後編 優しく、教えてね?
結局、あのあと、圭くんと顔を合わせることができなくて――万里ちゃんたちには『急用を思い出した』なんてありきたりな言い訳でごまかして帰ってしまった。
圭くんから電話が来ても、あの話をすることもできず……会おう、ていう誘いも断ってしまった。
だって、次に会ったときは、圭くんの期待に応えてあげたい、て思うから。ちゃんと準備しておこう、て思ったんだ。
でも、どうすればいいか分からなくて……お姉ちゃんに相談した。――それが、間違いだったのかもしれない。
「え……なんで?」
ベッドの上で仰向けになったまま、圭くんは目を丸くして唖然としていた。いつもなら、会うたび、「印貴――」て、どこかホッとしたような暖かい笑みで私を迎えてくれるのに。
当然だよね。この状況で、再会を喜ぶ余裕なんてあるわけもない。目覚めるなり、私が上に跨ってたら……。
絶対、おかしい、て思ったんだ。こんなの、間違ってるって。でも……お姉ちゃんが『とりあえず、跨っときゃ何か始まるから、あとは圭くんとノリに任せなさい』――てお酒片手に言ってたから。恥ずかしいのを我慢して、まだ寝てた圭くんに乗っちゃったんだけど。
何も始まらないし……明らかにこの状況、不自然すぎるよ、お姉ちゃん! 寝起きにすることじゃなかったのかな? タイミングが違った? 跨る……て、お腹の上じゃなくて、背中だった? でも、それも変だよね?
どうしよう……とりあえず、降りたほうがいいかな。だって、絶対、何か間違ってるし。圭くん、金縛りにあってるみたいに固まっちゃってるし。なんか……これじゃ、私、悪霊みたい――。
「ご……ごめんね! 圭くんのお母さんが……中、入れてくれて。まだ寝てるけど、起こしていいから、て……。でも、いきなり……こんなこと……びっくりさせちゃったよね」
あまりに恥ずかしすぎて泣きそうになってしまった。堪らず、ふいっと顔を背けて
ぎゅっと手首を掴まれ、振り返れば、
「また……夢かと思った」
まだショックは抜けきれていないようで、目をぱちくりとさせながらも、圭くんはぼんやりと呟いた。
『また』……?
「全然状況が掴めないんだけど……とりあえず、幻覚じゃないんだよね?」
疑るように目を薄めて、圭くんは私の顔をじっと見つめてきた。
「ホンモノ……です」
かあっと顔が赤らんでいくのが自分でもはっきりと分かった。身の置き所がないとはこのことだ。自分から圭くんに跨っておいて、どうしたらいいか分からず途方に暮れるなんて。情けないやら、惨めやら……。もう穴があったら入りたい……。
「それなら」と、圭くんはゆっくりと上半身を起こすと、後ろに手をつき、「とりあえず――おかえり」
照れたように浮かべる不器用な笑みには、まだ動揺が残ってるようだったけど……まっすぐ私に向ける真摯な眼差しには、これっぽっちも迷いがなくて、それだけで私はホッとしてしまうんだ。
ここにいれば大丈夫、てそう思える何かが彼にはあって……。傍にいると、まるで新緑の中にいるような、清々しくて落ち着いた心地になるんだ。この雰囲気が大好きで、彼の隣にいるだけで居心地が良くて満足してしまう。
今なら、それが問題だったんだ、て分かる。こうして、何があろうといつでも受け入れてくれる圭くんに……この居心地の良さに、私、甘えすぎてた。だから、きっと、圭くんにずっと我慢させちゃうことになってしまったんだ。
「で……この状況は、いったい……?」
言いづらそうに訊ねる声に、そうだった、と私は居住まいを正すように背筋を伸ばし、
「ご、ごめん……お姉ちゃんに、これが一番だ、て薦められて……」
「蘭香さんに……? なるほど……」
違う、違う。そういうことじゃなくて。今、伝えなきゃいけないのは……。
この先、何があるのか。考えただけでも、怖い。不安な気持ちはまだ残ってる。でも……それ以上に、私は圭くんを信じてるから。
「実はね……昨日、学校で森宮くんと話してるの聞いちゃって」
そう切り出すと、途端に圭くんの顔色が変わった。明らかに顔がひきつり、視線が泳ぐ。
「ああ、そっか。もしかして、それで……昨日、『会えない』って……」
「うん」と、私は俯いた。「私にできること考えなきゃ、て思って……いろいろ、調べたり、お姉ちゃんにも聞いたりして……」
「え!? いや、そんな……そこまで印貴にしてもらわなくても……」
「圭くん――」跨ったまま、私は圭くんをじっと力強く見つめた。「私も分からないことばかりだけど……知りたい、て思うの。圭くんと……知っていきたい。だから……二人で、少しずつ、進めていかない?」
