第一章 編纂室の怪人(上)

 大陸の腹心地帯、南点と称する古い都がある。

 険しい蒼山が連綿と続く山岳地貌のせい、昔から交通運輸がかなり不便だったが、その代わり、適宜な天候に恵まれ、農業が従来盛んで、大陸半分以上の糧食供給源となり、大地の穀倉と言われつつある。

 古き伝わる伝説の中、凡そ五千年の前、世界が巨龍罰応【ばつおう】の魔の爪に散々蹂躙され、破滅の寸前、巨龍を討伐して人類を救い出した一人の英雄がいた。南典と名乗るその英雄の故郷、そして物語の発端として、南点は都内から周辺の村まで、滅龍伝説に纏わる遺跡や神殿が数え切れないぐらい残されていて、英雄を思慕する大量な信者達にとって、取替えの出来ない聖地になっている。

 農業と観光に支えられ、英雄の名を受け継がれたこの栄光の邦国は中部経済文化の中心として、何千年を渡っても劣った様子一つ無く、繁栄興業し続けて来た。


 この日、朝の勤務が開始した間も無く、南点警察本庁の配達室に二人の警官がコーヒーをのんびりと飲みながら、世間話を満喫していた。

『今日、皆さんは張り切ってますな。何かがありましたか。』二十代の若い方が言った。

『お前、一生此処で新聞手紙を配るつもりか。周りで起きてることぐらい、耳を傾けたら。偉いことになっちゃったぞ。』年輩の警官が後輩を叱った。

『偉いこと。』

『殺人が起きた。昨夜。』

『日常茶飯事じゃ、殺人ぐらい。』コーヒーを一口飲んでる若い警官。

『――平気でいられるお前らはおかしいぞ、一応警官だろう。然し、言ってることが事実だし。今回の件、現場は問題になってる。何処だと思う。』

 若い警官が頭を振り回した。

『儀聖学校。』

 口を大きく開かせて、若い警官がお化けでも見た顔をした。『学生さんがやられましたか。』

『幸い、それだけは免れた。どうやら、被害者は学校関係者じゃないみたいそうだ。』

 若い警官の皺が解かなかった。『例え坊ちゃん、ご令嬢達に被害がなくとも、うまく処理できなければ、本庁長様だけじゃなく、市長の立場まで危うくなり兼ねないですね。』

『分かってるじゃ。うち本庁、最近全然ついてないな。排除令といい、恐喝といい、本庁長様が十分困っていらっしゃるというのに。しかも、任期も近いという敏感な時期。あー、これからどうなるかな。』

『確かにやばそうですね。でも、事件現場になったぐらいで、此処まで神経質になるのはちょっと大げさですね。』

『被害者に疑点があった。』

『どっかのお偉いさん。』

『いいえ、唯のチンピラ、然し、排除令――』

『済みません。』窓口の外から声が聞こえて来た。

 そこに一人の男性が立っていた。みすぼらしげなスーツを着て、身長から顔まで、何もかもごく普通な四十代のオッサンしか見えなかった。

『何の用ですか。』制服じゃないから、何処から迷い込んだ部外者だと思い込んで、相手を舐めた態度で若い警官が話した。

 その時、年輩の警官が急に立ち上がって、愛想のいい笑顔を見せながら、礼儀正しく対応をとった。『お早うございます。呂さん。』

『お早うございます。あのーー、今週から新聞紙が全然もらってなかったなんですが。』

 年配の警官が申し訳無さそうに説明をした。『実際、恐喝事件のお陰で、市庁からの指令を随時に配らなければならないので、各部署への配達が少し遅れてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。呂さんの所の分、此処でお渡ししても宜しいでしょうか。』

『助かります。』男性が優しそうに笑った。

 散らかってる配達室の隅から、警官が新聞の畳みを男性に渡した。

 礼を言って、確認した後、男性が再び疑問を持ち出した。『あの、寒氷のものが見つかりませんけど。』

 年配の警官は少し考えてから応えた。『寒氷なら、大事件で騎士団が大騒ぎになってるそうです。その為、連絡係りまで総動員されて、他の仕事に回されたみたいんです。新聞みたいな一般資料は全部遅れてしまいました。こっちから取り寄せても宜しいですが、調達には二三日かかりますけど。』

『大至急じゃありませんので、連絡の復帰を待ちましょう。唯、この数日の分も漏れないようにしていただければ。そして、仰ってる大事件はひょっとして発掘事故のことですか。』

『お察しの通りです。沢山の死人が出て、騎士団に救援の義務などが課せられたらしくて、此処本庁も支援を派遣してるはずなんです。』

『大変ですね。では、失礼します。』と言い残し、男性が立ち去った。

 男性の姿が見えなくなった途端、警官が振り返って後輩に怒鳴りついた。『コーヒーなんか飲んでる暇があったら、さっさと仕事せんか。地下の配達はおめぇの担当だろう。』

『済みませんよ。あそこの配達ぐらいで、何で先輩が怒ってますの。ってゆうかあいつ誰。』

『第三編纂室の呂世良【ろせら】だ。何時も新聞配ってるのに、一度も会わなかったか。』

 頭を搔きながら、へらへらと笑って、青年は言った。『相当の気味悪い場所ですから、それによく留守居してるし、何時もドアーに置いてあげるようにしてます。考えてみたら、不思議に一回も会いませんでしたね。』

 先輩が絶句して、再び席に着いた。

 後輩は何かを回想して、新たな質問を投げ出した。『第三編纂室って、墓場と呼ばれてる所じゃありませんか。あそこの勤務ぐらいで、何で先輩は恭しく尻尾を振らなきゃいけないですか。』

