狩霊異聞録 奇獣怪談篇  

@Tooki

序 堤耶の秘密 

 道舟平原――それは大陸東方にある一番豊かな都会・道舟【みちふね】管轄下の周辺地域の総称、豊饒肥沃な平坦地形が広がる一方、古き時代から黄金の大地と美称されてきた。穏やかな海岸線は時間と共に続き、澄まし切った紺碧な海原は永久の果てまで、創痍満目の大地を包み込み続ける。

 海岸線に一箇所だけ地勢が激しく高くなってる。環状山体は内陸へ凹んで、小さな内海を作り上げた。険しい断崖絶壁の上は太古の巨樹の林、下は青い海の湖、他所で絶対見られない唯一無二な絶景と評価されている。

 絶壁の頂上、茂った木陰の中にある古き荘園が聳えている。古色蒼然な十合荘が長い年月を経ても、依然として威厳壮麗を保ったまま、崖壁に佇む巨人の如き、浪一つ立たずの内海を見下ろして、嘗ての栄光歳月を語り続けてるように。

 十合荘の玄関を潜り、肌の黒い男が一人現した。

 男は四十歳前後、風に揚げられた白いワイシャツを越して、壮健な体が見え隠れしてる。男の一番の特徴と言えば、やっぱりその凛々しい目付きだ、まるで狩りの真っ最中の鷹一匹。狩りならしてるぞ、犯罪者という獲物を常に狩ってる。

 彼の名前は堤耶【ていや】、道舟騎士団所属の大騎士。

 騎士団と言うのは道舟の社会秩序維持から犯罪予防対策まで、そして刑事事件の調査に至って、治安を保つ為の執行機構のこと、言わば、警察庁同様な存在、四つの都【よつのみやこ】の中、東の道舟及び北方の寒氷【かんひ】は騎士団を設けてるが、残りの二つは警視本庁を設立してる。そして、大騎士は警部同級の階級となってる。四十の若さで大騎士になれたのが相当珍しいケース、それは堤耶の才能と努力の結果に違いない。

 首に紐でぶら下げられた一枚の鍵を握って、沿海午後の強烈な日差しを顧みもせず、堤耶は道に迷う子供のように立ち止まった。

『最後の最後、これを堤耶に渡して置きたいんだ。十合荘のある場所に、隠し部屋を作った。部屋の中で、君が求めてる真実が隠されてる。その鍵さえ持って行けば、きっと辿り付ける。』頭の中、叔母の遺言が浮かび上がった。

 物事がついた頃から、叔母が入退院生活を繰り返していて、最後、認知症まで罹られて、散々苦しまれた挙句、つい最近不幸な一生を終えた。病気のせいか、叔母は実際の年齢より遙に老けたように見えて、見た目だけではなく、彼女の臓器や身体機能なども百歳の老人近くまで衰弱していたと言う診断を受けた、六十も過ぎてないと言うのに。普通に年を取ってる様子じゃなくて、ある日を堺に急に老衰した。まるで一夜での出来事、誰もその原因が分からなかった。

 意識がずっとぼんやりとした叔母にして、言葉の意味があまりも明白すぎて、堤耶は半信半疑になって、詳しく問いかけてみたが、『君の記憶が蘇った時、道も開く。』と、意味不明なことしか話さなかった。

 翌日、叔母が死んだ。

 担当の医者と看護婦二三人しか出席しなかった寂しげな葬式後、堤耶は有給を使って十合荘にやって来たのも半月前のことだった。遺言を真に受けた訳ではないが、確かめたかった。

 此処十合荘は叔母にとって実に因縁深い場所だ。昔、大陸一番の財閥として、名高く知られる神家と呼ばれていた豪族があり、叔母の実家であった。当時、十合荘は神家資産の一箇所に過ぎなかった。叔母が生まれる前、神家が破産を経て、子孫達も彼方此方に流落するようになった。末裔の中、家族繁栄頂点のシンボルであった十合荘に何かの愛着を寄せて、手放し切れない人もいた。叔母の母はその一人。幼い叔母を連れ、使用人としてここで働いたこともあったそうだ。叔母にとって、十合荘は家族繁栄の記憶と言うより、子供時代の思い出になる場所かもしれなかった。小学校に行く前、叔母がある親戚に引き取られ、南点で生活し始め、そこで父に出会った。

