後編 彼の吐き出す花

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 彼女に何度謝ったって、なんの償いにもならないだろうと僕は思う。

 僕の病気、君の傷。さすがに自分の病気がどんなものか、知らない訳ではない。

 とにかく冷たく暗い水の中に沈みたい。どんな欲望より甘美な誘惑にすり替わるその衝動。それで頭がいっぱいになってしまう。空気のある地上が息苦しくて、なぜ入らせてくれないのかと、理不尽な怒りすら浮かぶ。

 特効薬はない。衝動が治まるのは、怒りを傷として彼女にぶつけてからだ。

 他人を傷つけてまで生きたくないと溺死を選んでも、彼女が文字通り体を引き揚げてしまう。朦朧とする中で見出だしたのは、衝動をそのまま文字にすることだった。

 沈みたいという甘美な欲望の見せる幻影と、収集した病の知識や女性たちの嘆きを基にした登場人物。己の中に住む暴力性と幼児性の暴露。そこに一筋の希望をパンドラの箱よろしく差し込んで描いた物語。

 物語を書くことと、医療的な措置、どちらも行うことで、毎日のようにふらふらと水辺に出歩くことは大幅に減った。

 しかし、だ。

 物語の出力は思いのほか上手くはいかない。内にある感情を言語化し整えるのには、技術を整えることや気力を維持するのが必要だった。だから衝動を完全に昇華するのは不可能で、病院に居るようになっても彼女を必要としてしまった。

 入院し、わざと絵を見せて衝動性をあぶりだし、彼女が僕を言葉と体のぬくもりで治めてくれる「」で僕は生きながらえた。彼女はそれを悟られぬようにと気を使っていてくれる――結果、それに甘えてしまう自分がいた。

 このままでは、彼女の人生を、時間を、いたずらに浪費してしまう存在にしかならない。

 不幸だと悲劇のヒロインを気取りたい訳ではないからこそ。

 だから僕は、貴方の時間を奪わずに生きていたい。僕にできることはなんだろう。苦しみから生まれ出る名前の付けがたいそれを、形にして綺麗に表したい。

 それが、物語の形になるのなら。

 たぶんそれが、僕が水の誘惑に背を向けられる方法だと確信しているから。

 


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 年月が過ぎ、彼の名で一冊の本が世に出た。

「オフィーリアの花輪」と題されたそれは、オフィーリア病に侵された女性の感じる世界を、美しく、儚く、だがどこか痛みを感じさせるように描いた連作集だった。

 最後に記された一編だけ趣が違う。女性とも男性とも取れる描写で表現された人物が語り手だ。

 その人は水に儚く浮かぶ花たる彼女たちの話を優しくすくい上げようとするが、水の重さや冷たさ、泥に足を取られ上手く花を手に出来ない。

 そのまま水の中に沈みたい衝動を抑えながらも、何度も花をつかもうとする。しかし手に入れた瞬間、力尽きて深く沈んでしまう。水をたくさん飲んでしまったそのとき、輝く手が引き揚げる。地上に戻ってきたその人が水を吐き出すと、それは花に変わった。

 苦労してつかんだ花と、吐き出した花を編み上げて、一つの花輪にしたそれを川に流すところで本は終わりを迎えていた。



 数年ぶりの川のせせらぎを聞きながら、私は彼の本を読み終えた。夏至である今日は、昼が長いから、空はまだ明るい。

 河原にあるベンチに座る私の傍らには、穏やかな微笑を浮かべた彼がいる。

「僕と繋がっていてくれてありがとう」

 彼の顔は歳を取らず、やはりどこか儚いままだ。綺麗に整え、ゆるくまとめた長い髪が、緩やかに風に揺れる。

「髪、切らないの」

「願掛け。髪を伸ばしていたら、君がそうやって叱ってくれるって思って。……切らなくちゃね」

 私は髪を弄びつつ、首を振った。

「ずっと待たせた罰。綺麗な髪の毛なんだからさ、手入れをさせてよ、大先生?」

 罰だなんて本当におふざけで。ただ、会えなかった分だけ、私が彼に甘えてみたかっただけなのに。

 大先生はやめてよ、と照れて笑う彼は、おもむろに立ちあがる。

「手を握っていてくれないかな」

 言われた通りに彼の手を握ると、川に向かって歩き始めた。

「原稿のラストシーンがなかなか書けない夜だった、ある夢を見たんだ」

 手を握る力が強くなる。

「夢の中で水の中に沈む僕を、君が引き揚げてくれた。そこまでは、何度も見る夢だった。だけど違った。夢の中の僕は、げえげえ口からなにかを吐き出すんだ。君が優しく背中をさすってくれるから、辛くても大丈夫だった。最初は飲み込んだ水かと思ったけれど、良く見るとそれは綺麗な――オフィーリアの絵にあるような花だったんだ。花は僕自身であり、沈みたい衝動そのものだった。だから、話の最後に花輪を流した」

 もう大丈夫。震える声の彼は恐る恐るしゃがむと、空いている方の手を川に浸した。


「さよなら、オフィーリア」

 

 浸した彼の手から、さらさらと花びらが流れた幻影が見えた。


 了


※元になった140字小説↓

夏至の昼も終わる時。この絵の題名は、と指さす彼の肩へ、軽く纏められていた長髪がほつれて流れた。柔らかな髪の毛を梳きつつ、歌いながら沈んだという絵の謂れを語る。水葬みたいでいいなと彼は儚く笑う。 #ノベルちゃん三題 己の不幸が分からぬまま沈む真似はさせまい。髪に触れる指に力がこもる。

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オフィーリアの花輪 服部匠 @mata2gozyodanwo

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