うさぎと檸檬

三ツ沢ひらく

うさぎと檸檬

 近所に住んでいる澄也すみやくんは絵を描くことが好きだ。


 直接本人に聞いたことはない。けれどわたしが澄也くんの家に行くと彼は決まって自分の部屋でお絵かきをしていた。


 小学校低学年の頃にわたしの住む小さな町に引っ越してきた澄也くんは、生まれつき体が弱かったので、親戚の住む空気の綺麗なこののどかな町に引き取られてきたのだそうだ。


 わたしと澄也くんは同じクラスではなかったけれど、わたしの家と澄也くんの家がにあるのでよく家に遊びに行った。


「ねえ澄也くんテレビ使ってもいい?」

「うん、いいよ」


 澄也くんの部屋には大きなテレビがあるのにわたし以外の人が使っているところを見たことがない。


 彼は机に向かって筆を黙々と動かしていた。小学生が使うには立派な筆とカラーインクのセットは、几帳面に机に並べられている。


 その内彼の大きな目がぽろりと落ちてしまうのではないかと思うほど、彼は瞬きもせずに作業を続けていた。


 対するわたしは澄也くんの部屋のテレビを占領して、クラスで流行っているアニメだとかドラマだとかをぼんやりと眺める。それがいつもどおりのわたし達。


 どう考えても作業の邪魔をしているわたしは不安になって前に一度彼に聞いたことがある。


「わたしって邪魔?」


 澄也くんは珍しく筆を止めてわたしの顔を見た。そうして言った。「邪魔じゃない」と一言だけ。


 だからわたし達はこれでいいのだ。


「澄也くんなに描いてるの」

「いきもの」

「これは?」

「これはうさぎ」

「えー? うさぎに見えない」

「こころの目で見るんだよ」


 こころの目を通すと、わたし達はそれなりに仲良く見えたと思う。



 *



 澄也くんの絵が変わったと思ったのは中学に入ってからだった。


 もはや子どものお絵かきというレベルではない抽象的な絵を描くようになった彼は、ますます家にこもって作業に没頭することが多くなった。


 学校には行くけれど、それ以外の時間をずっと創作にあてている。彼の部屋は描かれた後の画用紙で埋め尽くされ、それをわたしが時々整理しに行った。


 澄也くんの部屋に遊びに行く頻度は減ったと思う。


 わたしにも友達が居るし、なにより中学進学のお祝いとして部屋にテレビを置いてもらったのだ。これでわざわざ澄也くんの部屋で彼の邪魔をしながらテレビを借りなくてもいい。


