本山らのと狸の恋
七条ミル
本山らのと狸の恋
山の狸である吉兵衛は、許されぬ恋をした。
今吉兵衛は、大学に居る。正確な住所など狸である吉兵衛など知らぬが、兎に角吉兵衛は大学に居るのである。狸の姿のままでは、大学に入ってもキャンパスの中を歩くのは困難であるから、いまどき珍しく、吉兵衛は人間に化けていた。人間に化ける動物も、今では少なくなってきたのだ。
そんな吉兵衛が大学に忍び込んだ目的はと言えば、とある人間、否、とある狐を見るためである。
これが冒頭、許されぬ恋と言った理由である。
吉兵衛は、あろうことかその狐に恋をしたのだ。
吉兵衛は、腐れ大学生に化けていて、適当な講義に紛れ込んでいた。講義室の中には、目的の狐は見当たらない。吉兵衛にとって重要なのは狐なのであって、講義などなんの興味も無い。一刻も早く、講義室を抜け出したくてたまらなかった。これが人間界でなかったのなら、間違いなく適当なものに化けてやり過ごしていたであろう。しかし、人間は、動物は化けぬと思い込んでいるのだ。否、化けるということを、迷信だと思っているのだ。迷信だと思っている人間たちに、わざわざ狸は化けるものですなどと言うのは、あまり良いこととは思えぬ。というか、長老から直々に、くれぐれもばれるなと、言いつけられているのだ。
退屈な講義が終わり、吉兵衛は急いで大学図書館へと向かった。目的の狐が居るとするならば、ここだろうと思ったのである。あの狐は、本、とりわけライトノベルが大好きなのだ。
図書館の、比較的手前のあたり。ライトノベルのコーナーの前で、適当な本を選んで吉兵衛は椅子に座った。今のところ、狐は見えない。しかし、必ずあの狐は来ると、吉兵衛には謎の確信があった。
あの狐に恋をしたのは、いつのことであったろうか。吉兵衛が、山を暇つぶしに隅から隅まで散策していたら、いつの間にか放置された神社に居たのだ。そこで狐を見た。狐を見たといっても、狐の姿をしていたわけではない。殆ど、人間の姿であったが、その頭には耳が生えていて、尻尾も生えていた。裾の短い和服を着ていて、肩が出ていた。腰には、人間が大昔に作った狐のお面が提げられていて、大きな丸眼鏡を掛けていた。そして何よりも、おっぱいが大きかった。狸は、そういう話が大好きである。
兎に角、そんなような狐を見たのだ。あれは、人間ではない。
そもそも、あの神社は、何百年と昔に神主が死んで以来、誰も管理する者が居なかったはずで、妙に綺麗だと思っていたら、あの狐だったのだろう。
そしてあの神社は、不思議な力を持っている。この世だけではない、人間が仮想現実と呼ぶ世界、文字通りの異世界、色々な世界と通じているのだ。
で、吉兵衛はただその狐が立っていた様子を見ただけだったのだが、吉兵衛は一目惚れをした。名も知らぬ、その狐を吉兵衛は追いかけた。
何故吉兵衛がその狐の素性を知っていたのかといえば、それは人間の間で急速に普及したインターネットとかいうもののおかげであった。
その狐は、インターネットの動画投稿サイトで、「ラノベ読みVTuber」として活躍していたのだった。VTuberとは、バーチャルユーチューバーの略であるが、狐はそれだけに飽き足らず、現実世界に於てもその才能を遺憾なく発揮し、そして活躍していた。
そんなだから、吉兵衛は益々狐に興味を持った。
その狐は名を、本山らのと言う。
ここで現代に立ち返ろう。
吉兵衛は相変わらず、らののストーキングに勤しんでいた。
しかし、もう夕方になろうというのに、未だらのは図書館に姿を現していなかった。見誤ったのであろうかと、吉兵衛が帰り支度を始めていると、件の狐らのは、漸く図書館に姿を現した。しかし本のはライトノベルコーナーには目もくれなかった。ライトノベルコーナーを素通りし、そして、吉兵衛のほうへ向かってきたのである。
吉兵衛は混乱した。当然である。恋する狸である吉兵衛の許に、その想い人であるところの大学生狐が向かってきているのである。そして、そのまま、らのは吉兵衛の向かいに座った。
吉兵衛はといえば、もう鼓動が大変なことになっていた。すぐに死ぬかもしれないと思った。というか、これでは
ここで吉兵衛の変化が解けてしまえば、人間に吉兵衛の正体がバレてしまう。しかしながら、想い人が目の前に居る状況というのは非常に惹かれるものがあるわけであり、とりわけ狸と狐なんという接点がほぼ無い者同士であるから、この機を逃せば――という思いも、少なからず吉兵衛にはあった。――ジレンマである。
吉兵衛は、暫しらのの丸眼鏡を見ていた。
ここで、吉兵衛に、一つのアイデアが思い浮かんだ。
まず、今、らのに自分の今の姿を印象付ける。次に、らのが神社へと帰ってきたところで、この姿と同じ姿でのこのこ出て行くのである。こうすれば、おやあなたは、なんてことになるはずであると、吉兵衛はそう踏んだ。
そうと決まれば善は急げとガタっと立ち上がり、普通に椅子に躓いてコケた。
「だ、大丈夫ですか!?」
コケて身体中が痛いというのに、吉兵衛は暢気にらのの声、いいなあ、なんて考えていた。
らのに手を貸してもらい、うへえと情けの無い声を出しながら、吉兵衛は立ち上がった。
「し、尻尾が!」
らのに言われ、吉兵衛は漸く気づいた。尻尾が、出ていた。
うへえ、とまた情けない声を出して、吉兵衛は尻尾を仕舞った。
「ん、その本は――」