『貴様、先輩に向かって何と言うことを――誰が尻尾を振ってたかぃ。礼儀正しく対応してただけだろう。仕事の基本じゃ。』

『はい、御免なさい、勉強になりました。理由教えてくださいよ。若しかして、先輩のギャンブル癖で、奴から莫大な借金でも負わされたとか。』

『黙れ。違うの。わし、あいつのこと、ちょっと尊敬してるかも。心から。』

『えー、あんな窓際族に。』

 先輩先ず業務窓口外の様子を一回確認して、それで低い声で語り始めた。

『お前みたいな新米が知らなくてもしょうがない。呂世良のこと。以前、この本庁の伝説に近い存在だった。彼は警官学校、騎士養成所じゃなくて、一般の大学を通ってた。卒業早々、直儀聖で先生として採用された。然し、一年も経たず、彼は転職を遂げて、この本庁の捜査一課にやって来た。もう二十五六年前のことだった。』

 若い警官は皺を寄せて、相当疑ってる様子。『こんな転職が出来ますかい。聞いたこともないんですぞ。又、他所の学校なら又よし、儀聖だぞ、僕だってそこに転職していきたいぐらいんです。給料の面は勿論、そして、将来の政治家、資産家のお偉いさん達と直接パイプが作れるし。あんないい仕事を捨てて、安月給、しかも危険な警察に転職を図る人間などいるもんか。学校で問題を起こして、追放されたじゃないですか。』

 先輩も考え事に落ちた。『そうだ、それは彼に纏わる最初の謎だ。』

『待ってよ、一課に転職したと言いましたね。本庁だろう。警官学校の一番の優等生だって、簡単に入れないです。僕も成績といい、面接といい、トップだったなんです。それでも、配達室に妥協しなければ、本庁に配属されないと聞きましたよ。素人の彼は何でスムースに入ったんですか。』

『妥協させて、本当にすみませんでしたね。現に、お前は配達ぐらいの仕事もちゃんと出来てねぇーじゃねぇか。』

『同期の中、実家の力に頼って、いいところに配属された奴が沢山いたから、悔しかったです。』

 先輩の後輩への視線はちょっと辛そうになって、口調も優しくなった。『そういう世の中だね、今は。俺もつくづく思ってる、君みたいな人材をこんな場所に置きっぱなしにするなんで、持たないことしてるなと。今年の異動に申請を出して見たら。』

『僕のことはどうでもいい、呂世良の話の続きを聞かせてください。』

『――まあ、配属されてきた時、彼と一緒に勤務をしたい人すらいなかったが、その状況は直ぐ変った。専門な訓練を受けてないこともないのに、素晴らしい才能を早く見せ付けてくれた。難事件を次々と解決するだけじゃなくて、武装対峙等の場面にも恐れず真っ先に乗り込む、明晰な頭脳と逞しい勇気同時に恵まれて、奴は生まれつきの警察だ。同僚からも信頼を寄せて、上層部からも熱い視線で見られるようになった。昇りの星のように、順風満帆の道を歩んでる最中、呂世良はある日、デッド事件の墓場と言われる第三編纂室に飛ばされた。それから、ずっとそこに潜り込んで、名前すら分からないぐたい、人々に忘れられた。』

『ほら、どんなに優秀であっても、一歩さえ踏み間違えて、上の機嫌を損ねた場合、こうなっちゃうでしょう。だから、此処で先輩と油を売って暮らすほうがいい。』

『売ってるのはお前だけだろう。ったく。呂世良異動の本当の理由はそうじゃない気もしたが、思い出せなくなった、一応同期なのに。当時の友人達にも聞いて見たが、皆忘れた。』と、溜息をついた。

 その話を聞いて、後輩も気が沈むように見えたが、又何かに気づいた。『妙ですね。昔は伝説であろうか、昇り星であろうか、今は唯の窓際族じゃ、美味しいところだけ持っていく先輩は何故彼に脅えてるんでしょうか。』

 不快な視線で後輩をちらと睨みつけて、先輩は窓口を見通して、真っ直ぐな廊下を眺めて、こう言った。『覚えてることもあった。彼はどんな場所にいても、一度も傲慢になったり、指図を出したりしなかった。俗世の関係などはどうでもいい、自分の目標だけ見詰めて、ひたすら歩いてた彼の姿を見たら、なんだか自分も癒された気分で、希望を捨て切れなかった。』

 二人は渋い顔をして、暫く無言のままコーヒーを飲み続けた。

『君達。』突然、窓口から声が聞こえてきた。

『お早うございます。副庁長。』今回二人とも起立して、一斉で元気のいい挨拶をした。

『お早う。先、呂世良がこの辺に来てなかったか。』副庁長と呼ばれた四十代の男が聞いた。

『はー、呂さんなら、エレベータの方に向かいました。編纂室にお戻りになられたと思っております。』先輩は話した。

 副庁長は頷いた。『彼と何を話してた。』

『寒氷都の連絡資料が遅れになりまして、確認にお越しになりました。』

『あ、そうか。』と、副庁長は何を考えてるか、俯きになった。

『因みに、全然別のお話なんですけど、今、儀聖学校は大変になってるそうで、息子さんは大丈夫でしょうか。』

『ご心配に及ばず、大丈夫だ。ご苦労様。』と、あまり話したくないように、副庁長は早足で行った。

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狩霊異聞録 奇獣怪談篇   @Tooki

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