 わたしの世界は充実していた。澄也くんに会わなくてもどうせはす向かいに居るのだ。会おうと思えばいつでも会いに行ける。


 そう思っていたある日、澄也くんの方からわたしを訪ねてきた。


 これは本当に珍しいことで、わたしが学校を休んだ時にプリントを渡しに来て以来の出来事だった。


 慌てて部屋着に適当なパーカーを羽織り彼の待つ玄関に駆けつけると、マスクをつけた澄也くんが気怠げに立っている。


「おまたせー。どうしたの?」

「ちょっとお願いがあるんだけど」

「うん、何?」

「絵のモデルになって。立ってるだけでいいから」


 唐突なその頼みに一拍遅れて頷くと、澄也くんはマスクの下で少しだけ笑った。その様子を見て段々と不安が湧き上がる。


 絵のモデル。わたしのようななんの変哲もない女子中学生でいいのだろうか。もっとスタイルの良い人の方が映えるのではないか。


 ふと自分の格好を思い出す。適当なTシャツにラフな短パン、可愛げのない無地パーカー。


「き、着替えてくる!」

「そのままでいいのに」

「いいから待ってて!」


 そうだ、季節は少し早いけれど、夏物のワンピースを出そう。爽やかな檸檬色、少しでも絵になるように。



 結論から言うと、わたしなんかじゃ絵にならないかもしれないという心配は無用だった。


 澄也くんの描く絵は昔から難解だ。


 わたしはわたしをモデルに描かれたものがわたしなのかうさぎなのか判別することができなかった。


 文句も言わずに澄也くんに言われるがままのポーズをとり、じっと観察されることに耐えた結果がこれだ。澄也くんのクロッキーを覗き込み、ためらいながら口を開く。


「こっちがわたしだよね」

「うん、見ればわかるだろ」


 檸檬色をした三角形を恐る恐る指差すと、さらりと肯定される。となりには同じ三角形で描かれたもの――彼の絵に必ず居るうさぎが並んでいた。


 わたしは二択を外さなかったことに安堵しつつ、がくりと肩を落とした。


「モデルありがとう。この構図次の絵で使いたかったんだ」

「どういたしまして。ねえ、澄也くんはどうして絵を描くの?」


 わたしの問いかけに澄也くんは目を瞬かせる。彼の唐突な頼みを聞いたのだから、わたしも今まで気になっていたことを聞いてもいいだろう。まるで人生の全てをかけるように打ち込む姿をずっと見て来たのだから。


 澄也くんは少し考えてから、絵の中のうさぎに触れながら言った。


「僕らは突然異世界に飛ばされたり、自分じゃないものになったりすることはできない」


 澄也くんの言葉を図りかねて、首をかしげる。最近流行りのアニメのことだろうかと考えたところで、彼がアニメを見ないことを思い出す。


「だけど、自分の世界を創り出すことはできる」


 それが澄也くんが絵を描く理由。わたしは何となく虚をつかれたような、それでもどこか予想していたその答えにただ黙って頷いた。


「それに、絵の中でならうさぎもになれるからね」


 しんとした雰囲気を壊すように意味の分からないことを言い出すのは彼の得意技だ。それも至って真面目な顔をするものだから、わたしは笑うことしかできない。


「あはは。それじゃあこのうさぎは澄也くんなんだ」


 彼の世界には酷く抽象的なうさぎが住んでいる。



 *



 わたしと澄也くんは家から一番近い公立高校に進学した。一緒の高校に行こうなんて約束はしていないしそもそもそんな間柄でもないのだけれど、いざ初めて同じクラスになってみるとなぜかとても安心したのを覚えている。


 しかしその安心も一瞬で終わってしまった。


 澄也くんは元々体が弱いので、体調を崩したと聞いても「ああまたか」としか思わなかった。


 それでも何週間も体調を崩すのは知る限り初めての事で、いてもたってもいられなくなったわたしは手ぶらで澄也くんの家に押しかけた。


「あの子ね、入院することになったの。それで、病院は両親がいる町の方がいいだろうってことになってね。学校はしばらくお休みするわ」


 澄也くんのおばさんの言葉にわたしは呼吸も忘れるほど衝撃を受けた。


 いつもはす向かいに居ると思っていた澄也くんがいつの間にか居なくなっていた!


 その事実と入院という二文字がぐるぐると頭をかけ巡る。澄也くんが居なくなったことに気付かなかった。そのことが心をきしませる。


 わたしは何をしていたんだろう。同じクラスなのに、幼馴染なのに、体調が悪いことに気が付かなかったなんて。


 一学期が丸々終わる頃、澄也くんは退院した。夏休みをそのまま両親のもとで過ごし、この町に戻ってきた。


 お見舞いのタルトを持って澄也くんの部屋に行くと、彼は痩せた頬を隠すように大きいマスクをしていて、目元だけで少し笑った。


「別に、大したことないよ」

「すごい痩せてるけど」

「病院食おいしくなくて」

「顔色も悪いよ」

「だーいじょうぶだって」


 ぽんと頭に軽い衝撃が走る。筆を持つためだけにあるようなその手が乗せられたことに気付き、わたしも背伸びをしてやり返す。


「突然いなくなってびっくりしたんだよ」

「ごめんごめん」


 澄也くんは平気な素振りをしてみせるけれど、こころの目で見ると彼は明らかに無理をしていた。



 *



 戻ってきた澄也くんは大きな絵を描くようになった。


 彼の身長を超えるほど大きなキャンバスに、脚の長い椅子に座りながら筆を滑らせる。命を吹き込むようにただひたすらにその絵に向き合い、時折力尽きるように体を脱力させた。しばらく息を整えて、また筆を持つ。