らのが手に持っていた本は、ラノベじゃなく、有頂天に上った京都の狸がどんちゃん騒ぎをするあの本であった。
「狸の本を読むんだ」
尻尾を仕舞って落ち着いた吉兵衛は、一気に冷静になってらのに尋ねた。
「どういう意味ですか、それ……もしかして、バレてます?」
「まあ、私も先ほどご覧のとおりだもんで、へぇ」
「…………」
らのは後ろを向いて、一瞬だけ尻尾を出して、そしてまた吉兵衛のほうを向いた。
「図書館に人が居なくてよかったです。私、本山らのって言います。よろしくです」
「あっしは吉兵衛です」
吉兵衛はまたうへえと情けの無い声を上げた。
「図書館ではお静かにお願いしますね」
少し離れたところから、ちょっとらのよりも背の小さい、まだ若い司書が声を掛けてきた。その司書もその司書で、声に非常に聞き覚えがあったが、これは沼だなと思って吉兵衛は思考を放棄した。なんというか、ここにその人が居ると、色々と整合性が取れない気がしたのだ。
「そ、それではあっしはこれで、ええ」
吉兵衛はそそくさと、大学の図書館を後にした。あとは、山に帰って、そのあと神社へと行けばいいだけである。
そういえば、あの神社の名は羅野神社と言った。もしかしたら、本山らのという名の由来は、神社であるのやもしれぬとなんとなぁく思った。
狸の姿に戻って、山を駆け上る。
神社のすぐ近くの茂みで、吉兵衛は調子に乗って浴衣を着た人間の姿に化けた。狸の姿のままでいいと言えばいいのかもしれないが、そこはなんとなく、吉兵衛は人間の姿になった。らのも、きっと人間の姿でいるだろうと踏んだからである。
化けすぎた動物は、元に戻れなくなることさえあると言う。
――らのがそうなっていないといいのだが。
稲荷神社特有の乱立する鳥居のしたを通り抜けて、だいぶ古びた拝殿の前、賽銭箱の前の石段にに座る。なんとも風が心地よくて、拝殿や本殿に入れば雨もしのげる。なるほど住処には最適である。あまり大きな神社ではないし、神主も生きては居ないというのに、絵馬掛けには沢山絵馬が掛かっているし、境内の掃除も行き届いている。
生活感ではないが、それに似た、けれど違う性質を持ったものを吉兵衛は覚えた。
それから暫くして、らのはやはり、人間の姿で、けれど耳と尻尾を出して帰ってきた。時々三派客があるとは言えど、この神社の中では少しは巣の自分を出せている、ということなのだろう。尻尾の先は、白くなっていて、元の狐のときの姿をなんとなく想像できる色合いだった。
「おや……? えーっと吉兵衛さんでしたっけ」
らのが吉兵衛に気づいて、その小さな顔の横で手を振った。それだけで吉兵衛は死ぬかと思ったが、なんとか死なずに耐えた。吉兵衛は呼吸を整えながら立ち上がり、平静を装って頭を下げた。当然のことながら装えていないのだが。
「もしかして、この山に住んでいらしてる、とか……?」
「もしかしますねぇ。結構前から、僕は一方的にらのさんのことを知ってたんですよ」
本山さんと言うか、らのさんと言うか迷った挙句に、結局吉兵衛はらのさんと呼んだ。
「そうだったんですね、なんだか運命みたい」
吉兵衛はどきりとした。
「運命といえばですね――」
らのは、そこからとある大学生作家の新作について、暫し語った。生らのが目の前に居て、そして自分に向かって本の紹介をしているという状態だけで吉兵衛はいっぱいいっぱいで、内容は何ひとつとして入ってこなかったが、なんとなく面白そうな本だとは思った。
「む!?」
らのが、おもむろに懐からメタル栞を取り出した。ご当地なんかで売っているアレである。
「アマ○ン星ひとつレビューの気配が!」
らのが行きましょうと言ったから、吉兵衛はそれに追随する形で走り出した。
そういえば、確かにらのは配信で、くノ一をやっているとかなんとか、言っていたような気がする。吉兵衛も、よもやそれが本当だとは思っては居なかったが。こういうものは、嘘と真の境界が曖昧になるものであって、よくよく考えてみれば吉兵衛自身が化けているのも、人間から見れば嘘であるはずなのだから、そういうものなのだろうと割り切ることにした。
らのは、神社よりも確実にボロボロになったアパートに入っていって、シュッとベランダに飛び乗った。その様子はまさにくノ一そのものであった。吉兵衛もそれに負けぬようそこまで跳ぼうとしたが、手摺につかまるのがやっとであった。
「ア○ゾン星ひとつレビューを狩るくノ一、本山らの参上!」
鍵の掛かっていなかった窓を開け放ち、らのは大音を上げた。
吉兵衛は、自分が今どういう状況にあるのかわからなくて、なんとなくらのがメタル栞で戦っている間に、星ひとつレビューを星二つくらいに変えておいた。もうやっつけである。
吉兵衛が神社に戻ってきた頃には、もうへとへとであった。ふとらのを見れば、どうやららのにとっては大したことでもないようで、何事も無かったかのように拝殿のところでラノベを読み始めた。
――ああ。
吉兵衛は理解した。
――らのさんって、忙しいのだな。
とてもじゃないが、自分の手に収まってしまってはいけない人だと思った。らのは、あれでいて、まだ対外的には十九歳であるというから、やはり、すごいのだろう。もうよくわからなかったが。
吉兵衛は決めた。
――これからも、片思いしていこう。
本山らのと狸の恋 七条ミル @Shichijo_Miru
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