 叔母が再び十合荘に戻って来たのは三十年前のこと。荘園が療養施設に改築された広告を目にして、父は入居の申請を申し込んだ。ここに叔母を預けたら、彼女の病気が少し良くなれるじゃないかと考えてた。叔母が此処で暮らすようになって、叔母を訪問する為、幼い堤耶も父に連れられて、月に二三回ぐらいここを訪れていた。

 叔母がずっと呆けてたわけじゃないし、此処での生活も長かった、意識のある内、ひょっとして何か残したかもしれないと思って、堤耶が考えた。

 気になることはもう一つあった。山荘立地の山に随所に咲き乱れている紫のアイリスの野花だ。偶然とは言え、父の母、お婆ちゃんの庭に、そして子供時代父と二人で暮らした家の庭にも、この花が植えられていた。有り触れた多年草だから、特別な意味なんか無いじゃないかと、然し、堤耶ははっきり覚えている、夜空の下、満開した庭を何時間も見詰め続けた父と彼の呟き言葉、【因果の花】。

 叔母の不思議な病気、父失踪の真相、自分が特別である理由、家族に纏わる一連の不可解なことの裏に一体何が隠されてる、答えを探し出す為、堤耶は来客用のホテルに泊まり込んだ。

 最初の一週間、堤耶は山を隅から隅まで徹底的に調査したが、手掛かり一つ掴めない結末。落ち込んだ堤耶は気分転換の為、施設定例のクルーズに乗ることをした。奇海と名乗った壮絶な海原を満喫する航海はずだったが、青空が急に曇り始め、クルーズは一瞬で荒れ狂う巨浪に見舞われた。船が転覆せずに済んだが、甲板で遊んでた一人の少年が海に落ちってしまった。救命ボートすら出せない波瀾万丈の海に、堤耶は自ら身を投げ込んだ。

 奇跡的に堤耶も少年も助かった。

 無事帰航後、堤耶の壮挙が間もなく広がり、マスコミで英雄として取り上げられ、上司の騎士長も十合荘に駆けつけ、表彰式まで挙げてもらった。その際、休みを延長してもらって、ホテルからも好きなように泊まってくださいと言われた。

 英雄なんかじゃない、俺にとって、あれは壮挙と言われるぐらいのことでも無い。申し訳無いと思いながら、堤耶が更に一週間を滞在したが、本来の目的が達成できなかった。

 明日に帰る。最後に遣りたいことがあった。山崖で囲まれてる内海を泳ぐこと。

 数十メートル高さの絶壁の下、神秘な海の一角が隠されている。こんな環境で、流石に隠し部屋がありそうも無い、考えられるのは海の底。然し、あんなことが出来るのは自分だけ。そもそも、叔母と言っても、父と血の繋がった親戚じゃない。更に、自分も父の血を分けていない。

『彼は君の本当の親父じゃない。時の記憶を背負わされて、唯一な生存者として、さぞ辛かっただろう。』二十年前、父の失踪を叔母に伝える時、叔母が泣いていた。無数な涙が真珠のように零れ落ちた。

 何の予告も無く、父がいなくなった。

 本当の親子じゃないこと、言われるまでも無く、少年時代既に薄々気付いていた。母のことに関して、いつも『君のお母さんもうこの世界にいない。』と言われただけ、それ以外、全然話してもらえなかった。それに、周りからも良く冗談半分で親父に似てないなと言われてる。

 然し、叔母の言葉で凄くショックになった、自分も信じないぐらい。

『血の絆が無くても、大切な家族であることに変わりがないぞ。叔母のほかにも沢山いた、仲間達。』と父が懐かしく語った。それは以前、叔母は本当の叔母ではないことを知った時、父が教えてくれたこと。

 今となって、やっと父の言葉を理解できるようになった。然し、その寂しさはどうしょうもできなかった。会いたかった、父と。だから、叔母の言葉を真実として飲み込もうとした。

 再び歩き出した堤耶は内海を俯瞰できる断崖に着いた。有名な観光場所として、何時も混雑しているけど、今日は灼熱な日差しのせいか、誰もいなかった。 堤耶が服を脱いで、水着パンツ一枚だけになった。衣類を芝生に隠して置いて、彼は断崖の縁に立ち、大きく息を吸いでからそのまま飛び降りだ。

 晴れ空に優雅な弧線を描いた一匹の魚のように、眩しく輝いている内海に差し込んだ。

 入水後、堤耶が崖壁を沿って垂直に潜り始め、自由自在に泳いだ。

 水面上の崖壁と違って、海の中の壁が海水浸蝕のせいか、穴だらけになって、海藻が隙間から長く伸びてきて、風に舞う柳の枝のように海潮の流れに揺れていた。何と言う綺麗な光景。