 わたしは相変わらず学校で配られるプリントを澄也くんの家にこまめに運び、澄也くんの様子を見て帰る。


 もしも彼がまた病院に戻らなくてはいけなくなったら、それを知っておきたいからだ。


 わたしはわたしの知らないところで澄也くんが居なくなってしまうのがとても怖い。いつでも会える、はもうおしまいだと言われるような気がして。


「ねえ、わたしも何か手伝うよ」

「だーめ」


 彼の創る世界は不可侵だ。わたしは澄也くんの邪魔になることはしたくないと子どもの頃よりも強く思うようになっていた。


 もしもまた、わたしが邪魔かどうかを訊ねたら何と言われるだろう。そんなことばかりを考えてしまう。


「ねえ、次来るとき、あのワンピース着てきて。檸檬色の」


 帰ろうとするわたしを見ずにそんなことを言うものだから、わたしも振り返らずに言った。


「もうサイズが合わないよ」


 あの檸檬色を着られないわたしは、澄也くんの世界に不必要なのかもしれない。いや、そもそも今まで彼の創作活動にわたしが必要だったことなどたったの一度、モデルを頼まれたあの時だけだった。


 そのことをこんなにも寂しく思うのはなぜだろう。


 少しの間でも澄也くんが居なくなったという事実はわたしをおかしくしてしまったようだ。


「わたしって邪魔?」


 言うつもりのなかった言葉がぽろりとこぼれる。答えを聞く勇気もないくせに。


「まだそんなこと言ってるの」


 呆れたようにマスクの中でため息をつく彼から逃げるように部屋を出る。



 それから澄也くんはわたしの前で絵を描かなくなった。



 *



 夏が終わった。澄也くんの体調は日に日に悪くなっている、と思う。


 彼の部屋にある描きかけのキャンバスには布がかけられて、誰の目にも触れないようになっている。痩せた体はさらに線が細くなり、学校も休むことが増えた。


 わたしは澄也くんのことを気にしながら、気にしていないふりをして日々を過ごした。


 体調の事を訊ねても大丈夫としか言わない彼は、かたくなにわたしの前で作業を進めない。今描いている絵を見せてほしいと何度言ってもそれは許されなかった。


 おかしくなってしまったわたしに気を遣っているのだとすぐに気が付いた。澄也くんが変わったのではない。わたしが変わってしまったのだ。


 いつの間にかわたしは彼の世界に入り込みたいと願っていた。


 ある日、澄也くんの体調が一段と悪いと聞いて見舞いに行った。彼は青白い顔で浅く呼吸をしている。


 横になりながら美術史の本を読み、時々わたしの存在を思い出したように語りかけてきた。


「将来何になりたい?」

「えっと……学校の先生かな。澄也くんは?」


 彼は少し考えた後ぽつりと「分からない」と呟く。わたしは首を傾げた。


「絵描きさん……アーティストじゃないの?」

「人に評価されたいわけじゃないんだ」

「そうなんだ。わたしは澄也くんの絵をたくさんの人に見てもらって、澄也くんのすごさを知ってもらいたいと思うけどなあ」


 熱に浮かされた瞳を閉じて、彼は言った。


「見るだけならいいけど、他の人に入ってきてほしくない」


 それは澄也くんの世界にということだろうか。わたしはただぼんやりと、その柔らかい拒絶を受け止めることしかできなかった。始まる前に終わってしまった何かが音もなく崩れていく。


「ああ、でも、誰かにあげるための絵ならその人の好きにしてほしいと思う」


「そっか」


 彼の言葉は、彼の描く絵よりも難解だ。



 *


 秋が終わろうとしている。


「外国で治療を受けないかって言われた」


 澄也くんが何でもないように言ったその言葉は、まさしく彼の病状を表していた。


 緩やかにむしばまれていく彼の生命は、もはや例の大きな描きかけの絵のためだけにあるようなものだった。


「そう、なんだ」


 極力何でもないように返した声は震えてしまう。


 澄也くんは一日をほとんど寝て過ごすようになった。彼のおばさん曰く、それでも絵を描き続けているという。絵を描くために食事をし、絵を描くためだけに立ち上がる。


 わたしは届け物がなくても澄也くんの家に行くようになった。どう思われてもいい、出来るだけ彼のことを長く見ていたかった。


「それで、いつ行くの?」

「行かないよ」


 思わぬ返答にがばりと身を乗り出す。彼はいまなんと言った?