まだ寝ぼけてるみたいに圭くんはぼうっとして私を見つめていた。その目は相変わらずまっすぐに私を見つめるから……その視線に焦がされるみたいに、胸の奥が熱くなってくる。
「そっか」ようやく口を開いた圭くんは、恥ずかしそうにぎこちなく微笑んだ。「そんなふうに考えたことなかった。二人で……一緒に勉強すればよかったのか」
「うん。私……覚え悪いかもだけど。あの……が、がんばるから。優しく、教えてね?」
きゅっと圭くんのシャツを掴んで、おずおずとそうお願いすると、圭くんは急に顔をぼっと赤らめ、あたふたと慌て出した。
「いや、俺が教えられることなんて……何も無いと思うけど! てか、この……この状況はいろいろまずいというか……そんな気分に全然なれないっていうか……俺もそろそろ限界、ていうか! 全く違うこと始めたくなってしまうので、やめたほうがいいかと……!」
「そ……そうなの!?」
全く違うこと!?
やっぱり、違うんじゃない、お姉ちゃん!? まさか、またからかわれただけ? お姉ちゃんに聞くんじゃなかった。圭くん、困らせちゃっただけだ。
「ごめんなさい!」
慌てて退いて、私はベッドから降りた。
「いや、謝らなきゃいけないのは俺の方で……蘭香さん流に起こしてくれただけなのに、変なこと考えてしまって……」
「変なこと?」
振り返れば、ちょうど、ベッドから降りてきた圭くんと目が合って、
「な、なんでもない!」と圭くんはごまかすように咳払いして、ベッドの脇にあるデスクへと向かった。「とりあえず、見せるよ」
「見せる?」
突然、何?
ぎょっとして、思わず、身体を強張らせてしまった。
「な……なにを?」
参考書やらノートやらが散らばるデスクの上でごそごそと漁る圭くんの背中を見つめながら、私は恐る恐る訊ねた。
すると、
「あとで驚かせたくないからさ。どれだけ溜まってるか、見せといたほうがいいかと思って……」
「へ……え!? み、見せれるものなの!?」
「そりゃあ、まあ……」
戸惑いがちに言って、振り返った彼が「よ」と傍にあるローテーブルに置いたのは――。
「これ……なに?」
そこには、何冊も重なった分厚い本が、今にも崩れそうになりながらも高々と塔を作っていた。
古びて色褪せた背表紙から、新品同然のものまで。色とりどり、サイズも様々、おそらく年代もバラバラな本がずらりと連なっている。
唖然としながらも私は腰を下ろして、まじまじと見つめてしまった。よくよく見れば、読んだことがあるものや、聞いたことのあるタイトルが並んでいる。どれも著名な作家のものばかりだけど……圭くんのイメージには合わない。そもそも、読書好きじゃなかったはず。
「現国、松田の鬼課題だよ」と隣に腰を下ろして、圭くんが疲れたような声で答えた。「三年になってすぐに呼び出されてさ、何かと思ったら、『お前はすでに落ちている』とか言われて……これ渡されたんだ。明治から最近のものまで、松田の偏見と独断と勘による『センター試験に出題されそうな文学作品一〇選』だって。これを全部読んで、夏休みが終わるまでに感想文を書け……と、さもなきゃ、浪人だ、て」
「ええ……!?」
さもなきゃ浪人、ていうのは、さすがに脅しだろうけど……でも、これだけの課題を個別に出される、てことは――。
「圭くんって……現代文、苦手?」
「苦手っていうか……文字がたくさんあると眠くなっちゃって、いつも赤点で」
「苦手――どころじゃないんだね」
さっきまで胸の奥で感じていた昂りはすっかり落ち着いて、今は全く別の胸騒ぎがしていた。
「どこまで……読んだの?」
嫌な予感がしつつも、訊ねると、
「どれから手を出せばいいのかも分からなくて……」
「どれも読んでもいない、てこと?」
いつの間にか正座になってる圭くんの様子を見てたら、聞かずにも分かるけど。
「遊んでる場合じゃ、ないね?」
「おっしゃる通りで」
「夏休みはもうデート禁止だね」
からかうようにそう言うと「ですよね」と圭くんはがっくりとうな垂れた。
「そう言われるかと思って、黙っていたところもありまして」
そういえば……森宮くんにもそういうこと言ってたな、と思い出す。私が不安になって、会うのを躊躇うかも――とかなんとか。
そりゃ、躊躇います。こんな本の山を見てしまったら……と私は苦笑してしまった。
「去年の夏休みも大してデート出来なかったし……今年はいろんなとこ、連れて行きたい、て思ってたから」
「うん。楽しみにしてたんだけどな……」
言うと、圭くんの身体がみるみるうちに縮んでいくように見えた。
ちょっと、いじわるしすぎかな?