 潜れば潜るほど、穴が次第に大きくなり、人が通れるぐらいの洞窟もあった。何処へ繋がってるか、堤耶が想像を膨らませた。

 待ってよ、水中の洞窟、同じ光景は確か見たことがあるぞ、一体なんなんだろう、この不思議な既視感。

 騎士として、堤耶は無数な難事件を解決してきて、抜群な記憶力と鋭い観察力に優れた有能騎士と評価されている。記憶力に自信があると言って、実際、例外もあった。それは父に関する部分だ。

 二十年前、父の行方を探し出す為、彼は父の出身地から最後居なくなった場所まで、一つ一つの跡を追い求め、調査を行った。然し、どの地方の人間も父に関する記憶が曖昧して、まるで存在実体があやふやになってるようだ。父と二人で十年以上一緒に暮らした町の人さえ良く覚えていないと言っていた。最後に、堤耶自分も気付いた。思い出せないことが多かった。

 精神科に診てもらった結果、脳損傷などの病因が見付からなかった。その思いがあまりも重すぎて、心でその記憶を封じ込もうとしてるかもしれない、時間を置けば、自然に回復するだろうと、医者も手を挙げた。堤耶は納得できなかった、自分だけなら説明が付くかも、町の住人の場合は。

 然し、忘れた、調査行為までも、偶に思い出す時もあったが、何処まで調査してたか、何かの手掛かりがあったか、もう分からなくなった。思い出せるのは叔母に会う時だけ。

 記憶喪失が父に関することに限って発生する。叔母にもう会えなくなった、何れ父のことを完全に忘れ去るだろう。

 思考してる内、相当深いところまで来て、遥か遠い海面から照らし込んだ光が微かになり、水圧で体もだるくなり始まった。少し休んでいこうと、堤耶は偶々目の前にあった洞窟に入った。中に、魚数十匹が隠れっていて、仲良さそうに遊んでいた。堤耶の侵入で、皆一斉慌てて逃げ出した。堤耶は座り込んだ。

 どのぐらい経ったか、一時間、それとももっと長いか。

 自分が水の中でも呼吸ができる。高校時代で、学校のプールで溺水したことがあった。その時偶然気付いた。

『人は自分と異なるモノに対し、不安を抱くことは普通なんだ。時に、その不安が恐怖と成り代わって、嫉妬、憎しみに変化することすらある。その理由で招いた惨事が飽きるほど経験した。だから、約束して、その能力を絶対にばらさないこと。』

 父の言葉に賛同できないが、約束はちゃんと守った。そして、年齢と共に、自分も父の言ったことを経験して、やっと分かるようになった。でも、その秘密を知ってる第三者がいた。当時、プールで助けてくれた女性の先生だ。顔も名前が思い出せないが、優しくて、凄い美人であることだけ、そんな気がした。そして、父とは昔からの知り合いとのことも、いや、知り合いだけじゃなくて、もっと深い関係じゃないかとも、感じていた。

 その時、海流が急に肌寒くなって、堤耶は両手を組んで、腕を揉んでみた。揉んでも揉んでも、全然暖めなかったところか、体温がどんどん吸い込まれ、氷室に閉じ込められた気分になった。このままじゃやばい、泳いで逃げ出そうとする矢先、頭の中で又声が聞こえて来た。

『寒いか、これは雪だ。何、痛いだと、本当だ。でも寒さに耐えれば、体が丈夫になるぞ。こうして、世に与えられてくれた痛みや苦しみを全て経験しつつ、堤耶が立派な大人になって行くぞ。ははは、堤耶は未だ分からないかな、じゃ、父ちゃんと一緒に雪人を作ろうか。』

 あの日、父と一緒に、極北雪原の都―寒氷に観光しに行った日、堤耶は生まれてからの初雪を体験した。冷風を怯えて、ずっと父の懐に隠れていた自分に、父が優しく話しかけてくれた。その光景が目の前でもう一度起きてるように生々しくて、父の体温を感じてる、笑顔が見えるように。

 叔母以外、人との交際を殆どしなかった、自ら孤独を選んだ父も一人の騎士だった。生涯で無数な罪と戦ってきた。あらゆる地獄を見て来ても、優しい心を見失わなかった。

 刃物同然の極寒の氷水の中、必死に息を凝らしていた堤耶は急に悲しくなった。父の失踪後、その思いをずっと心の中に封じ込めていて、今の瞬間、決壊する堤防から押し寄せてきた洪水のように、堤耶を呑み込んだ。