「な、な、なんで行かないの!? 今よりもいい治療が受けられるんでしょ」

「金も時間もかかるしなあ」


 澄也くんの家の事情は詳しくは知らないけれど、両親と離れて暮らす彼には何か思うところがあるのかもしれない。


 喉元まで出てきたたくさんの言いたいことをとぐっと飲み込むと、澄也くんがふと顔を上げる。


「これさ」


 指さされた大きなキャンバス。目隠しの布の隙間からは重ねられた絵の具が見える。わたし達の背を越えるその絵に目を向けると、澄也くんは続けた。


「完成したら、あげる」


 力なく目元を緩ませて笑う彼に、わたしは込み上がる涙を必死にこらえて言った。


「完成なんて、させなくていいから治療を受けてよ」


 目の奥がツンとして、頭がびりびりと痺れる。思わず顔を伏せると、「それじゃあだめなんだよ」と残酷な言葉が耳元で響いた。


「間に合わなかったら困るんだ」



 *



 冬が終わってようやく春が訪れようとしていた頃、澄也くんは突然、天国に逝ってしまった。


 ただのはす向かいに住んでいる幼馴染であるわたしには知らされていなかったけれど、余命宣告よりも長く頑張ったのだそうだ。


 澄也くんが居なくなった。今度は本当に。ぽっかりと胸に穴が開いたような虚無感に包まれながらお通夜に参列したけれど、あまりにも信じ難いせいか何の実感もなかった。


 わたしはぐちゃぐちゃになった自分の気持ちを抱えたまま、まるで重い荷物を下ろせないように現実と非現実の間をさまよいながら過ごすことしかできなかった。


 もう会えないという事実を、ただ認めたくなかったのかもしれない。


 そんなある日、わたしを訪ねてきたのは忙しい最中であろう澄也くんのおばさん。いつにも増してぼんやりとするわたしの手を引いて、辿り着いたのは澄也くんの部屋の前だった。


 穏やかな笑みに促され、わたしは部屋の扉を開ける。


 そこには見たことのない世界が広がっていた。


 見上げるように大きなキャンバス。そこに収まりきらず壁や天井にまで伝い広がる世界。


 幾度も色を重ねた背景に、浮かび上がるのは酷く抽象的な大樹と城。


「この絵ね、あの子が亡くなる少し前に完成したの。あなたに贈るように言われているのだけど、受け取ってもらえるかしら。大きくて申し訳ないんだけど……」


 全てを聞く前に、涙がぼろぼろと溢れてくる。


 澄也くんは自分の世界をわたしにくれた。それはわたしのくだらない不安をかき消していく。


 ああ、良かった。わたしは邪魔なんかじゃなかったんだね。きっとわたし達、同じ気持ちだったんだよね。


「でもこんなの、言われないと分からないよ。ばか……」



 涙でにじむ世界の中で、檸檬色とうさぎが手を繋ぐように並んで描かれていた。



 わたし達は突然異世界に飛ばされたり、自分じゃないものになったりすることはできない。


 けれど確かに、澄也くんの創った世界でなら二人きりで寄り添いながら生きることができる。

 

 彼はうさぎになって、わたしは檸檬色のワンピースを着て。




 *




「死後有名になった画家というのは歴史的に見るとそれなりに存在します。この絵の作者もまた十代で亡くなった後にその作品を評価され、こうして現代の名画に選ばれるほどに――」

「ねえ先生! この絵のこの部分何が描いてあるの? 全然わからないよ」

「ああ、これはうさぎよ」

「ええー! うさぎに見えないよー?」


 生徒からの質問を受けて、わたしはゆっくりとその絵を見上げる。


 美術館の中央に展示された大きなキャンバスの中で、うさぎの姿をした彼が少し笑ったような気がした。



「こころの目で見るんだよ」



『うさぎと檸檬と僕の世界』

 ――兎原うはら 澄也 作

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