入道雲があった。それはまるで、あの二人が並んで僕たちを見ているかのようだった。不貞腐れた表情をしている。あの二人らしい。


「ねえ、叫びましょう」

「ええ?」

「叫ぶのよ」


 それは恐らく、あの二人もしていたことだろう。いつの日か、僕と恭子さんがキスしているところを見られた時がある。その後、屋上から男女のあられもない叫び声が聞こえてきた。全身無垢なその叫びは、聞いた僕たちの方が恥ずかしくなったのを良く覚えている。


「いいね。叫ぼうか」


 木村君。君は一方的に恭子さんを好きだ好きだと主張してきた。でも僕にだって主張したいことはある。


「ふふ。じゃあ、行くわよ」


 恭子さんの合図。僕は目一杯に息を吸い込む。ありったけの想いを、一言に乗せるために。


 ちらりと、恭子さんを見た。彼女の瞳から、一筋の涙が流れていた。それを見て、僕も釣られて涙を零してしまう。


 様々な感情が溢れそうだった。丁度良い。その全てを乗せてしまえ。


「あぁぁああああああああああああ!」


 そして、僕たちは叫んだ。


 放たれた我らの恋の叫びは、音となり、振動となって世界中に轟く。


 あの空に浮かぶ二人の幻影さえ、微かに揺らしただろう。

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処女童貞の恋愛テロリスト violet @violet_kk

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