 涙がぼろぼろと零れ落ちた。涙の粒が海水と接触すると、すぐ白い固体になって、堤耶の身体を沿って次々と転んでいた。

『人魚の涙は真珠に変わるそうじゃ。』涙一粒を手にしてる堤耶は叔母に絵本を読んでもらった時のことを思い出した。ごく普通なことなのに、堤耶が妙な胸騒ぎをして来た。

 同時に、洞窟の外から不思議な光が差し込んだ。

 堤耶が直洞窟から出て来た。

 少し離れた前方、海の中、ぼんやりとする人間の輪郭が二人見えた。

 左のほうは男性の体、上半身は裸となって、鍛えられた黒い体が逞しく見える。下半身にスカートみたいな白いガウンをはいている。右の方は女性の姿、同じ白いガウンで全身を包まれ、光を出してるのは彼女の金髪に飾ってる絢爛多彩な宝石だ。

 二人が堤耶に背中を向けて、顔を見せてくれる気配が一切なかった。

 驚いた挙句、堤耶が微動すらできなくなった。でも、懐かしくて仕方なかった。


『今夜だけ、真相を話してあげる。』父の声だ。

 落ち着いて考えよう、何時に何処かで、父が言ってくれた。

 了塚【りょうづか】。それは道舟平原の北部にある町、そこで父と二人で暮らした。溺水事件の間もなく、学校の修学旅行があった。卒業修学は有名な孤島サバイバル。確か、自分が参加した一回は最後となり、その後イベントがなくなった。

 修学中、自分が海に遭難した。あの時、深海に迷った自分を導いてくれたのは、目の前の二人じゃ。

 遂に思い出した、堤耶が大声で叫びたい気分だった。二人の傍へ近づけようとした。

 但し、女性がいきなり両足を動かして、次の瞬間、彼女腰以下の半身が青い魚尾に変わった。魚尾の揺らぎと共に、狂乱な潮が引き起こされて、二人も飛ばされた矢のように、急速に進行し始めた。

 見失うぞと思う途端、何処から湧いて来たも知らない暗流が堤耶を乗せて、二人の後を追って行かせた。

 激しい暗流のお陰で、急行の二人と距離を保ったが、通路中無数な洞窟を通り抜けなければならないのだ。少しでも油断したら、崖にぶつかって砕身粉骨の羽目になるから、水流の中、堤耶が一生懸命体勢を整えていた。漸く洞窟地帯から抜け出した時点、堤耶は既に疲れ切って、指を動かせる気力すらなくなった。彼は暗流に身を任せて、そのまま流されて前に進んだ。

 どこかまで来てたか。水面下なので方向感が鈍くなってたが、一応山の方へ進行してる気がした。十合荘の下か。女性の宝石から発した光以外、何も見えなかった。黄色、赤い色、青い色に変わりつつある光、なんだか救急車、或いはパトカーに似て、堤耶は良く馴染んでいる物だ。

 しとしとと降りかかった雨、遠いサイレンの音、救急車の光。記憶の断片が走馬灯のように、堤耶の頭に浮かび沈んでいた。

『明日になれば、全部忘れてくれるはずじゃ。堤耶だけじゃなくて、周りの人達も。』

 修学旅行最後の夜、何かの事件で、学生だけの孤島に大量な騎士、医者が駆けつけて来た。その時、一回だけ、父が自分の過去を話してくれた。

『君の本当の父も水中で呼吸できる。でも、君の能力は彼から受け継いだものじゃない。同じことが出来ても、理由が違う。奴が有名な浪花【ろうか】で育てられて、凄い金持ちの坊ちゃんだった。ちょっと変ったこともあったが、俺が知ってる一番優しい奴だ。』

『彼もハンターなの。』

 その夜、徹夜で父と話し合った。自分の身上も初めて聞かされた。然し、父の言った通り、完全に忘れていた。今もはっきり思い出せない。

 洋面に近づくと共に、乗り物の暗潮も消えた。水泡の吹雪の中、前の二人は再び煙のように姿を晦ました。

 遣り切れない気分で、堤耶が一人で上陸した。

 此処は山体の内部に出来た巨大な洞窟だった。真上から差し込んだ日差しで、目の前の狭い一本道が見えた。微光に頼って堤耶が歩き始めた。歩ければ歩くと、光が段々強くなり、仰いで見ると、山体の狭間も何時の間に広くなった。最後、堤耶は崖壁で囲まれた広場みたいな行き止りに辿り着いた。この場所正に内海と瓜二つのように似て、違いと言えば、海じゃなくて、岩の地面と変ってる。