もう反省しているようだし――。
私は圭くんにそっと寄り添い、膝の上に置かれた拳に手を触れた。
「でも、夏はまた来年もあるし。デートしなくても、一緒にいられれば私は嬉しいよ」
「印貴……」とこちらを見下ろす圭くんの顔には色味が戻って、その瞳にも輝きが戻っているように見えた。
和らいだ表情から溢れた笑みは安堵に満ちて、拳からも力が抜けていくのが手のひらを通じて伝わってくる。そんなに分かりやすくホッとされたら、こっちまで気が抜けてしまうよ。
「なんか……自分が恥ずかしい」
ゆるんだ彼の拳の隙間に指を滑り込ませるようにして手を繋ぎ、私は彼の肩に頭をもたれて瞼を閉じた。
「私ばっかり、変なこと考えてて」
「変なこと……?」
「キスの先のこと……その続きもしたいな、て思っちゃった。今日もそのつもりで来たの」
びくっと彼の肩が揺れるのが分かった。
「印貴……?」と呼ぶ声もこわばって、繋いだ手に心なしか熱がこもっていくのを感じた。「それって……」
あ――ダメだ。こんなこと言ったら、また困らせちゃう。
ハッとして目を開け、私は咄嗟に彼から身体を離した。
「でも、もう大丈夫! そんな場合じゃないよね。学生の本分は勉強。そういうことは、ちゃんと受験が終わってからにしよう」
「へ……」
振り返れば、圭くんはきょとんとした顔でこちらを見ていた。なぜか、繋いでいない方の手が宙を漂っている。なんだろう、手が痺れたのかな……?
「あの……印貴……さん? 受験が終わってからって……」
「うん! そのほうがいいよね? ちゃんと勉強して、二人で合格してからにしよう?」
「いや……え、でも……今日はキスの続きをするつもりで……いらっしゃったと……」
「そう。そのつもりで、ケータイも家に置いて、今日は一日空けてたの」
「一日、空けてたの!?」
「だから、今日はたっぷり勉強できるよ」
「たっぷり……勉強……」
「実は私も溜まってるんだ。――数学の課題」
ふふ、と、つい笑いが溢れた。私も圭くんのこと責められないな。苦手な数学だけ、全然進んでないんだから。
そうと決まれば……と、私はすっくと立ち上がった。
「ケータイも置いてきちゃってるし。課題とか参考書とか、いろいろ取りに行ってくるね」
「いや、あの……印貴……!」
「初めての――勉強会だね」
照れ臭いのを堪えながらそう言うと、圭くんは笑ってるのか、困っているのか、よく分からない表情で「そうだね」と力無い声で答えた。
*あとがき*
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。番外編まで見届けていただいて、大変嬉しく思います。
二人が付き合い始めた暁には、勉強会を! という使命感のようなものを感じていたもので。どうしても、勉強会ネタだけは書き切らねば……と書いてみました番外編でした。(最終章が少し重めだったので、軽い話を最後に……という思いもあり。)これで思い残すことなく、完結することができます。
読んでくださった皆さまが、少しでもクスリと笑っていただけるような作品になっていれば、と願うばかりです。
重ね重ね、最後までお読みくださった方、ここまで応援してくださった皆さま方、コメントやレビューを残してくださった皆さま方、本当にありがとうございました。また他の作品でもお目にかかれれば、光栄に思います。
あまのじゃくの恋 立川マナ @Tachikawa
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