 山があることから、未だ十合荘の周辺にいるだろう。が、先日探索してる際、こんな割れた峡谷が見つかなかった。施設と観光地以外、山に通行禁止な処が多くて、もしこんな危険な場所があったら、絶対何かの標識を設けてるはずじゃ。堤耶が困惑してた。

 考えてる内、目の前が真っ黒になった。上からの光はなぜか消えた。

 一体何が起きてる。

 胸が熱くなってきた。いや、胸じゃなくて、そこに当ててる鍵だ。そして、熱くなっただけじゃなくて、光も出した。炎のような高熱に耐えず、堤耶は紐を解かし、手で鍵を持った。何でこうなったのも知らなくて、取り合えず光を借りて、もう一度周辺の状況を確認してみた。頭の上、光を漏らしてくれた狭間がなくなった。此処は峡谷なんかじゃない、山体内部の巨大洞窟であることを理解した。

 先見た光景は全て幻か。叔母、この鍵一体何なんだの。

 と、叔母のことを思い出したら、目の前に女性の姿が現した。すんなりとして痩せた体とその短髪。姿が現したり消えたりして、輪郭しかなかったが、叔母であることは分かった。

『叔母今は病気で苦しんでるだけ、実際はのこ世の中で一番賢い人間だぞ。元気になったら、元に戻るじゃ、その時、沢山のことを教えてもらおうぜ。』

 父は何時もそう言ってた、確信していた。結局、父が求めてる日がとうとう来なかった。幻であっても、堤耶が懐かしくなって仕方がなくて、その姿に近づけようとした。が、その前に、姿が消え去った。

『どうして父ちゃんは叔母の看病をしてるの。』

『唯一の家族さ。もし、病気になってるのは父ちゃんだったら、叔母も同じことしてくれる。もし、父ちゃんがいなくなったら、堤耶が代わりに叔母を守ってくれるかな。約束してくれる。』

『守る。約束する。』

 最後の最後まで守ったぞ。親父。約束を果たして見せた。だから、教えてくれ、あなたの記憶、あなたの仲間の全て。背負わせてくれ、あなたが背負ってきたように。今回、俺は覚えてあげる。

 祈りが届いたか、堤耶が面してる壁になんだか古い扉みたいな輪郭が現した。扉の隙間から光も差し込んでいた。

 堤耶が壁に着いた時、輪郭が完全に具体化して、扉に成り果てた。考えもせず、堤耶が扉を開く中に潜り込んだ。

 扉の後ろに二十平米ぐらいの部屋があって、壁と地面が同じサイズの四角石板で装飾されていた。部屋の真ん中、巨大なテーブルがあって、周りに様式の揃った椅子も幾つ置かれていた。

 照明は壁にあった十個弱の灯台、灯台自身は飾りに過ぎない、電球や火焔などではなく、灯台の上に浮いてたのは正体不明の光の玉だ。霧のようなものに触ろうとすると、直ぐ暗くなるが、手を引くと、間もなく元の明るさに戻。実に奇妙な物だ。

 堤耶が手元の鍵を確認しようとする時、鍵がなくなったことに初めて気づいた。握ってるのは一本の紐だけ。

 間違いなく、叔母の言った密室だ。

 テーブルの上に、散乱する紙が山積みになって、それ以外、特別なものは無さそう。堤耶は手当たり次第で一枚取って一瞥したら、父の若い時の名前が書かれていたことが見えた。

 叔母が書いたか。椅子に腰をかけて、紙を研究してみようと決めた堤耶。

 堤耶が座った途端、小屋の扉は『バー』と自ら閉まった。部屋の中の何処かから途轍もない狂風が噴出した。テーブルの上の手稿が狂乱に飛ばされ、灯台の光線も暗くなった。

 堤耶が本能的で目を潰し、両手で頭部を遮った。

 数秒後、風声また勝手に止んだ。

 堤耶はおどおどと目を開き、部屋を見渡した。

 照明が回復して、先まで散らかっていた紙山は何と一積み、一積みに整理され、自分の前で行列になってずらりと並ばれていた。何と無く分かる気がして、堤耶は一番近い手稿束に手を伸ばした。


 あの時のこと、焼印のように俺の心に刻んでいた。

 あの繫華無尽、危機千万の世界で、無数な友の祈り声の中、俺らが命を捧げて創った悲壮な楽章。

 戦いの歴史上、運命の流れに呑み込まれた少年達、未だに夜空に輝いている。


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